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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
Davar Kingdom of God
21 episodes
8 months ago
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浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時
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浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.20
そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸 地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進 んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった(出エジプト14:21-22)。 これは、エジプトから脱出したイスラエルの民が、水を通って新しく生まれ変わった時の話。海を分けた「強い東風」は、聖霊のこと。新しい創造の力であり、天地創造の初めに深みの水の上 を動いていた霊のこと。彼は、「光よ。あれ」ということばが発せられた時、光を生み出した。 この聖霊がイスラエルの民と共にいて、彼らを約束の地に導き入れた。それは、彼らが相続人で あったからである。次の世代の民が、ヨシュアを先頭にヨルダン川を渡って約束の地に入った時 も、聖霊は彼らと共にいた。 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、−−ヨ ルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが−−上から流れ下る水はつっ立って... 流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った(ヨシュア3:15-16)。 この時のイスラエルの民もやはり、水を通って新しく生まれ変わって相続人とされた。聖霊はそ のための保証であり、手付金。エリシャが、エリアに与えられていた霊を受けることによって、 彼を継ぐ預言者となったことも、同じ真理を示している。二人は、水が分けられたヨルダン川を 西から東に渡った。 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があな たのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの 霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った(2 列王2:9)。 「二つの分け前」とは、相続人が受け継ぐ財産のこと。エリシャは、竜巻に乗って天に上げられ て行くエリヤを見る中、願った通りにその霊を受けた。その時、彼が「わが父。わが父。イスラエルの戦車たちと騎兵たち」と叫んだことに注目。彼がエリヤのあとを継ぐ預言者とされたのは、 契約を破ってしまったイスラエルの国を再建するためであった。したがって、エリシャは、ヨシュアがしたように、ヨルダン川を東から西に渡り直した。契約の結び直しだ。水は両側に分かれ た。聖霊はまだ、イスラエルの国から完全に取り去られてはいなかった。国が滅び、全部の土地 を失っても、聖霊は彼らを見捨てなかった。バビロンの捕囚から帰ったイスラエル人たちに、神 様は次のように語られた。 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(エペソ1:13-14)。 エリメレクの畑の相続に関して、ナオミだけが残された望みであったように、国を失い、約束の 地から追放されたイスラエルには、まだ聖霊が相続の保証として働き続けていた。同じように、 今日キリストにあって相続人とされた私たちの中にも、相続の保証として聖霊が与えられている。 それは、モーセに与えられた霊を受けたヨシュア、また、エリヤに与えられた霊を受けたエリシ ャのように、私たちも、水を通って生まれ変わり、相続人として出て行って御国を勝ち取るため であった。 ...しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力 を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地 の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは 彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた(使徒 1:8-9)。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.19
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそ れを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受 け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるた めです。(エペソ1:13-14)。 三位一体のおひとりである聖霊なる神様は、天地創造の初めから、いつも裏方の存在として働か れた。 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は 仰せられた。「光があれ。」すると光があった(創世記1:2-3)。 光を造り出すための創造の力は、聖霊であったが、彼は、光そのものではなかった。聖霊は、エ デンの園を潤していた水、すべての命あるものを成長させて実を結ばせ、いのちの息として人を 生き物とした。でも彼自身がいのちではなかった。聖霊は、人の魂を神の愛で潤し、喜びに満た す。しかし、罪を犯した人間は、エデンの園にある水の源から離れ、荒野をさまようようになっ た。 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、 主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない(イザヤ41:17)。 イスラエルは神によって新しく創造された民。彼らは、荒野で岩が裂け、水が溢れ流れるのを見、 それを飲んだ。まさしく、水の源である神の霊が彼らの間に働いていた。エデンの園の回復であ る。聖霊は、彼らが相続人とされたことの証拠。この相続に関する聖霊の役目は、ルツ記の大切 なテーマでもある。ナオミの夫エリメレクの家族は、水不足による飢饉のためにモアブの地に行 った。士師の時代、イスラエル人たちは、征服できなかったカナン人に習って偶像を拝むように なった。そこで、せっかく相続した約束の地も、一時期手放すことになった(士師2:1-15)。そ れは聖霊との離別を意味する。ナオミは、エリメレクに死なれ、二人の息子にも死なれたが、こ れは、イスラエルの民と、やがて二つに分かれる王国の滅びを予知したもの。最後に残されたの は、ナオミと、彼女にしがみ着く、死んだ息子の異邦人の妻であったルツだけ。この状態で、エ リメレクの相続地はどうなるのか。十年も放置され、すでに他人の手に渡っていた土地はもう取 り戻すことはできない。最後の望みのひもは、ナオミの存在だけ。ミステリヤスなナオミの指示 に動かされた、遠い身内のボアズは、すでにルツと結婚する決心をしていた。彼は、買い戻しの 権利を持った人に言った。 私たちの身内のエリメレクの野の畑のことですが、モアブの野から帰ったナオミがその値に なっています。私は今、あなたの耳に入れて言います。「...それを買いなさい。もし、 あなたがそれを買い戻すなら、買い戻し、もし買い戻すつもりがないなら、私に分かるよう に言ってください。あなた以外に、買い戻す人はおらず、私はあなたの次ですから(ルツ4: 3)」。 アブラハムがマクペラの土地を銀で買ったのとは違い、この取引には金が関与していないことに 注目(使徒8:18 以降参考)。その代り、ナオミが「その値」ということだ。つまり、彼女を自 分の母として受け入れた者がその土地を受け継ぐ。まさしく、ナオミは聖霊で、御国を受け継ぐ ことの「保証(手付金)」であった。ヨハネがイエスの母を自分の家に引き取ったのと同じ。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女 の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその 弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、 この弟子は彼女を自分の家に引き取った(ヨハネ19:26-27)。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.18
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(ヨハネ14:16)。 この「もうひとりの助け主」と呼ばれる方は、普通に新約聖書で「聖霊」と呼ばれる三位一体の神のおひとりのこと。その方を、父なる神様が弟子たちに「お与えになる」という。ということは、 すでにイエス様をメシアとして受け入れていた弟子たちにも、まだこの時点では聖霊は与えられて いなかったということ。実は、聖霊が与えられることは、イエス様が弟子達の足を洗われた際に、 ペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係(分け前)もありません」と言 われた「分け前」のことであった。「分け前」とは、キリストを通して相続人とされた人が受ける 祝福のこと。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせ ず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたが たとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです(17 節)。 この聖霊が今度は「真理の御霊」と呼ばれているのは、彼が真理について証しする方であるから。 真理とはキリストのことを指し、しかも、それを信じる者が導き入れられる霊的現実のことである。 それに比べ、偽りの霊に支配される、この世の現実は真理ではなく、世は「真理の御霊」である「聖霊(聖い霊)」を見もしなければ、知りもしない(1 ヨハネ4:6、ヨハネ8:44)。しかし、キリストにある相続人には、その方が「ともに住み(とどまり)」、また「ともにおられる」という。 三位一体の神の家族の中に養子として受け入れられたからである。これは、人として来られたイエ ス様にも起きたこと。 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして 祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧に なった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ル カ3:21-22)。」 この聖霊なる神の働きを、ヨハネの福音書は、比喩的にイエス様の母にたとえて、その隠された真 理を描写している。イエス様のミニストリーの始まりを示す、水がぶどう酒に変えられた奇跡は、 その母の存在なくしては起きなかった出来事。母の胎に身ごもられた時から、彼を養い育てたのは 聖霊様ご自身であった。彼が誰であるのか、まだ何も知らなかった人間たちとの間を取り持って、 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と、彼らを助けた母の存在は、聖霊の働 きそのものを表している。それが結婚式の場であったのは、やがて起きるキリストと教会との結婚 を比喩的に表したもので、水とぶどう酒は、彼の脇腹から流れ出た水と血のこと。そして、その裏 で全部を取り持ち、事を運ばれた隠れた存在が、聖霊様であって、ルツ記のナオミに当たる。私た ち教会はその方の導きによってキリストと巡り会い、彼と結婚することになった。 イエスは、母と、そばに立っている、愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの 息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。 その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った(ヨハネ19:26-27)。 この時までイエス様とともに住み、ともにおられた彼の母は、彼のもとを離れてヨハネの母となり、 ヨハネは彼女の子どもとなった。これが、教会と聖霊との関係。言い換え れば、聖霊は、教会が相続人の集まりであることの証拠であり、御国を受 け継ぐことの保証(手付金)である。これが、ルツ記の土地の買い戻しの 際に、ナオミの存在が果たした役割に当たる。教会は、聖霊様の存在をも っと敬うべきである。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.17
さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受 けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をし て、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あな たは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:21-22)。」 ここに、いわゆる三位一体の神が生揃いしている。ひとり子の神は霊としてイエス様の中に住まれ、 彼がバプテスマのヨハネから洗礼を受け、水から上がって来られると、そこへ聖霊なる神が鳩の形 をして下って来られ、彼の上にとどまられた。それと同時に、天から父なる神様の声がして、イエ ス様に向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語られた。これは、 次のみことばの成就であった。 わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。 「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あな たの所有として与える(詩篇2:7-8)。」 イエス様のミニストリーは、このようにして始まった。彼も人として(正確には、たましいの部分 が)、この時神の子として三位一体の神の家族の中に受け入れられた。子であるならば、相続人で あり、ヨシュアがしたように、ご自分の「ゆずり」や「所有」として与えられた「国々」を奪い取 り、地上の「果て果てまで」神の国を築き上げていくことが目的であった。サタンは、まさにその 所に関して彼を誘惑した。 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、 命じなさい。...あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。...もしひれ伏して私 を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう(マタイ4:3-9)。」 これら誘惑はみな、彼が神の子として受ける相続に関するもの。それは、彼のミニストリーの目的 が、失われてしまった世界の相続権を再び人間に与えるためであったことを、サタンはよく知って いたからである。しかし、イエス様の「引き下がれ、サタン」ということばに、彼は従った。 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた(11 節)。 キリストとの共同相続人は、彼と全てを共有している。御使いたちが彼に仕えたならば、彼らは同 じように全ての相続人にも仕えている。 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではあ りませんか(ヘブル1:14)。 実は、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」ということばも、イエス様だけに 対するものではなかった。彼が洗礼を受けるためにヨハネの所に行かれた時、ヨハネは自分こそが 彼から洗礼を受けるべきだと言ったが、その時、イエス様は言われた。 今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたした ちにふさわしいのです(3:15)。 「わたしたち」ということばに注目。イエス様も人として、全ての者が踏むべき正しいステップを 踏んで、洗礼を受け、神の子とされ、相続人となられた。そうならば、私たちもその同じステップ を踏むことによって、神の子どもとされ、同じ相続権を持つようになるはず。そして、その時に語 られた「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」ということばも、そのまま全ての 相続人に当てはまる。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.16
さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が 妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした(ルツ1:1)。 ルツ記は、聖書の中で女性が主人公になっている、数少ない本の一つ。話そのものは、ベツレヘム を離れて未亡人となったナオミと、モアブ人でその義理の娘となったルツが、ベツレヘムに戻り、 どのようにして生き延びていくか、という話だが、その裏に、どんな人がダビデの系図の中にいて、 どんなことが起きたのかを述べることも一つの目的であった。ナオミは、自分に付いて来ようとす る二人の義理の娘に対して、それぞれの母の家に帰り、もう一度結婚して幸せになるように勧める が、ルツだけはいっこうに去ろうとはしなかった。ルツは言った。 あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる 所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の 神です(16 節)。 これは、ちょうどラハブが二人の斥候に、イスラエルの神を自分の神として信じる告白をしたのと 同じで、異邦人である者が、その信仰によって相続人として受け入れらたことを示している。 ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何 も言わなかった(18 節)。 二人がベツレヘムに着いて彼らの細々と生活が始まったのが、ちょうど大麦の刈り入れの頃で、直 ぐに過越の祭を祝う時期であったのは、偶然ではなかった。ルツが食料を得るために落ち穂拾いに 出かけると、それがたまたま、ナオミの夫の側の買い戻しの権利を持つボアズの野であった。彼女 は、それとは知らず、そこで働く者たちの世話役の人に、刈った大麦の束がまだ野にある状態で、 その束の間に行って、落ち穂を拾わせてもらうことを頼んだ。それは普通には許されないことで、 世話役は、主人のボアズが来るまで待つように言ったので、彼女は待っていた。そこへ、ボアズが 登場した。 ちょうどその時(文字通り、見よ!)、ボアズはベツレヘム(「パンの家」の意味)からやっ て来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主 があなたを祝福されますように」と答えた(2:4)。 まるで、食料に困る二人の未亡人を救う救い主が登場したかのように、挨拶のことばが表現されて いる。イエス様のエルサレム登場を思わせる。ルツ記の一つの特徴は、この短い話の中に、何かも っと大きなレベルのことや、後に起きることなどを、比喩的にほのめかすようにその表現や描写が されていることで、これもその一つ。ボアズはルツに言った。 娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしては いけません。...私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておき ました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい(8-9 節)。 ボアズは、彼女に、自分の家の女たちに混じって落ち穂を集めることを許し、水まで自由に飲ませ るようにした。完全に、彼女を特別扱いしている。それだけではなく、食事時には、彼女に働く者 たちと一緒に座らせて食事をさせ、ボアズ自身が入り麦を取って彼女に渡す と、彼女はそれを十分に食べ、余った物を家に持ち帰ってナオミに食べさせ た。これが、神とその祝福から離れた異邦人であったにもかかわらず、信仰 によって神の家族に受け入れられ、相続人とされた私たちである。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.15
ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出した ので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ(ヨシュア2:21)。 「赤いひも」ということばは、この話の中で二回出てくるが、18 節では「ティバット・フート・ ハシャニー・ハゼ)」であったのが、この21 節では、「ティクバット・ハシャニー」と短くなっ ている。両方ともに、「ティクバット(ひも、または希望)」ということばはそのまま使われてい る(「ひも」の意味では、聖書でこの2 箇所だけ)。まさしく、この「赤いひも」がラハブとその 家族に、しいては人類全体にも救いを与える「希望」であった。事実、彼女は、その後、イスラエ ル人の中に住み続け、ユダ族のサルモンと結婚し、ボアズを生み、ボアズにモアブ人のルツによっ てオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデが生まれ、その子孫としてイエ ス・キリストが生まれた(マタイ1:4 以降)。ラハブは、異邦人が相続人とされて用いられた典 型であり、それは彼女の信仰によった。 「赤いひも」の「赤い」というのは、血の意味で、やがてキリストを通して流される、贖いの血を 指していることを先回学んだが、今回は、それがどのようにして私たちを贖うことになったのかを、 簡単に見てみよう。まずは、次のようなみことばに注目。 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵 みによることです(エペソ1:7)。 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。ま た、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです(ヘブル9:22)。 まず第一に、イエスの血は「罪の赦し」を与えるもの。義なる神にとって、人の罪を赦すというこ とは簡単なことでなかった。それには、二つの面があった。まず、罪によってサタンの奴隷となっ た者を、神が代価を払うことによって買い取ってくださったということ。その代価がイエスの血で あった(1 コリント6:20、マタイ27:6 など)。次に、罪によって神の怒りの対象となった私た ちを、その怒りから救ってくださったということ。不義なる者は、義なる神の目にかなうことはな く、その怒りの対象となる。怒りは、義の不義に対する必然的な反応である。そして、神の目にか なわない者が相続人として祝福を受けることは不可能。そのために、神はご自分の怒りをご自身の ひとり子の上にぶつけられた。これによって、神は、ご自身の義と愛の両方を明らかに示された。 つまり、ご自分の義に対して妥協することなく、罪を赦すという愛を示された。 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから 救われるのは、なおさらのことです(ローマ5:9)。 したがって、イエスの血は私たちに義をもたらした。これが第二の真理。そして、義とされた者は、 大胆になって神の臨在の中に入っていくことができる。 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよ い水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(ヘ ブル10:22)。 これが第三の真理で、神の相続人として受ける祝福の土台といえる。この大胆さがなければ、神を 求めて礼拝することも、祈りで神に願うこともできない。霊的な麻痺や鈍感さは、心の奥底に潜む 罪責感のせい。しかし、キリストの血の注ぎを受けた私たちは、霊的な活気と熱心さを持って、大 胆に神の御前でその祝福を奪い取っていくこと。これが相続人の姿。
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9 years ago
1 hour 6 minutes 32 seconds
ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.14
私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを 結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を 全部、あなたの家に集めておかなければならない(ヨシュア2:18)。 これが、破壊から救われるために遊女ラハブがしなければならないことであった。「この赤いひも (ティクバット・フート・ハシャニー・ハゼ、文字通りは、この赤い糸のひも/布)」と訳されて いることばには、深い比喩的な意味が隠されている。まず、日本語の訳に比べ、ヘブル語では随分 長いことに気づく。その意味を全部正確に訳すことは不可能。「ハシャニー」の「シャニー」とい うことばが「赤い」という意味だが、これは日本語の「朱に染まる」という表現の語源であった可 能性が高い。 実は、シャニーと呼ばれる色のひもや布は、ある種の樫の木(Kermes oak)に寄生する昆虫(coccus ilicis)から取れる染料によって染められたもののこと。この染料で染められたひものことが、ら い病から癒された人の清めに関する規定の箇所にも出てくる。 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸(シュニー・トラアト)とヒソプといっしょに取り、 湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す(レビ 14:6)。 この赤いひもで、杉の木とヒソプを縛り、水と血の混ざった中に浸し、それで、らい病から癒され た人に振りかけ、生きた小鳥は野に放った(51-52 節)。これらは十字架(杉の木)につけられた イエス様のことを予言したもの。彼の体が水と血を絞り出されるヒソプで、紅い羊毛はそこから流 れ出る血を表す。この染料を作るための虫をトラアトと呼び、次のようなみことばが詩篇にある。 しかし、私は虫けら(トラアト)です。人間ではありません。 人(アダム=赤)のそしり、民のさげすみです(詩篇22:6)。 このトラアトとは、世界を清めるために血を流されたキリストのことを指し、このみことばは十字 架の上での彼の姿を予言したもの。 もう一つ注目すべきことは、上の「赤いひも」という表現の最初のことば、「ティクバット」(21 節にも使われている)は、そのままの発音で、「希望」の意味もあって、この「赤いひも」が、ラ ハブとその家族にとっては、まさに救いの希望であったことを示している。同様に、私たち、キリ ストを信じる者にとっては、彼の流してくださった血潮が救いの綱であり、唯一の望みである。 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。ま た、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです(ヘブル9:22)。 罪の赦しがなければ、義とされることはなく、義とされなければ、相続人であることはなく、相続 人でなければ、神の約束による祝福を受けることはなく、のろいの下に生き、死と同時に地獄に落 とされる。 わたしは、人間(アダム)の綱、愛のきずなで彼らを引いた。 わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせ てきた(ホセア11:4)。 「人間(アダム)の綱」とは、「赤(アドム)の綱」のことで、人間になられたキリストの流して くださった血(ダム)の綱であり、神の私たちに対する「愛のきずな」である。この綱で、エリコ に遣わされた斥候も追手から救われたが、同じ綱で、ラハブとその家族も救われ、私たちキリスト にある者も、破壊から引き抜かれて救われた。まさに、これこそが、私たちにとっての命綱である。
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9 years ago
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.13
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、 イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、...サルモンに、ラハ ブによってボアズが生まれ、ボアズに、...エッサイにダビデ王が生まれた(マタイ1: 1-6)。 聖書の系図は、単にイスラエルの民の先祖が誰であったのかを示すものではなく、神の定めによ る相続権がどのようにして引き継がれて来たかを示すものである。アダムの時の相続権は、罪の 結果、人類から取り去られたが、アブラハムの時、その子孫によって相続の民が起こされ、しい ては、世界中の民も相続に入れられる約束が与えられた。したがって、上の系図では、アブラハ ムから始まり、その約束がキリストにあって成就したことをほのめかしている。つまり、神の相 続権が、キリストの死と復活を信じる、あらゆる国の人々にも与えられるようになった。そして、 この真理を裏付けるかのように、上の系図には、ラハブの名が出てくる。彼女は、エリコの町に 住むカナン人の女で、遊女であった。 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行 って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、 そこに泊まった(ヨシュア2:1)。 エリコは、契約の箱をかつぐ祭司たちが町の周りを回り、角笛の音と同時に、 民がときの声をあげた時、その城壁が崩され、神の奇跡によって滅ぼされた 町である。全てが聖絶され、次のような呪いが誓われた。 この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、 その門を建てる者は末の子を失う(6:26)。 そんな町の一人の住民で、しかも遊女であったものが、神の相続人として選ばれ、しかも、彼女 の子孫から、ダビデ、そしてイエス・キリストが生まれるようになったことには大きな意味があ る。 彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。...しかし、遊女ラハブとその父の家族 と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中 に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者 たちを、ラハブがかくまったからである(24-25 節)。 「ラハブがイスラエルの中に住んだ」とは、彼女が相続人の中に加えられたことを指す。彼女は ユダ族のサルモンと結婚し、息子のボアズが生まれ、ボアズはモアブ人のルツと結婚した。そし て、ヨシュア記が書かれた頃、彼女はまだ生きていたようだ(おそらくベツレヘムに住んでいた)。 彼女がこのように相続人とされ、キリストの系図の中に入れられたのは、彼女が次のように告白 したからである。 主がこの地をあなたがたに与えておられること、...私は知っています。あなたがたがエ ジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、... 私たちは聞いているからです。...あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神で あられるからです(2:9-11)。 救われたのは、彼女だけではなく、彼女の家族、彼女に属するすべての者 たちも破壊を免れ、相続人としてイスラエルの民の中に住んだ。
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9 years ago
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.12
信仰の戦いを勇敢に(文字通り、信仰の良い戦いを)戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あ なたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました(1 テモテ6: 12)。 人が神の相続人となるのが、信仰によるならば、その相続人が受ける相続の祝福も、すべて信仰に よってのみ受けることができる。したがって、それらの祝福を得ようとする相続人がこの世でする 戦いは、常に信仰の戦いと言える。それが戦いであるのは、この世界がまだ破壊の中にあり、創造 の業を受けようとすると、そこにどうしても摩擦が生じるからである。上のみことばは、相続人た ちに、その「信仰の良い戦い」をするように励ましている。つまり、神様は、ご自分の子どもとな った者に、その戦いを、みことばに沿って正しく、すでにキリストにあって勝利していることを信 じて、戦いから逃げるのではなく、喜びを持って勇敢に戦って行くように勧めておられる。 では、相続人が実際、どんな種類の戦いを戦うのか、聖書から少し見てみよう。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのも のはすべて与えられます(マタイ6:33)。 人が生存するために必要な物を得るように働かなくてはならなくなったのは、罪の結果であった。 しかし、キリストにあって、罪から贖われた相続人は、天地を創られた神を自分の「天の父」とし て、自分の必要がすべて満たされることを信じ、その代わり、神の国とその義とを全身全霊で求め ていくことを、このみことばは勧めている。いうまでなく、それは「信仰の良き戦い」であり、こ の戦いに負ければ、神の国よりも自分の必要を満たすことを先に求めて生きて行くことになる。 もう一つ、誰もが戦う戦いがある。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というみことば を受け入れる私たち相続人には、病との戦いも「信仰の良い戦い」である。「キリストの打傷のゆ えに、あなたがたは、いやされたのです(1 ペテロ2:24、イザヤ53:5)」という霊的現実を受 け入れる者にとって、病からの解放は、罪からの解放と同じ。ただし、それも自動的に起きるので はなく、信仰において戦うことによって健康を勝ち取って行く必要がある。イエス様はある時、中 風で歩けない人に向かって「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい(マタイ9:6)」と 言われた。すると、すでに罪の赦しを受けて相続人となっていたその人は、そのことばのとおり、 長い間使ったことのない自分の足で立ち上がろうと努力した。その瞬間、いやしは起きた。彼は信 仰の戦いに正しく戦い、勝利した。 ヨシュア記に、相続地が与えられるという神の約束を信じて、水が激しく流れるヨルダン川を渡り、 約束の地に入って行ったイスラエルの民の話がある。神様は契約の箱をかつぐ祭司たちに命じて言 われた。 ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない(ヨシ ュア3:8)。 そして、聖書は次のように言っている。 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、−−ヨル ダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが−−上から流れ下る水はつっ立って、... せきをなして立ち、...水は完全にせきとめられた(15-16 節)。 この奇跡は、ヨシュアも、祭司たちも、また民全体が神様のことばを受けて、それに忠実に従った 結果である。これを、民数記13-14 章で約束の地を偵察したスパイたちの報告を聞いて、嘆き、エ ジプトに帰るように願ったイスラエルの民の態度と比べると良い。大きな違いを見るが、この違い こそが、神の相続の祝福を受けるか、受けないかの違いをもたらす。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.11
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく 攻める者たちがそれを奪い取っています(マタイ11:12)。 キリストにあって相続人とされた者が相続するのは、霊的な天の御国であり、それを、相続人は激 しく攻めることによって奪い取って行く必要があることを先回学んだ。御国が目に見えるものでは ないならば、それを勝ち取る戦いも目に見えるものではない。それでは、相続者はいったいどんな 戦いをするのだろう。 信仰の戦いを勇敢に(文字通り、信仰の良い戦いを)戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あな たはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました(1 テモテ6:12)。 私たち相続者の戦いは、一言で言えば、信仰の戦いである。「信仰の良い(文字通り、正しい)戦 いを戦う」とはどういう意味だろうか。どんなスポーツのゲームにも、戦うためのルールがあって、 それを無視すれば失格となる。信仰の戦いは、聖書に書かれたルールに従って「正しく」戦う必要 がある。実は、私たち相続人は、勝つか負けるか分からないような戦いをしているのではく、この 戦いは「良い戦い」である。さらに、「戦い」と言うと、良くないものと考えてそれから逃げよう とするのが普通だが、相続人にとってこれはするべき「良い戦い」である。民数記13-14 章では、 まさに、この「良い戦い」をすることによって相続地を奪い取ることを、神様ご自身がイスラエル の民に要求されたことを見た。しかし、戦うことを拒否した彼らは、みな荒野で死んだ。その反逆 は、金の子牛を作った時の罪に匹敵する大きなものであった。キリストを信じることによって神の 相続人とされた者が、聖書の約束する祝福を軽く考え、戦わずして、サタンの支配に自分を委ね続 けることは、キリストの払われた犠牲と、神様の恵みを無駄にすることであり、何よりも大きな罪 である。 そして、さらに相続人に要求される大切なことがある。私たちが奪い取るべき相続地は、自分だけ のものではない。モーセの死後、神様はヨシュアに言われた。 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モー セとともにいたように、あなたとともにいよう。...強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼 らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ (ヨシュア1:5-6)。 ヨシュアが戦おうしていた戦いは、自分の相続地のためではなく、イスラエルの民全体が受ける相 続地のためであった。もしあなたが、このことばを、特別に選ばれたヨシュアだけに者に対するも のだと理解するならば、それだけのことになる。もしあなたが、神の相続人として選ばれ、聖霊を 受け、神の働き人として訓練を受けているならば、これはあなたにも当てはまる。実は、イスラエ ルの十二部族の中で、ルベン人、ガテ人、そしてマナセの半部族は、この時すでに、ヨルダン川の 東側に自分たちの土地を得ていたが、神様はそんな彼らに、まだ相続地を得ていない部族のために、 軍の先頭に立って、ヨルダン川を渡り、戦いに出て行くことを要求された。 しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、 彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与 え、彼らもまた...地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあ なたがたに与えた...あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる(14-15 節)。 これがまさしく、神様が、相続人とされたあなたに、まだあなたがこの地上にいる間にして欲しい と願っておられることである。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.10
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく 攻める者たちがそれを奪い取っています(マタイ11:12)。 神の相続人となった者は、神の国を受け継ぐ者とされた。神の国(天の御国も同じ)とは、神のみ こころである良い業、すなわち、健康と豊かさ、愛と平和、そしていのちの回復と新しい創造のな される国のこと。バプテスマのヨハネは、肉にあるアブラハムの子孫であるだけでは、相続人とは なれないことを説いて、罪からの悔い改めのバプテスマを授けた。そのことばを受けて、多くの人 が罪を悔い改めることによって心から義を求めるようになった。その結果、霊的な神の国の祝福を 得ようと激しく求めてくる人々が増え、神の国が奪い取られていると、イエス様が証言された。こ れこそが、ヨハネのあとを引き継いで御国の宣教を開始されたイエス様のミニストリーの本質であ って、福音書は以下のように描写している。 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、 あらゆるわずらいを直された。...それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪 霊につかれた人、...みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。こうしてガリラヤ、 デカポリス、...ヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った(4:23-25)。 ここに、神の相続人が約束された祝福を受けるための非常に大切な真理がある。まず第一、神の国 は激しく奪い取るもので、求めないことには相続することのできないもの(ここで言う「神の国」 は天国のことではない)。いくらキリストにある相続人であっても、何もせずにいれば、何の祝福 も受けない。次に、相続人は、出て行って戦いをすることが要求されるということ。圧倒的勝利者 とは、戦いに出て行く人に当てはまることで、勝利者は、この世におけるサタンの働きを崩し、そ こに神の国を築いて行く。これは、ちょうどエジプトを脱出して相続人とされたイスラエル人たち が、約束の地にイスラエルの国を築くために、戦いをしてその地を勝ち取って行くことが要求され たのと同じ。 主はモーセに告げて仰せられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとして いるカナンの地を探らせよ(民数13:1-2)。」 アブラハムの時からその子孫に与えられると約束されていた相続の地は、自動的に与えられたので はなかった。彼らがその土地を欲しいと願うことによってそれを奪い取って行くことが要求された。 ところが、帰って来たスパイたちの報告を聞いた民たちは言った。 私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがまし だ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか(14:2-3)。 彼らは、恐れとつぶやきによって戦いに出て行くことを拒否し、神が与えると約束された相続地を 得たいという願いさえも捨てた。これがどんなにひどい神への反逆であったのか、彼らには何も分かっていなかった。 主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行っ たすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか(11 節)。」 同様に、世から脱出して相続人とされた私たちが、キリストの兵士として、戦いを持って暗闇の地 を勝ち取り、神の国を築いて行くことをしないでいるのなら、相続人としての役目を果たしていな いことになる。さあ、ヨシュアとカレブのように、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占 領しよう。必ずそれができるから」と言おうではないか。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.9
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与 えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです(ローマ14:13)。 人が神の相続人であるためには、神の御前で完全に義とされていることが絶対的条件である。罪を 犯している者は、相続人となることはできず、聖書の与える祝福の約束とは何の関係もない。 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされて はいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者...略奪する者はみな、神の国を相続するこ とができません(1 コリント6:9-10)。 この真理は、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べた時も、カインがアベルを殺した時も、 ノアの洪水の時、さらに、洪水後、ノアの子どもであるハムの子孫(カナン人)に起きたことなど からも分かる。神の義と神の相続は引き離すことができない。そして、その義が、律法を守る行い によるのではなく、キリストの復活を信じる信仰による義であることを、聖書ははっきりと教えて いる。 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」 とあります(ローマ4:3)。 これが、パウロ自身が聖霊によって教えられた、創世記15 章前半の話の解釈の仕方である。律法 を守ることに命をかけていたパウロにとって、アブラハムが、律法の与えられる前に律法なしで義 とされたという事実は、大きなショックであった。しかも、次のように主がアブラハムに語られた。 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。 ただ、あなた自身(あなたの内側)から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければなら ない(創世15:4)。」 「あなたの内側(メエー)」ということは、アブラハムの外側の(生物学的な)子孫とは別に、彼 の信仰に習い、信じることによって、霊的に生まれてくる子孫のことを指す。つまり、「心に信じ て義と認められ、口で告白して救われた」人々、霊的に新生を体験した人々のこと。 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるため であり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、ア ブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国 の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです(ロ ーマ4:16)。 もはや、ユダヤ人と異邦人の違いはなく、異邦人も同じアブラハムを父とする相続人であり、神の 選びの民であり、王なる祭司、セグラーなる、優れた民族である。アブラハムが祝福され、彼を祝 福する者が祝福され、彼自身が祝福となったという現実は、全部そのまま、その子孫にも当てはま る。神様が創造の初めに、人を宇宙の相続人とされたが、それがキリストにあって再び戻って来た。 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続 人となるためです(テトス3:7)。 大事なことは、キリストの死と復活を通して、自分が完全に神の義とされたという信仰の上にしっ かりと立つこと。それを疑い、罪責感を持つ時、あなたは相続権を失い、猛禽があなたの上を飛び 回り、サタンの攻撃の餌食となる。
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王なる祭司
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。 それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすば らしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです(1 ペテロ2:9)。 「王なる祭司」ということばに注目。実は、旧約聖書では、王と祭司は全く別の存在で、王が祭司 でもあることは不可能であった。サウル王は、自分でいけにえを捧げた時、王から外された(1 サ ムエル13 章)。ウジヤ王は、晩年高ぶって神殿の中に入って香を焚いたが、それを祭司たちに止 められて怒ったため、突然らい病に冒されて死ぬまで治らなかった(2 歴代26 章)。ところが、 上のみことばによれば、キリストに付く者たちが、「王なる祭司」、つまり、王であり、同時に祭 司であるという。 そもそも、創世記1 章によれば、罪を犯す前の人間は、「神のかたちとして」地を支配する王であ った。また2 章によれば、人は、神の歩き回れるエデンの園を守り、そこで神に仕える祭司でもあ った。しかし、罪によってエデンの園から追放されて祭司職を失い、地の支配権をサタンに奪われ て王権もなくした。その状態の続く中、ノアの洪水の後、人々は東の方に移動して、シヌアルの地 に集まり、次のように言った。 さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らさ れるといけないから(創世11:4)。 彼らは二つのことをしようとした。一つは「町を立てる」こと、もう一つは「頂が天に届く塔を建 てる」こと。町を立てるとは、それを治める者(王)を立て、何らかの政治的組織を築くことと同じ。塔を建てるとは、天と地を結ぶ神殿に当たるものを作り、そこで自分たちの神を拝み、祭司の 務めを果たすことを指す。問題は、それらを「われわれ」の意思と考えによって成し遂げようとし た点にある。一方、アブラムの場合は、主ご自身が彼に次のように言われた。 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そう すれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものと しよう。祝福となれ!...地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:1-3)。 こちらは、多くの人々がシヌアルのバベルでしようとした二つのことを、アブラムという一人の人 間を通して、「わたしは(が)...」と言われる神ご自身が計画を持って成し遂げて行かれる。 バベルの塔に対比して、アブラムは自分に直接現れてくださった主のために祭壇を築いた。よって、 彼は祭司であった。また、14 章では、バベルの塔の事件後、シヌアルの地方に居残った民の王た ちがソドムとゴモラの地方に攻めて来て、そこの民を分捕り物と一緒に連れて行ったが、そのニュ ースを聞いたアブラムは、318 人のハニキームを連れて、王たちと戦い、民も略奪品も全部奪い返 して、勝利の凱旋をした。アブラムは王であった。この勝利は、11 章のバベルの塔における人類 の反逆に対するもので、やがてキリストを通して実現される、人類の救いの業を予表している。凱 旋したアブラムを出迎えた、「サレムの王」でもあり、「いと高き神の祭司」でもあったメルキゼ デクが、彼を祝福したことには大きな比喩があり、やがてキリストを通して成し遂げられる、サタ ンの支配と束縛からの勝利と、それに伴うすべての霊的な祝福の回復を意味している。誰でもキリ ストを信じる者は、彼のように、王であり、祭司である。 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人 たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権 を与えます(ルカ22:28-29)。 聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが だれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります(ヨハネ20:22-23)。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.8
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから(正 しくは、東のほうへ)移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した(創世 11:1-2)。 このように始まる、バベルの塔の話だが、見どころは、次の12章に出てくるアブラハムの話との 比較にある。ノアの洪水の後、人々はアララテ山から東のほうへ移動し、シヌアルの地(ペルシャ 湾の北西の地域)に住み着いた。逆に、アブラムは、そのシヌアルの地にあるウルという町から、 西の方へ移動し、カナンの地に来た(11:31)。しかも、主の命令によって来た。 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい(12:1)。」 ところが、バベルの塔の話では、民が自分たちの意志と考えによって町と塔を建てようとした。そ れが次のようなことばによく表現されている。 彼らは互いに言った。「さあ、(われわれは)れんがを作ってよく焼こう。」...そのうち に彼らは言うようになった。「さあ、われわれは(われわれのために)町を建て、頂が天に届 く塔を建て、(われわれのために)名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないか ら(11:3-4)。」 「われわれ」という主語に注目。全てが彼らから出たことで、自分たちのためであった。これに比 べ、アブラムの場合は、神様の強い意志と願いによった。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、(わたしは)あなたを祝福し、(わたしは) あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる(正しくは、あなたは、祝福となれ!)。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:2-3)。」 「わたし」という主語に注目。また、「祝福となれ!」という非常にまれにしか使われないヘブル 語のBe 動詞の命令形は、話し手の相手に対する強い願いを表す。しかも、最後の「地上のすべて の民族(たち)は、あなたによって祝福される」ということばに注目。一人の人から始まり、多く の国民へと祝福が流れ、彼らが再び集められて、一つになることをほのめかしている。しかし、バ ベルの塔ではこの逆が起きたこと。 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたの なら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、(われわれは)降り て行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう(11: 6-7)。」 人々が一つになろうとしたが、かえって散らされた(「(われわれは)降りて行って」は皮肉)。 何がいけなかったのか。実は、ここにこそ、人類の罪過の源(目)がある(ゼカリヤ5:6)。一 つ頭に置いておくことは、人はエデンの園から追放された後、天地を繋ぐ軸としての聖所をなくし た。それなくしては、神の与える相続の地とは言えない。人は放浪の人生を歩むしかない。それを 自らの手で築こうとしたのがバベルの塔であり、偶像礼拝であり、すべての肉によるむさぼりであ る(エペソ5:5)。それに対して、神様の方法によって人類に再び聖所を与え、人々を信仰によ って世界の相続人とするという計画が始まったのがアブラムであった。 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるため であり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです(ローマ4:16)。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.7
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしる しとなる(創世9:13)。 「わたしの虹」の「わたしの」という代名詞に注目。あたかも、神様自身の持ち物の ように言っている。ヘブル語の「虹(qesheth)」ということばは、そのままで「弓」 という意味もある。なぜなら、虹は弓の形をしているから。弓は聖書の中で勝利の シンボル。人類の最大の戦いは死との戦いだが、自分でそれに勝つことは絶対に不 可能。しかし、神はご自分のひとり子をこの世に遣わし、人間の罪を負わせて死に 渡し、よみにまで下さらせ、そこから、一気に復活させ、高く上げてご自分の右の座に着かせられ た。まさしく、空にかかった虹の弓で、地の下に向けて引っ張られた矢が、天に向かって放たれた ようだ。その矢は地獄の壁を突き破り、全地を覆っていた死の雲を一気に吹き飛ばした(バビロニ アの星運によれば、やりの星であるシリウスは海の水の深さを測り、洪水の水位の下がる夏の間、 夜の空高く上がる。また、弓は、戦いの女神イシュタルの武器で、彼女を「弓の星」 とも呼ぶ)。 永久に死を滅ぼされる(呑み込んだ)。 神である主はすべての顔から涙をぬぐい、 ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。 主が語られたのだ(イザヤ25:8)。 「永久に(la-netsah)」とは、「勝利に」という意味もあるので、パウロは、これを引用して次 のよう言っている。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」 としるされている、みことばが実現します(1 コリント15:54)。 「勝利」ということは、これが戦いであったことを示し、洪水の後の「弓」、即ち、天と地の間に かかった「虹」のことである。キリストにある者にとって、死は何の力もなく、ただ、この地上の 体から天上の体に移されるだけである。この意味での復活は、単に死から生き返ること、あるいは、 地獄から出て来ることだけを指すのではなく、天に高く昇っていくことも含まれている。イエス様 自身も、それを大切な最終的ゴールとしていつも語られた。 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか(ヨハネ6:62)。 わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わ たしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わた しの神またあなたがたの神のもとに上る」と告げなさい(ヨハネ20:17)。 他にも、手紙の中に天に昇られたキリストのことが大切なこととして何度も書かれている。 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:8-9)。 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです(ヘブル9:24)。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキ リスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。... 私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです(ローマ8:34)。
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子としての祝福 No.6
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、 万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、 永久に死を滅ぼされる。 神である主はすべての顔から涙をぬぐい、 ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。 主が語られたのだ(イザヤ25:7-8)。 これが、イエス様の墓の中でヨハネの見た二つの種類の布に関する 聖書のことばであった。これらのおおいは、万民や万国を包むほど の大きなもので、人の死をシンボル的に表したもの。ちょうど、ノアの時代に、神様が罪の広がった世界を洪水で破壊した時の様子に よく似ている。その時には、「巨大な大いなる水の源が張り裂け」、 水が空に舞い上がり、濃い雲となって全地を覆い、「天の水門が引かられて」土砂降りの雨が降り続けた(創世7:11)。エノクが自分の子にメトシェラ(死を送る の意味)という名を付けて予言した通りに、メトシェラの死と同時に洪水が来た。まさに、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」ということばの実現であった(6:7)。 ところが、その洪水が終わって水が引いた時、箱舟から出たノアは、神の怒りのなだめのための全 焼のいけにえを捧げた。すると、神様は次のように言われた。 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、-地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、 これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている (9:1-2)。 ノアの家族を神の相続人として選び、彼らから世界のやり直しである。人を相続人とするという、 最初の時の神様の計画は変わらなかった。ただし、人の世界に罪が入り、人が罪人になったことは 変わっていなかったので、上のことばは、「それにもかかわらず」語られたことばであった。言い 換えれば、神様は、人を一方的な恵によって贖うことによって、相続権を完全に回復させる計画を 立てられた。 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣 にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を 流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから(5-6 節)。 これは、殺人に対する死刑を合法化したものというより、やがて、罪人を贖うために要求される、 キリストのいのち、その血の代価のことを予言したもの。それは、神と人、またすべての生き物と の契約を意味し、神様は、その契約のしるしとして「虹」を与えることを約束された。 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わ たしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。...大水は、すべての肉なるものを 滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべ ての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう(13-16 節)。 虹は、雨が止んで雲が去っていく時、雲の間から光が差し込んで現れるもの。洪水と雲は死と破壊 のシンボルであり、死なれたキリストの体を覆っていた布のこと。虹は、死の終わりを告げるもの で、キリストの復活を指すことは言うまでもない。これが永遠の契約のしるしであり、それを信じ る者は、死に勝利し、神の子どもとして御国を受け継ぐ相続人である。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.5
これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女 とに彼らを創造された。...アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子 を生んだ。彼はその子をセツと名づけた(5:1-3)。 「彼に似た(デムート)」と「彼のかたち(ツェレム)」という表現の二番目の意味として、人が 「神のこども」として、神の品性に似たものとして造られたことを先回学んだ。言い換えれば、人 は霊的に、神からのDNA を受けた存在で、それが、アダムからその子どものセツに、さらにその子 どもたちにと引き継がれていった。ただ注目すべきは、罪が世に入って来てからの世界においては、 相続人と言っても、限られた人だけに当てはまり、普通は長男に当たる子ども一人が相続人とされ た。 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生 きた。こうして彼は死んだ(4-5 節)。 ここで、「息子、娘たちを生んだ」ということばに注目。セツの他にも、子どもたちが生まれたが、 相続を受け継いだのは名前が記されているセツだけ。実は、四章によれば、セツは長男ではなく、 彼の上にカインとアベルが生まれていたことが分かる。本来、カインが相続人となるところを、彼 が外され、弟のアベルが選ばれたことが以下の描写から分かる。 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼 の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留 められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく 怒り、顔を伏せた(4:3-5)。 カインのささげ物が神に受け入れられなかったのは、彼が指示されたとおりに正しくささげなかっ たことが理由であった。自分の代わりに弟のアベルが相続人となり、祝福されていくのを見て、彼 は妬み、ついにアベルを殺してしまった。妬みは、罪の中でも一番質の悪いもの。イエス様が殺さ れたのも同じ理由であった。主は彼に宣告された。 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの 弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその 力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ(11-12 節)。 この最後の表現は、土地が相続として与えられないことを指す。しかし、あらわみ深い神様は、彼 が復讐によって殺されないように、彼に一つのしるしをお与えになった。 したがって、本来カインが相続人となるはずであったのが、彼の罪がゆえに外され、弟のアベルが 選ばれたが、そのアベルが殺されてしまった。それゆえ、次のセツが相続人とされた。セツの次に は、エノシュ、次にケナン、次にマハラルエル、次にエレデ、次にエノクという具合に選ばれ、ノ アの時代になる。すぐに気が付くことであるが、当時の人間たちは、みな非常に長生きした(エノ クを除いて、700 年から1000 年近く)。忘れてはならないのは、このような死は、本来、罪がな かったら起きなかったこと。そして人が死ななければ、相続をひとりの人に制限し、それが次の世 代に引き継がれていくことも必要なかったはず。したがって、もし罪がこの世界に入って来なかっ たら、人類の歴史や、人間の生き方は随分異なっていたはず。この相続人の系図が、やがてアブラ ハム、イサク、ヤコブに引き継がれ、ヤコブの後は、イスラエルの民全体に広げられることになる が、同様に、キリストを通して、彼を信じるすべての者に広げられた。 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであ り、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハム の信仰にならう人々にも保証されるためなのです(ローマ4:16)。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.4
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、 海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(創世1: 26)。」 この天地が造られた時、すべての被造物が人間のために造られたということは真理である。人は、 創造の初めから、世界の相続人であった。上のみことばの「かたち(ツェレム)」と「似せて(似 ること、デムート)」ということばに、それがほのかされているが、それらはどういう意味だろう か。今回、特に相続に直接関係してくる三つの意味をポイントとしてあげてみると、以下のように なる。 1) 神を代表する像として 2) 神の子どもとして 3) 二本足で歩くものとして まず、1)は、古代の王たちが、自分の占領した土地や住民が自分のものになったことを表示する ために立てた像のこと。たとえば、サウル王が死海の南西の地方に住むアマレク人を征服した時に、 その地方の北の境に当たるカルメルに「自分のために記念碑(「手」の意味)」立てたのがその良 い例である(1 サムエル15:12)。その記念碑は、その土地が彼のものになったことを示した。実 は、「ツェレム」も「デムート」も、偶像の意味に使われることがあって、形のある神の像のこと を意味した。人が偶像を作るならば、それは、自分が神を代表する像でありながら、それを否定し、 自分の代わりに石や金属でその像を作っていることになる。 他に、ヤコブがベテルに石の柱を立てた話も、神を代表する像の考え方がもとになっている(創世 記28 章)。彼はその石を、天と地をつなぐ「はしご」の役目を持った「神の家」と呼んだ。これ が人間であり、彼自身でもあったことを、ヤコブは知らなかった(神は石には住まれない)。しか し、その時の死と復活に近い体験を通して(キリストに属した私たちも同じこと)、彼は、あたか も牛が二本足で歩くかのように変えられた。それは、このはしごの役目を彼自身が果たしていくこ とを示している(上のポイント3)注目)。そして、この石の柱は、この土地が神の約束通りに、 彼と彼の子孫に相続として与えられることを示していた。彼がラバンのところからこの地に戻って、 ベテルに来て主を礼拝すると、主は彼に語られた。 わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出 て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、 あなたの後の子孫にもその地を与えよう(35:11-12)。 ここに、神からの相続を意味する代表的な表現を幾つか見る。これらのことばは、イスラエルの民 が神の宝として存在していくことの預言でもある。非常に面白いのは、この箇所をさらに進んでい くと、ラケルの死のことが出てくるが、それはヤコブの子孫を通して建てられる、もう一つの異な った種類の御国のことを予言している。ヤコブは、死んだラケルを、ベツレヘムの町のすぐ外の所 に埋めて、そこに石の柱を立てた(35:19、今もその墓がある)。あたかも、死んだラケルが、や がて世界を救うメシアの誕生を待ち望み、そのとりなしの祈りをするかのように(マタイ2:17-18 参考)。 次に、上のポイント2)による意味は、こどもが親に似て生まれてくるように、人も神のかたちに、 彼に似せて造られたということ。アダムの系図の最初の冒頭に次のように書かれている。 これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女 とに彼らを創造された。...アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子 を生んだ。彼はその子をセツと名づけた(5:1-3)。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.3
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです(マタイ16:16)。」 ペテロの告白で一番注目すべきは、「神の御子」という部分。キリストが御子であるということは、 神は彼の父である。これがマタイの福音書の一つの大きなテーマ。しかも、その父が、弟子たちの 父でもあることを、イエス様のことばとして頻繁に記録しているのが、マタイの特徴。この話の中 にも、その同じテーマが流れている。 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことを あなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です(17 節)。」 キリストが神の御子であることをペテロに教えたのは、その「父」ご自身であるという。それは、 その父が、上に見た告白を通してペテロ自身の父にもなられたことをほのめかしている。そして、 神が父であるならば、その子どもとして相続人になったことも指す。 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの 教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎ を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなた が地上で解くなら、それは天においても解かれています(18-19 節)。 国は相続するもの(1 コリント6:9-10、ヤコブ2:5 など)。「天の御国のかぎ」を持つとは、そ の国の支配権を持ってそれを相続することを指す。しかし、その相続人となるためには、捨てられ た石となることが条件。イエス様が最初にその石となられたが、今度はペテロも彼に習い、その石 となる(1 ペテロ2:4 以降、エペソ2:20)。しかし、この時のペテロにはその意味がまだ分かっ ていなかった。イエス様は、この時から、ご自分が苦しみを受け、殺され、三日目によみがえるこ とを話し始められた。 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。 そんなことが、あなたに起こるはずはありません(22 節)。」 ペテロの目には、やがてエルサレムに登って華々しく君臨するメシアと、その右にいる自分が写っ ていた。イエス様は急に振り向いて言われた。 下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人の ことを思っている(23 節)。 イエス様のこの言動は、以前サタンに「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部(この世のすべ ての国々とその栄華)あなたに差し上げましょう」と言われた時と同じ(マタイ4:9-10)。両方 とも、全世界の相続のことが問題となっている。 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたし について来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、 それを見いだすのです(24-25 節)。 「自分を捨て、自分の十字架を負い」とは、その十字架で死んだ自分のことを指し、「私のために いのちを失う者」と同じ。エレミヤ27:5 のことばに従い、その者こそが、神によって、世界の相 続人として選ばれる。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得 がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出 せばよいでしょう(26 節)。
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
子としての祝福 No.2
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、 海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(創世1: 26)」。 創世記1 章の創造の話を1 節からよく読んでみると、神様が全部のものを造られたのが、一番最後 に造られた人間のためであったように読める。事実、「彼らが、海の魚、海の魚、空の鳥、家畜、 地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」ということばは、その目的のために 最初から全てを備えて、最後に、その権威を人間に与えて支配させるためであったことを示してい る。言い換えれば、世界は人のために造られ、人は世界の相続人である。 しかし、誤解してはならないのは、それは、人が神のみこころを外れて、神の被造物を支配して良 いという意味ではない。それは罪であり、罪のないことが前提になっている。実は、もともと、世 界は、人も含めて、ひとり子の神のものとして造られ、私たちは、その方を通して相続人として受 け入れられたに過ぎない。 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜな ら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また 見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御 子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御 子にあって成り立っています(コロサイ1:15-17)。 「御子は、見えない神のかたちであり」という表現に注目。彼は、新約の時代にアダムの子孫とし てこの地上にお生まれになった以前から、実は、「神のかたち」としてすでに存在しておられた。 彼は人の頭であり、私たちは彼に付き、彼にあって、彼を通して、神の子どもとされた(養子にさ れた)。「神のかたち」とは、神を親とする、神に似た子どものこと。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者 にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによっ てご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました(エペソ1:4-5)。 神様には、最初から人間に大きな計画があった。「選び」ということばに注目。聖書における神の 「選び」には、特別な意味があって、彼のもの(持ち物)、彼にとって大切な宝となることを指す。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたが たはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなた の語るべきことばである(出エジプト19:5-6)。 イスラエルは、神の「選び」がどんな意味であるのかを世界に示すための模範として選ばれた民。 「わたしの宝となる」という表現に注目。「宝」は、ヘブル語でスグッラーということばで、「優 れる」という日本語にもなった。注意してほしいのは、イスラエルが神の「宝」とされたのは、彼 らが他より何か優れていたわけではない。すべてが神の愛による「選び」によるもの。 あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民(ス グッラー)とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがた がどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは... 最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、 あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い 御手をもって...あなたを贖い出された(申命7:6-8)
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ダヴァール神の国 - 子としての祝福
浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時