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オンリーワン
オンリーワン
95 episodes
21 hours ago
① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、、 だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。 世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。 「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。 ② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。 私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。 「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。 ③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。 ④ さらに、この番組は、ゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。 ⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。
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① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、、 だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。 世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。 「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。 ② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。 私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。 「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。 ③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。 ④ さらに、この番組は、ゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。 ⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。
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Episodes (20/95)
オンリーワン
#94 挑戦する人だけが見える景色 ― クロスボーダーキャリア支援の藤井薫のオンリーワン人生物語3

1.まず自分自身が”プロとして生き残ること”

そう本音で語るのは、ドバイでグローバルキャリアを支援する藤井さん。
彼女の声には、理想と現実の狭間で戦う“プロの覚悟”がにじむ。

かつて、人材育成からキャリア開発までを一貫して支援してきた藤井さん。
彼女の中にはずっと変わらない軸がある。
それは――**「多様性に満ちたキャリアの選択肢を広げ、人の可能性を世界に繋げたい」**という想い。

しかし、いま彼女が立つ場所は、世界で特に競争が激しい街・ドバイ。
LinkedInに求人を出せば、500通以上の応募が届く。
採用の現場では、AIが候補者を自動でマッチングする時代がすぐそこまで来ている。

「このままでは、生き残れない。」
彼女はそう痛感した。

だからこそ、今はしゃがむ。
教育ビジネスも、一時的に脇に置いた。
再び“プロの人材紹介の現場”で勝負するために。

そして彼女が見据える次のステージは――
「クロスボーダーのエグゼクティブサーチ」。
世界をまたぎ、国境を越え、リーダーたちの未来を繋ぐ挑戦だ。

 

2.ドバイに飛び込んだ、日本人女性の挑戦

― 誰もいない場所で、オンリーワンになるために ―

「日本人の人材コンサルタント?この国にはまだいないよ。」

その一言が、藤井薫さんの心に火をつけました。北京で教育に携わり、数多くの若者のキャリアを支えてきた彼女。
“挑戦し続ける人であれ”と生徒たちに語ってきた言葉を、今度は自分自身に向けて証明する時が来たのです。

舞台はドバイ。
世界中から才能が集まり、AIが採用を変えようとしている超競争市場。
それでも「本当に必要な一人」は、簡単には見つからない。

AIでも探せない人材を、国を超えてつなぐのが彼女の仕事。
――そう、“人”の心と“可能性”を見抜く力が、藤井さんの武器です。

今、彼女は新しい山を登っています。
新しい世界を舞台に、挑戦し続けるプロフェッショナルとして再び立ち上がったのです。

「夢は簡単に叶わない。でも、挑戦し続けること――その繰り返しが人生だから。」

いつも教え子にそう語った言葉を胸に、藤井カオルさんは今日も異国の地で、自らの言葉を生きています。

 

「やはり、どの国でも、プロとして良い仕事がしたい」

その言葉に、彼女の“今”が凝縮されている。
崇高な夢を持ちながらも、現実を直視して進化し続ける。まさに“しゃがんで、ジャンプする時期”。 

 

3.『止まって、退化するのが怖い』

― ドバイで挑み続ける、日本人女性・藤井薫の生き方 ―

「安定してる場所にいると、急に不安になるんです。
だから、また挑戦してしまう。」

藤井薫さんは笑いながらそう話します。
けれど、その言葉の裏には、何度も“破壊と創造”を繰り返してきた人生がありました。

そして今、舞台はドバイへ――。

そこは、世界中から才能が集まる競争の街。文化も価値観も、何もかもが違う場所で、彼女はまたゼロから積み上げを始めています。

「止まるのが怖い。でもそれ以上に、“挑戦しない自分”になるのが怖いんです。」

リスクを取らないことが、最大のリスク。
その選択を、何度も繰り返してきた藤井さん。
彼女の生き方には、「挑戦する人だけが見える景色」があります。

ただのキャリア論ではありません。
それは、“自分という人間を生きる覚悟”の物語。

 

「挑戦が好きなんです」
と、少し照れながらも本気で言える人。そんな彼女の姿に、きっとあなたも心を動かされるはずです。

 

『人生配信オンリーワン』
今回のゲストは、ドバイから挑戦を続けるグローバルキャリアコーチ・藤井さん。彼女の「生き残るための挑戦」と「未来を繋ぐ想い」を、どうぞ耳で感じてください。

 

PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。
#BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment

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1 week ago
22 minutes 54 seconds

オンリーワン
#93 「キャリアを“捨てる”勇気が、私を自由にした」藤井薫さんの人生物語2

1.離婚、オーストラリア、そして東京。

― 一度しゃがんで、大きく跳ぶ―

人生が思い通りにいかないとき、
それは“しゃがんでいる時間”なのかもしれません。

ファッションデザイナーとしてキャリアを歩み始めた藤井さん。
しかし、人生の流れは静かに、けれど確実に方向を変えていきました。
転職、タレント事務所での新しい仕事。そしてオーストラリアでのワーホリは単なる「語学留学」では終わらなかったのです。

 

2.結婚したまま、オーストラリアへ

行く前から、離婚の予感はあった。それでも夫は言いました。
「行っておいで。結婚したままでいいから。」

ブリズベンとシドニー、2つの家庭でのホームステイ。
どちらも離婚を経験したシングルファミリー。彼女たちは、悲しみよりも「たくましさ」で生きていました。

――その姿を見て、藤井さんは気づきます。
「あ、離婚してもいいんだ。人生はそこで終わらない。」

そして日本に戻り、離婚。
けれど、そこからが藤井さんの“人生の再スタート”でした。

 

3.大阪を出たからこそ、東京に行けた

離婚したから、自由になれた。自由になったから、挑戦できた。挑戦できたから、東京へ行けた。

――そして、世界最大級の人材会社「ランスタッド」でキャリアを積み上げていく。

ファッションデザイナーから人材ビジネスへ。
まったく異なる世界で、ゼロから山を登るように挑戦を重ねた日々。その頂上で、彼女は確かに“見たかった景色”を見たのです。

 

4.登りたい山を、見つけていますか?

藤井さんの人生は、まるで登山のよう。一度しゃがんで、大きく跳ぶ。
そして登った先で、次の山が見える。

「どの山に登りたいのか?」「その山の頂上から、どんな景色を見たいのか?」

キャリアに悩む人へ、藤井さんが語る言葉には、
“等身大のリアル”と“希望の手ざわり”が詰まっています。

 

5.みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る

― 人生のリセットを繰り返しながら、見える景色を変えていく ―

人生は“登山”のようなものかもしれません。
登る山が変われば、見える景色も変わる。そしてその景色が変わるたびに、
「生きてるって、こういうことなんだ」と感じられる瞬間がある。

藤井さんの人生は、まさにその連続でした。


5.1  ファッションデザイナーから、キャリアの大転換

最初の山は「ファッションデザイナーの世界」。
華やかな業界の中で、キャリアを積み上げていく日々。

けれど、ふと気づいた。
「私が登りたい山は、本当にここなのかな?」

そうして彼女は、勇気を持って一度しゃがみ、
全く新しい山――人材ビジネスの世界へ飛び込みました。


5.2  離婚、オーストラリア、そして中国・深圳へ

留学、離婚、転職、海外。
誰もが迷い、立ち止まるような岐路を、藤井さんは何度も越えてきました。

でも、彼女にはひとつの哲学があったのです。

「次の山を登るときは、いま持ってる成功をいったん捨てる。」

それは、自分を軽くして、もっと高くジャンプするための「リセット」でした。そうして彼女は、東京・深圳・北京・ドバイへと舞台を変えながら、
自分だけの“登山ルート”を切り拓いてきたのです。


5.3  「みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る」

ある日、お母さんが言いました。

「あなたは特別な才能があるわけじゃない。だからみんなが登る富士山の頂上は難しいかもしれない。でも、自分の“藤井山”なら、登れるはずよ。」

その言葉が、藤井さんの人生の軸になりました。他人と比べるのではなく、自分の登りたい山を見つける。それこそが“自分らしく生きる”ということ。


5.4  今、あなたの登っている山は「誰の山」ですか?

エベレストを目指す必要なんてない。評価されるための山でもなくていい。
あなたが「この景色を見たい」と思える山を見つけたとき、人生は驚くほどクリアに、そして力強く動き出します。

 

6.何を捨てて、何を残すか?

― キャリアのリセットで人生をワープさせた、藤井さんの挑戦 ―

「捨てなきゃ、掴めない。」

ファッション業界から人材業界へ。
日本からオーストラリア、中国、そしてドバイへ。
そのたびに、彼女は“何かを手放す決断”をしてきました。

彼女が大切にしているのは、ただの“転職”ではありません。
それは、“生き方を更新する”という選択。

「人間のキャパには限界がある。だから、次に欲しいものを両手で掴むためには、まずは今の荷物を降ろす必要があるんです。」

クライアントとの関係も、積み上げた実績も、すべて一度リセットして、新しいステージへ挑む。

その潔さが、彼女のキャリアをワープさせてきました。

 

7.捨てた先に見えた“想定外の景色”

深圳に渡ったとき、藤井さんは学生ビザ。中国語も話せず、仕事のツテもゼロ。

それでも、「英語でできることをやろう」と決めて一歩を踏み出した。
すると、Forbes JAPAN公式コラムニストへの抜擢、現地の経営者たちとの出会い、そして日本と中国をつなぐヘッドハンティング事業の成功へ。

「学生ビザで始めた1年後には、クライアントと一緒にロサンゼルスにいたんです。」

まさに“想定外の成長”。
環境を変えることで、人生は一気にワープできる。藤井さんはそれを体現していました。

 

8.能力は同じ。でも、場所を変えると価値が上がる

印象的だったのは、この一言。

「私の能力は日本にいたときと何も変わってない。でも、場所を変えたら“希少価値”が上がった。」

つまり、“自分の才能を活かせる市場を選ぶ”という発想です。
彼女はそれを戦略的に実践し、“自分の価値を最大化する生き方”を選びました。

 

9.あなたに問いかけたい

今のあなたのキャリアは、本当に自分の価値が輝く場所にありますか?

もし少しでも「違うかも」と感じたら、
藤井さんの言葉を思い出してください。

「次に掴みたいものが大きいほど、手放す覚悟も大きくなる。」

 

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1 week ago
29 minutes 16 seconds

オンリーワン
#92 UAE、中国など世界を舞台に生きる藤井薫さんの人生物語1

「結婚も出産も、無理にしなくていい。あなたは、あなたの人生を生きなさい。」


「女の子だから」「周りに合わせなさい」そう言われるのが当たり前だった時代に、たったひとり、娘に“逆のこと”を言い続けた母がいました。

母にそう言われて育った少女は、やがて世界を舞台に“自分の道”を切り拓いていく。
彼女の名は――藤井薫さん。

20年以上にわたり、企業と人をつなぐ仕事に没頭。日本で会社を立ち上げた直後には、中国・深圳へ単身移住。さらに北京で教育事業を展開し、今はドバイに拠点を構え、「日本×中国×UAE」を結ぶクロスボーダーキャリア支援を行っています。

けれど、彼女の人生は決して“順風満帆”ではなかった。
岡山の田舎で生まれ、「女性はこうあるべき」と言われる時代に、“自分の人生を自分でデザインする”という生き方を選んだ彼女。小さいころからの夢であったファッションデザイナーを5年間経験した後に、全く違う業種への転職。オーストラリアへのワーホリ、離婚、東京進出のための転職、起業など、数多くの困難に立ち向かい、藤井さん自身が日々もがき苦しみながら、数多くのキャリア支援をされています。


まさに「グローバルキャリアの先駆者」。

そんな藤井さんが赤裸々に語られた人生物語は、新しいキャリアに向けて、捨てる勇気など数多くのことを学ぶことができます。

 

1.“みんなと同じ”じゃなくていい —母がくれた人生の軸

 

藤井さんは岡山の田舎で育ちました。
当時の地域性や時代背景を考えると、「自分の意見を持つ」とか「個性を大事にする」という考え方は、ほとんどありませんでした。
まわりの同級生も、きっとそうだったと思います。
「みんなと同じように」「ちゃんとした大人になりなさい」——そんな空気が当たり前の時代でした。


でも、うちの母だけは違いました。

「自分がどうしたいのか、ちゃんと考えてごらん」「夢があるなら、自分の言葉でプレゼンしてみなさい」

まるでコーチみたいに、子どもの私に“自発性”を促してくれたんです。
だからこそ私は、幼いころから「こうなりたい」「だからこう頑張る」という感覚が自然に身についていた。
それは今の私の“人生の軸”にもなっています。

たぶん、普通の小学生だったら、そんなことを言われるとプレッシャーを感じたり、戸惑ったりするかもしれません。
でも私にとっては、それが当たり前の環境でした。
だから他の家庭と違うことを言われている、なんて感覚もなかったんです。

今振り返ると、母は私に“枠”をはめなかった人でした。
「周りがこうだから、あなたもそうしなさい」
——そんな言葉を一度も言われた記憶がありません。

たとえば田舎では、「この年齢になったら結婚」「このくらいで子どもを持つ」という暗黙のルールがありました。
でも母は、そんな価値観に縛られることを望まなかった。
むしろ、「あなたはあなたでいい」と言ってくれた。

そのおかげで私は、“枠にはめられない生き方”を、心から心地よく感じられるようになりました。 

 

2.夢を手放した日、私は“本当の自分”に出会った—藤井さんの転職物語

子どもの頃からの夢は、ファッションデザイナーになること。
その夢を追いかけ、必死で学び、ようやく憧れの仕事に就いた藤井さん。
最初の数年は苦労の連続。それでも5年目にはようやく“形”になってきた——周囲からも認められ、生活も安定し、夢は叶ったはずでした。

でも、心のどこかでずっと聞こえていた小さな声。

「この道では、一流になれない気がする」

その気づきは痛みとともに訪れます。
そして彼女は、**「夢を叶えたのに、満たされない自分」**と向き合うことになります。

ある夏の日、デパートの水着売り場で自分のデザインを販売していたときのこと。
お客様と直接話し、笑い合い、感謝される時間が——
どんなデザインよりも楽しかった。

先輩に言われた言葉が心に刺さります。

「藤井ちゃん、販売とか営業のほうが向いてるんじゃない?」

その瞬間、彼女は悟りました。
自分の中に流れる“人と関わる仕事”へのDNA。そう、両親もまた営業職。血の中に流れていたものを、ようやく自分で見つけたのです。 

 

3.5年間のデザイナーという経験と夢を捨てる勇気

悩みに悩み、藤井さんは、ファッションデザイナーという安定を手放し、人材ビジネスの世界へ転職するという大きな決断をします。

人と人をつなぎ、誰かの人生の転機を支える仕事でした。

かつて布をデザインしていた藤井さんが、今度は「人のキャリアをデザインする」ようになったのです。

「私にとって、マッチングの仕事は“究極のクリエイティブ”。
だから今も“デザイン”という言葉を会社名に入れています。」

自身の会社「ダイバースキャリアデザイン」には、そんな想いが込められています。
多様性を受け入れ、自分らしい生き方をデザインする。それは、藤井さん自身の生き方そのもの。「人と人をつなぐ仕事」は、まさに彼女の天職。

 

4.「一生かけられる」と思えた瞬間

ファッションデザイナーから人財ビジネスへ転職を決めたとき、正直、ものすごく悩みました。
「これだったら、一生かけてもいい」と思えるものに出会えたからこそ、決断は重かったんです。

子どものころから夢見てきたデザイナーの道。
そのために努力を積み重ね、時間もお金も注いできた。
でも、その夢を手放さなければ次の一歩に進めない——。
そんな覚悟が必要でした。

一度やめたら、もう戻れない。

その怖さを感じながらも、「今の自分を生きる」という想いの方が強かった。
だからこそ、あの時の決断は、私の人生の転機になりました。

正直に言えば、「これまでの努力を無駄にしたくない」という気持ちもありました。
親への感謝や、学費への申し訳なさもあった。「せっかくここまで来たのに、もったいない」周囲からもそう言われました。

でも、私は思ったんです。
——“もったいない”って、誰の基準なんだろう。

結局のところ、自分の人生は自分で選ぶしかない。
その時の私は、すべてを手放してでも「無の状態からもう一度、自分が本当に欲しいものを掴みに行こう」と決めました。 

雑音に惑わされず、自分の心の声だけを信じた。
あの瞬間を思い出すたびに、「あの決断があって本当に良かった」と今も心から思います。

過去を捨てる勇気は、未来をつかむ第一歩なんですよね。

 

5.人生のリセットは、次のジャンプの始まり

「一度、人生をまっさらにして世界を見たい」

誰もが不安で足を止めるその瞬間、彼女は“しゃがむように”一度下がり、そしてさらに高くジャンプしました。

「今思えば、ファッションデザイナーから人材ビジネスというリセットがあったからこそ、その後も挑戦し続けられたんです。」


夢を叶えた後に訪れる「空白の時間」。
誰もが恐れる“しゃがむ瞬間”を、藤井さんは、逃げずに受け止めました。
そして、ジャンプするためにしゃがむ勇気を持ったからこそ、
今、人の人生を支える立場に立っているのです。

一度しゃがんだからこそ、今こんなに高く跳べている。

 

夢を叶えたあと、“もう一度”自分を探したくなったあなたへ。

あなたの中にも、もう一度ジャンプしたい気持ちはありませんか?
藤井さんの言葉には、その勇気をくれる力があります。人生をデザインし直すヒントが、ここにあります。


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1 week ago
23 minutes 47 seconds

オンリーワン
#91 誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”で成長するサトウくんの人生物語3

「過去は変わる。全然変わるの。」

そう断言する一人の男性がいます。多くの人が「過去は変えられない」と諦める中、彼は空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去をポジティブに書き換えてしまうのです。

甲子園を夢見ていた野球少年が、なぜリーゼントパーマをかけてソフトボール部に入り、国体選手になったのか。そして就職活動もせずに入った会社で、なぜ取締役まで上り詰めることができたのか。その答えは、彼が持つ独特の人生哲学にありました。

 

1.野球少年がリーゼントでソフトボール国体選手に?!

甲子園を夢見ていた一人の野球少年がいました。しかし高校に入学する頃、時代は不良ブーム真っ盛り。横浜銀蝿やシャネルズに憧れた彼は、野球部に入って坊主頭になることよりも、リーゼントパーマをかけることを選んだのです。

そんな彼が見つけたのが、なんと「男子ソフトボール部」でした。
野球に似ているけれど、髪の毛を伸ばしていてもいい。

真面目な高校生だった彼は、憧れのリーゼントパーマをかけながらも成績優秀で、ソフトボールでも才能を発揮します。そしてついに、千葉県選抜として国体出場という快挙を成し遂げました。行進で手を振る自分の姿が、今でも鮮明に記憶に残っているそうです。

 

2.お風呂なし→トイレ付き→完備→彼女欲しい!「大学生の立身出世の夢」

大学時代は、まさに昭和の青春そのものでした。
最初はお風呂なし、トイレ共同の下宿からスタート。でも彼には明確な夢がありました。「立身出世」という、今では死語になってしまった言葉を純粋に信じていた時代です。

2年生でトイレ付きの部屋。

3年生でついにお風呂もトイレも完備した部屋を手に入れます。

そして今度は「彼女が欲しい」と、段階的にステップアップしていく大学生活。現代のように最初から満たされていない時代だからこそ、一つ一つの成長に純粋な喜びを感じることができたのです。

彼はこれを「立身出世の夢」と表現し、その輝かしい思い出が今でも走馬灯のように蘇ってくると語ります。

 

3.悪魔のささやきがくれた最適解

そして4年生。就職活動の季節がやってきます。マスコミやテレビ局への憧れはあったものの、何十社も回って挫折を味わうのは嫌だと思っていた時、またしても「悪魔のささやき」が現れました。高校時代の大学推薦に続いて、今度はゼミの教授からの紹介です。

「佐藤君、金融系会社はどう?」

金融業界なんて全く興味がなかったのに、「まあ、いいかな」という軽い気持ちで就職活動もせずに入社。それが現在の取締役という地位につながったのです。

当時は「推薦なんか受けなければ、もっといい大学に入れたのに」「もっとちゃんと就職活動していれば、もっとすごい企業に入れたのに」と思う時期もありました。

しかし今振り返ると、「人生万事塞翁が馬」。
すべてが最適解だったと確信しています。

大手企業に勤める友人たちを見ていると、50歳を過ぎれば出向の現実が待っています。どんなに楽しくても、残りの10年間を屈辱的な思いで過ごす可能性が高い。そう考えると、教授の「悪魔のささやき」に素直に従ったあの判断は、まさに大正解だったのです。

会社からは様々な投資をしてもらい、海外研修なども経験し、多くのことを学ぶ機会に恵まれました。そして何より、自分なりの「逆転の美学」を身につけることができたのです。 

4.過去は変えられる――全部ポジティブに書き換える人生哲学

この物語の真の魅力は、彼の独特な人生哲学にあります。

「過去は変わる。全然変わるの」

多くの人が過去を後悔する中、彼は「過去なんてそもそもない。あるのは捉え方や記憶だけ」と断言します。そして捉え方を変えれば、「過去なんてゴロゴロゴロゴロ全部ポジティブに変わっていく」のです。

あの時振られた彼女への憎しみも、今では「振ってくれたから今の家族ができた。すごいありがたかった」に変わります。

空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去がオッケーサインに変わっていく。この発想の転換こそが、彼の人生を輝かせ続ける原動力なのです。

 

5.誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”がくれる成長の力

さらに興味深いのは、彼が持つ「大人の通信簿」という概念です。
郷ひろみをアイドルとして掲げ、「他人と比べても無意味。つまらない優越感しか生まれない」という信念を持ちながらも、実は心の奥底で「大人の通信簿」を求め続けています。

「誰も褒めてくれない大人になったけれど、僕の中でやっぱり通信簿っていう概念がずっとあって、いい通信簿を取りたい」

この純粋な気持ちが、彼を常に成長させ、新しい挑戦へと向かわせるのです。人から「ダンディだね」と言われることを「おじさんみたいで嫌」と言いながらも、それが自分への評価だと受け取り、さらに磨きをかけていく。

「常に今がピークなんだよ。それを更新していってるの。どんどんどんどん」

だからこそ、暗い過去も全部明るく思える。今の自分に5をつけられるから、今を肯定できるのです。

昔の写真を見せて「かっこいいだろう」と自慢する先輩を見て感じた違和感から、「今を見てもらって、今かっこいいって言ってもらう方がいい」という哲学が生まれました。

この男性の人生は、現代を生きる多くの人にとって大きな示唆を与えてくれます。挫折を恐れることの意外な効用、過去の捉え方を変える力、そして「大人の通信簿」を求める純粋な気持ちの大切さ。

 

6.「毎日がハッピーバースデー」を実践する人生哲学

雨の日曜日の夜。

5歳の少年は窓際に膝をついて外を眺めていました。曇った窓ガラスに一滴の雨水が右上から左下へとすーっと流れ、窓を二分割したその瞬間、彼は悟ったのです。「人は死ぬんだな」と。

それから小学校まで続いた死の恐怖。
特に日曜の夜、テレビが終わる時間になると死ぬことばかり考えてしまう少年は、やがて一つの答えにたどり着きました。

「100歳まで心も体も元気良くかっこよく家族と幸せにいる」という人生の目標です。

これは、野球少年からリーゼント国体選手、そして現在は取締役まで上り詰めた一人の男性の、30分間にわたる人生の全てを語った物語です。

 

7.影を見るだけで生まれ変わる男の秘密

毎朝、ジムでトレーニングを終えてサウナに入り、髭を剃ってシャンプーを済ませる。そして洋服を着替えて飯田橋駅へと向かう途中、アスファルトに映った自分のシュッとした影を見た瞬間、彼は思うのです。「ああ、また生まれ変わった」と。

これが彼の言う「毎日がハッピーバースデー」の正体でした。

筋トレで充実感を得て、サウナで汗を流して代謝を良くし、身だしなみを整えて颯爽と歩く。その影を見るだけで、毎日新しい自分に生まれ変わったという実感を得られるのです。

 

8.「株式会社自分」の経営哲学

「大半の人は赤字決算で年を重ねている。どんどん負債が増えて、それは経営努力してないから」

彼が語るのは、人生を「株式会社自分」として経営するという革新的な考え方です。

キャリアという陳腐な言葉ではなく、自分という会社をどう経営していくか。赤字にならなければいい、黒字なら最高だと割り切る潔さがありました。

そして彼は「大人の通信簿」を常に意識しています。

誰も褒めてくれない大人になったけれど、心の奥底では「いい通信簿を取りたい」という純粋な気持ちを持ち続けている。だからこそ、常に自分を磨き、新しい挑戦を続けているのです。

 

10.マンダラチャートで描く100歳への道のり

大谷翔平が作ったマンダラチャートを使って、真ん中に「100歳まで」を目標に設定。周りに8個、その周りにさらに8個ずつ、全部で64個の項目を埋めて、時々見直しながら評価しています。

「言ってるだけじゃ無理だよね。100歳で元気にかっこよくなって。そのためにやっぱり構成するものを一個一個やっていかないと」

この計画性と実行力が、彼を常に成長させ続けているのです。

 

11.家族への感謝と自己受容

しかし、彼は決して完璧な人間ではありません。家のことは妻に任せきりで、大学生のような一人下宿人状態。DIYなどの家庭的なことは一切できない。それでも彼は自分の限界を受け入れ、家族への感謝を忘れません。

「そういう家族との接し方を犠牲にしてる部分もある。いいことばっかりじゃ実際はないよね。でもそれを分かるようにしてるから、また感謝できるし」

この自己受容と感謝の気持ちが、彼をより魅力的にしているのかもしれません。

 

あなたの人生も変わる30分間

昭和から令和まで生き抜いた一人の男性の証言は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。

「満たされた」現代では味わえない、純粋な向上心と成長への渇望。


そして何より、「運命」や「縁」を信じることの大切さを教えてくれるのです。

そして何より、5歳で感じた死の恐怖を100歳への目標に変え、毎朝の影を見るだけで生まれ変わりを実感する。過去を全てポジティブに変換し、「大人の通信簿」を求めて常に成長し続ける。

 

この30分間の物語は、あなたの人生観を必ず変えるでしょう。人生に迷いを感じている方、過去を後悔している方、自分の可能性を信じたい方。そして何より、毎日を生き生きと過ごしたい方にとって、この男性の人生哲学は宝物のような示唆に満ちています。

 

「今がピーク。それを更新していってるの。どんどんどんどん」


そう語る彼の声には、確固たる自信と温かい人間味が溢れています。


きっとあなたも「毎日がハッピーバースデー」の意味を理解し、明日からの生き方が変わるはずです。

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2 months ago
33 minutes 7 seconds

オンリーワン
#90 鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるようなサトウくんの人生物語2

太っていて、暗くて、親は離婚、母親は水商売...

普通なら「どうせ俺なんて」と諦めてしまいそうな環境。
夜中に勉強していると、酔っ払いが外階段をドンドンと登ってきて、部屋のドアを叩く音が響く。そんな日常が当たり前だった少年時代。

でも、サトウくんは違った。

テレビに出る子役として華やかな世界を経験しながらも、家に帰れば複雑な家庭環境。コンプレックスの塊のような毎日を送っていたはずなのに、彼の心の奥底には不思議な確信があった。「俺は大丈夫だ」「きっとできる」という、根拠のない自信。

普通なら心が折れるような状況で、なぜ彼は自分を愛し続けることができたのか?

 

1.吃音と孤独に向き合った少年の記録

小学校低学年のサトウくん。太っちょで、しかも吃音症でした。国語の時間になると、教科書の音読が回ってこないかと油汗を流しながらビクビクしていました。「男」も「赤」もうまく言えない。

そんな彼が編み出したのは、「うお」と小さく言ってから「男」と発音する独自の裏技でした。必死に、必死に自分のハンディキャップと向き合っていたのです。

しかし、試練はそれだけではありませんでした。

小学6年生の時、両親の不仲が原因で祖父母の家に預けられることになります。夜になると、狭い部屋におばさんとおばあさんの母親への悪口が響きます。幼い彼は枕を耳に当てながら、その辛い時間をただただ耐えるしかありませんでした。体は痩せて格好良くなりつつあるのに、心には新たなコンプレックスが芽生えていたのです。

 

2.コンプレックスを力に変えたサトウくんの逆転人生

ところが、ここで人生の不思議が起こります。

その辛い1年間が、なぜか彼にとって最高に幸せな時期となったのです。

野球が上手になり、クラスの人気者になり、まるで別人のような輝きを見せ始めました。まさに「人生はプラスマイナス」を体現する瞬間でした。

しかし、再び試練が襲います。中学に戻ると両親は結局離婚。当時はまだ珍しかった「片親の子」というレッテルが、新たなコンプレックスとなって彼を苦しめました。

そんな彼を救ったのは、ピンクレディのミーちゃんでした。
テレビで「頬の肉をなくすには叩くといい」と言っているのを見て、彼の「頬を叩く人生」が始まったのです。継続的な努力、強い意志、そして明確な目標。これらが彼を今の姿に変えていきました。

今では信じられないかもしれませんが、あの饒舌で自信に溢れたサトウくんの頬がこけているのは、実はこの努力の結果なのです。彼は語ります。

「努力が必要だよね、継続的な。なりたいっていう強い思いがね」と。

片親だからこそ勉強を頑張り、公立高校から大学へ。

運動も継続し、常に何かの目標を持ち続けました。
コンプレックスを原動力に変え、逆境を乗り越えてきた彼の人生は、まさに現代人への希望のメッセージなのです。

 

3.「ある心理学理論」との出会い

数十年後、キャリアコンサルタントとして活動していたサトウくんは、カナダの心理学者バンデューラが提唱した理論と出会う。その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が走った。

「あ、これだったんだ」

自己効力感。

自分には「できそうだな」という感覚を持つこと。多くの日本人が苦手とするこの感覚を、彼は無意識のうちに身につけていたのだ。

子役時代の成功体験、テレビで見るかっこいい大人たちへの憧れ、周りからの「サトウくんは大丈夫だよ」という言葉。

そして何より、自分で自分を褒め続けてきた習慣。

これらすべてが、バンデューラの理論が示す「自己効力感を高める4つの要素」と完全に一致していた。

 

4.「自分をけなす人生」か「自分を褒める人生」か

「自分と一緒にいる時間が一番長いんだから、自分をけなす人生と自分を褒める人生、どっちを選ぶ?」

サトウくんのこの言葉に、多くの人がハッとする。日本人は謙遜を美徳とし、減点主義で育てられる。でも、それでは自己効力感は育たない。海外で活動することが多いリスナーは、日本人の元気のなさを痛感している。

「だからこそ、僕たちが変えていけばいい。周りの人に自己効力感を教えてあげればいい」

サトウくんの人生は、まさに希望の光だった。どんなにコンプレックスがあっても、どんなに困難な環境でも、自分の中に「できそうだな」という感覚を育てることができれば、人生は必ず好転する。

 

5.マネジメントの本質も、子育ての秘訣も、すべてここにある

部下に成功体験を与える、
自分がお手本を示す、
褒めて認める、
体調を気遣う。

これらはすべて、自己効力感を高めるための4つの要素そのものだ。優秀なマネージャーが無意識にやっていることを、理論として体系化したとき、その威力は何倍にもなる。

子育てでも同じ。

「あなたはダメな子」ではなく「あなたはできる子」と伝え続けることの大切さ。それは単なる励ましではなく、科学的根拠に基づいた人間育成の方法論なのだ。

今、草野球で最年長選手として記録を更新し続けているサトウくん。
大谷翔平やイチローの試合を見ると「打てそうな気がする」と笑う。
この感覚こそが、自己効力感の真髄だ。

 

今すぐ、この物語を体験してください

コンプレックスに悩んでいる人、
自分に自信が持てない人、
部下や子供をどう励ませばいいかわからない人。

大丈夫です。

サトウくんの実体験が証明しています。
人は本当に変われるのです。
すべての人に聴いてほしい、特別な20分間がここにある。

理論だけではない、リアルな体験に裏打ちされた智慧。
今日から使える具体的な方法。
そして何より、「自分も変われるかもしれない」という希望の光。
彼の率直で感動的な体験談は、あなたの心に勇気の火を灯すはずです。

あなたの中に眠る「できそうだな」という感覚を呼び覚ます物語が、ここから始まります。聴き終わった後、きっとあなたは鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるでしょう。

 

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2 months ago
17 minutes 56 seconds

オンリーワン
#89 幼稚園に通わなかった子役が、金融系企業の役員になるまでのサトウくんの人生物語1

あなたが幼稚園に行っていた頃、一人の少年は撮影現場でベッドに横たわり、死亡役を演じていました。上から大人の役者がかぶさってくる中、その少年の心には深い印象が刻まれていたのです。

今回の「人生配信オンリーワン」第1話のゲスト、サトウくんが語るのは、まさにその時の体験から始まる驚異的な人生哲学です。

「太った子どもの小役」というコンプレックスに苦しんだ幼少期が、後に人生最大の武器となった奇跡の物語。それは単なる成功談ではなく、私たち全員が今すぐ実践できる生き方の革命でした。

 

1.幼稚園に行けなかった子役

朝4時。千葉市の住宅街はまだ薄暗い中、一台の黒塗りのクラウンが静かに停車します。座席には黒いカバーがかけられ、まるでVIPを迎えに来たかのような重厚な雰囲気。しかし車に乗り込むのは、まだ幼い一人の男の子でした。

この男の子の名前は佐藤一明、通称サトウくん。

彼がこれから向かう先は、伊豆の海辺や都内の大別荘での撮影現場。なぜなら彼は、2歳の頃からテレビ、映画、CMなどの子役だったからです。

「僕は幼稚園に行ったことがないんですよね」

現在、金融系企業で役員を務めるサトウくんが、そう静かに口にした時、配信を聞いている私たちは一瞬言葉を失います。幼稚園への憧れを今でも抱き続ける彼の人生は、まさに「普通」とは真逆の道を歩んできたのです。

 

2.コンプレックスと、それを跳ね返すリベンジの人生

当時の子役界は、クリクリした目の可愛いハーフの子どもたちが主流でした。サトウくんは、女性セブンに掲載され、人気アイドルのドラマにも出演していたような子役とは違いました。ハーフでもない、どちらかというとぽっちゃりした「健康優良児」。その一風変わった存在感こそが、彼の武器だったのです。

しかし、成功の裏には深刻な苦悩がありました。大別荘での金持ちの息子役の撮影。周りには監督、カメラマン、照明、音響…約20人の大人たちが彼を取り囲みます。「はい、スタート!」その瞬間、極度の緊張から彼を襲ったのは吃音症でした。

「ど、ど、どうして…」言葉が出てこない。

焦れば焦るほど、どもってしまう。袖から心配そうに見つめる母親の顔が目に入ると、さらに焦りは増していきます。子どもながらに感じる周囲への迷惑、そして自分への失望。これらすべてが、後の彼を形作る「原体験」となっていたのです。

「僕の人生は、コンプレックスとそれを跳ね返すリベンジの人生なんです」

太っていることへのコンプレックス、吃音症への恐怖、幼稚園に通えなかった疎外感、同世代の子どもたちとの圧倒的な経験の差。これらのコンプレックスが、彼の人生を動かす原動力となったのです。

そして現在。あの「健康優良児」だった子役は、金融系企業で役員を務めています。人事部長として10年間のキャリアを積み、株主総会を経て2期目の役員として活躍中。反抗期もなく大人になった彼の人生には、一体どんな秘密があるのでしょうか。

特殊な幼少期を過ごした人が、どのようにしてビジネスの世界で成功を収めたのか。コンプレックスをどうやって武器に変えたのか。そして今も続く「リベンジ人生」の全貌とは。

 

3.コンプレックスが最高の財産に変わる瞬間

「僕の中にある印象としては、やっぱり太った子役みたいな、それがずっとあって」

幼少期という多感な時期に感じたこのコンプレックスが、実は彼の人生を豊かにする土台となっていったのです。

なぜなら、その特殊な環境こそが彼に「役割の重要性」を教えてくれたから、撮影現場では一つ一つのパーツが重要で、どんな小さな役でも全体を支える大切な存在だということを、幼い彼は肌で理解していました。

この経験が、後に会社という組織の中でも「パーツとしての重要性」を自然に理解し、プレッシャーを感じることなく、様々な役割をこなせる大人へと成長させていったのです。

 

4.無意識の演技を意識化する革命

数十年後、人事の仕事に携わったサトウくんが出会ったのが、アメリカの心理学者ドナルド・スーパーの「キャリアレインボー理論」でした。

この理論は、人間は様々な役回りを持ち、それらが多いほど豊かな人生を送れるというもの。まさに幼少期から実践していた彼の生き方と完璧に重なったのです。

「あ、良かったんだ」と感じたその瞬間、彼の中で全てが繋がりました。

私たちは皆、毎日無意識に様々な役を演じています。会社員として、親として、友人として、そして一人の人間として。しかし、多くの人はそれを意識していません。

「無意識でやってるっていうのはもったいない」とサトウくんは語ります。

意識するだけで、お父さんの顔、会社の顔、プライベートの顔が全く変わってくる。見え方も視点も気づきも、すべてが劇的に変化するのです。

 

5.株式会社「自分」の社長としての経営戦略

さらに革新的だったのは、マーケティング理論を自分自身に応用するという発想でした。

自分は、株式会社「自分」の社長なわけだから

企業がセグメント分析をしてポジショニングを決め、ターゲットを設定して4P戦略を展開するように、私たち自身も同じことができるのです。

自分のポジショニングはどこにあるのか?
ターゲットとする相手は誰なのか?
そして自分という商品をどう磨き、どうプロモーションしていくのか?

この戦略が明確な人は魅力的で、人が自然と近寄ってきます。そして新しいコミュニティが生まれ、また別の顔、別の役割が生まれていく好循環が始まるのです。

 

6.ただし、大根役者では売れない

しかし、ただ役を演じるだけでは不十分だとサトウくんは警告します。

「大根役者じゃ、どんな役をやってても売れないよ」

自分の見せ方、演出の仕方、そして役作りのすべてを自分で考え抜いてこそ、上のステージに行けるのです。

これは決して表面的な演技の話ではありません。
学び続けること、成長し続けること、そして自分自身を深く理解することが、真の「役者」になるための条件なのです。

 

7.あなたの人生脚本を今すぐ書き換えませんか?

この配信は、単なる成功体験談ではありません。
幼稚園での特殊な体験から始まり、心理学理論、マーケティング戦略まで、人生の「脚本家」「演出家」「主演俳優」すべてを自分で担う具体的な方法を教えてくれる、実用的な人生講座です。

この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく「人生」というものについて、全く違う見方をしているはずです。今すぐ再生ボタンを押して、サトウくんの壮絶で感動的な人生ストーリーに耳を傾けてみてください。

そして次回、小学生編では、さらに予想もつかない展開が待っています。

 

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2 months ago
18 minutes 39 seconds

オンリーワン
#88 海を越えて夢を追う沢野さんの人生物語3

この配信は、単なる成功談ではありません。

 

大企業で30年間、海外でグローバルに戦い続けた一人の男が、ついに自分だけの使命を見つけるまでの、リアルで生々しい人生ドキュメントです。

 

キャリアに悩むあなた、海外挑戦を考えているあなた、起業を検討しているあなた、そして日本の未来に想いを馳せるあなたにとって、必ずや新たな気づきと勇気を与えてくれる内容となっています。

沢野さんの率直で時に迷いも見せる語り口から、あなたも自分の人生について深く考えるきっかけを得られるはずです。

大企業での安定した地位を捨ててまで追い求めた「本当にやりたいこと」とは何だったのか。その答えを、ぜひあなた自身の耳で確かめてください。

 

1.経営企画部門、華やかなキャリアの裏に潜む“違和感”

「テンション、むっちゃ下がってますね...」

 配信の途中で思わず指摘されてしまった沢野さんの表情の変化。実はそこに、多くのビジネスパーソンが抱える深刻な問題が隠されていました。

 

ドイツ駐在から帰国し、誰もが羨む「経営企画部門」に配属された沢野さん。

中期経営計画の策定、戦略立案、M&A案件、そしてPMI(ポストマージャーインテグレーション)まで、まさにエリートコースを歩んでいました。

取締役会議の事務局を務め、構造改革プロジェクトを率いる日々。周囲から見れば、これ以上ない華やかなキャリアだったはずです。

しかし、沢野さんの心の中には、言葉にできない違和感が渦巻いていました。

「やりたいことではないというわけでもないけれど、ちょっと違う世界だった」。

そんな微妙な感情を抱えながら、気がつけば7年という歳月が流れていたのです。「7年も経ってようやく分かれよ、という話なんですけど...」と苦笑いする沢野さん。多くの人が経験するであろう、このキャリアの迷いと向き合い続けた7年間でした。

 

2.エリートから挑戦者へ──中国転職がもたらした本当の輝き

 

そして転機が訪れます。

安定した日本企業を離れ、中国企業への転職を決意したのです。なぜ中国だったのか。そこには、日本の製造業の現実を海外で目の当たりにした沢野さんの深い洞察がありました。中国ビジネスの圧倒的なスピード感、迅速な意思決定プロセス、そして何より構築できた貴重な人的ネットワーク。

 「エネルギー高くなってますね、今!」

配信者に指摘された通り、中国企業での経験を語る沢野さんの表情は一変していました。そこには、自分が本当にやりたいことを見つけた人特有の輝きがありました。

 

3.世界で戦えるリーダーを育てたい──
沢野さんの起業による新たな挑戦

 中国企業で日本のカントリーマネージャーとして働きながら、沢野さんの心には新たな使命感が芽生えていました。「日本の中堅企業を外に出していくサポートをしたい」「それを実現できるグローバルリーダーを育てたい」。そんな想いが、2023年12月の起業へと導いたのです。

会社名は「グローバルエクセレンス」。

「グローバルエクセレンスに生きようぜ」という想いを込めて名付けられました。世界とお客様をスマートに繋ぐパートナーとなり、世界で活躍できるグローバルリーダーを育成する。それが沢野さんの描く未来図でした。

「本当に日本の企業の方がどんどん世界に出て行って、商売していく。
中小の方でも海外ビジネスを当たり前にできるような、そんな世界を作りたい」
沢野さんの夢は壮大でした。個人の成功を超えて、日本全体を豊かにしたいという社会貢献への強い意志がそこにはありました。

 

4.中国コネクションが開いた新世界

偶然とも必然とも言える中国でのコネクション構築が、沢野さんのビジネス人生を一変させました。

「安くていいものを欲しがるお客さんを助ける」というシンプルな哲学の背景には、製造業の現場で培われた深い洞察がありました。

彼がどのようにして海外との橋渡し役となり、お客様に本当の価値を提供できるようになったのか。その具体的なプロセスを詳しく解説しています。

 

5.一億円への道のり

「まずは1000万円から5000万、そして1億という形で売上を上げていきたい」と語る沢野さん。

この言葉は単なる夢ではありません。

製造業の海外進出をサポートする独自のビジネスモデルを構築し、着実に成果を上げ続けている現在進行形の挑戦なのです。

特に海外進出を望む製造業の経営者や、グローバル市場でのリーダーシップを求める企業にとって、沢野さんのアプローチは革新的でありながら実践的です。

 

6.グローバル人材育成の真実

実は沢野さん、『グローバル人材育成の教科書』という本の著者でもあります。

インバウンド対応の悩みをゼロにする グローバル人材育成の教科書[外国人観光客を相手に成果を出す人はこう考え、こう動く!]| 沢野 純一|本 | 通販 | Amazon

しかし彼の教える内容は、一般的なビジネス書とは一線を画します。

 

「もう口角を自分で上げてくださいって僕のセミナーでは言っちゃいます」という言葉に象徴されるように、テクニックではなくマインドセットから変革を促します。

 

海外で笑顔で仕事を楽しむために必要な要素として、チャレンジ精神、異文化理解と対応力、英語でのコミュニケーション力、そして課題発見・解決能力を挙げる沢野さん。

しかし最も印象的なのは、
「ちょっとしたことだと思うんですよ。楽しく仕事しちゃうとか、チャレンジしちゃおうかなと何でもいいんですけど」という彼の言葉です。

複雑に見える国際ビジネスも、実は小さな一歩の積み重ねから始まることを教えてくれます。

 

7.現在進行形の成長物語

このエピソードが特別なのは、沢野さんが今まさに成長の最中にあることです。

「これからこう上げていかなくちゃいけない」と語る彼の姿勢からは、成功者の余裕ではなく、挑戦者の熱いエネルギーが伝わってきます。

売上拡大への具体的な戦略、顧問として企業をサポートする現場での実体験、そして日本企業のグローバル化への強い想いまで、すべてがリアルタイムで展開されています。

 

8.日本への熱い想い

「日本にもっと元気になってもらいたい。
多くの方々に海外に出てもらいたい」

沢野さんの言葉は、単なるビジネストークではありません。グローバル市場で戦い続ける彼だからこそ見える日本の可能性と課題について、熱く語ります。少しでもエネルギーを共有し、相手をインスパイアしたいという彼の想いが、このエピソード全体に息づいています。 

 

なぜ今、このストーリーを聞くべきなのか 

円安基調でグローバルビジネスが注目される今、沢野さんの体験談は単なる成功例を超えた価値があります。

AI時代だからこそ求められる人間らしさ、グローバル人材不足が叫ばれる中での具体的な解決策、そして何より「普通の人でも海外で成功できる」という希望を与えてくれます。

理論ではない現場の生の声、失敗も成功も包み隠さない本音のトーク、そして今まさに売上拡大中の進行形ストーリー。このすべてが10分間に凝縮されています。

 

あなたのビジネス人生を変える10分間

沢野さんのエネルギーと情熱は、画面越しでも確実に伝わってきます。

「少しでもエネルギーの共有ができれば、それでなんか感じてくれたりね、ちょっとだけでもインスパイアーしていただければ」という彼の願いは、きっとあなたにも届くはずです。

海外ビジネスへの恐怖心を克服したい方、製造業での海外進出を真剣に考えている経営者、グローバル人材として成長したいビジネスパーソン、中国ビジネスの実情を知りたい方、そして何より日本をもっと元気にしたいと願うすべての人にとって、このエピソードは必見です。

今すぐこの特別エピソードをご視聴ください。沢野さんの熱い想いと実践的な知恵が、あなたの人生とビジネスに新たな可能性をもたらすことでしょう。 

PS

ぜひ沢野さんの『グローバル人材育成の教科書』を手に取って、沢野さんの熱い想いを受け取ってみて下さい。

インバウンド対応の悩みをゼロにする グローバル人材育成の教科書[外国人観光客を相手に成果を出す人はこう考え、こう動く!]| 沢野 純一|本 | 通販 | Amazon

 

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2 months ago
12 minutes 44 seconds

オンリーワン
#87 海外で勝負した男の告白 - 沢野さんが語る挑戦者の人生物語2

沢野さんの体験談は、単なる昔話ではありません。 

海外駐在を夢見る人だけでなく、現状に満足してしまっている全ての日本人に向けた、挑戦者としての生き方を説いた人生論なのです。 

失敗を恐れず、常に動き続ける。マグロのように、止まったら死んでしまうという危機感を持ち続ける。そんな生き方が、今の時代にこそ求められているのではないでしょうか。

動き続けなければ死ぬ。それがマグロの、そして真の挑戦者の生き方です。

 

1.海外に行きたい想いが実現させた転職

安定した企業で数年間働いた後、彼は一つの夢だけを胸に大きな決断を下しました。海外ビジネスを展開するアルプス電気(現アルプスアルパイン)への転職です。

当時、その会社の6〜7割が海外ビジネス。
沢野さんは車載電子部品を扱う部門に配属され、念願の海外勤務への第一歩を踏み出しました。面接では堂々と宣言したそうです。

「海外に行きたいんです。そのためにここに入ってきました」

 

2.アメリカ駐在の現実は想像を超えていた

1年間、日本で海外営業の「キャッチャー」として経験を積んだ後、ついにその時が来ました。アメリカのデトロイトへの駐在辞令です。夢が叶った瞬間でした。

しかし、現実は甘くありませんでした。アパート探しから始まり、英語の契約書との格闘。マクドナルドで「ヒア・オア・トゥーゴー?」すら聞き取れない屈辱的な日々。デトロイトの早口英語は、彼の英語力を容赦なく打ち砕きました。

さらに重くのしかかったのは、駐在員としてのプレッシャーでした。現地スタッフより高い給料をもらっている以上、それ相応のパフォーマンスを求められる。

「こいつはこのぐらいもらってるのに、この程度のパフォーマンスか」という冷たい視線を常に感じながら、フォード、クライスラー、そして日系の自動車メーカーを相手に、エアコンスイッチやパワーウィンドウスイッチなどの車載部品を売り込む日々が始まりました。

 

3.なぜ彼は潰れなかったのか?

多くの駐在員が現実の厳しさに打ちのめされ、日本人コミュニティに閉じこもってしまう中で、沢野さんは違いました。「海外に行きたいという想いでここまで来たのに、ここで諦めたら自分が目指すレベルに達していない。やるしかない」という強い信念が彼を支えていたのです。

そして彼が口にした印象的な言葉があります。

「なんか動いてないと死んじゃうみたいな、マグロみたいな人間なんです」。

この哲学こそが、彼を常に前進させ続ける原動力でした。

 

4.現代日本への痛烈なメッセージ

最終的に沢野さんは、アメリカ人と同等に戦うためにMBAまで取得し、真のグローバル人材として成長を遂げました。しかし、彼の目には今の日本の姿が深刻に映っています。

「今の日本人は本当にヤバい。
安定に甘んじていると、それって本当に怠惰だと思う。
世界中が頑張っている中で、日本だけが今までの貯金を食いつぶしている。そこに行っちゃうと、登り上がるのにすごく時間もかかるし、上がれないかもしれない」

この言葉は、現状維持に安住している私たちへの強烈な警鐘です。

 

5.5年間のアメリカ生活で掴んだ人生の極意とは?

30代半ば、沢野さんは人生最大の決断を迫られていました。

アメリカ・デトロイトへの5年間単身赴任。しかも課せられたミッションは「売上を2倍にしろ」という、まさに背水の陣でした。

最初の3年間、沢野さんは正直に告白します。
「毎週ゴルフしまくって飲んだくれて...そんな生活でした」。

しかし、残り2年でふと我に返ります。このままではいけない。同僚たちと対等に話すために、MBAを取得しようと決意したのです。

「アメリカは入るのは簡単だけど、出るのがむちゃくちゃ難しい。日本の逆なんです」

働きながらのMBA取得は想像を絶する苦労でした。
16科目46単位を夜と週末だけで取得する日々。「半分ぐらいは泣きが入ってました」と振り返る沢野さん。それでも現地の友人たちの温かいサポートに支えられ、ついに学位を取得します。

「彼らがいなかったら絶対に卒業できなかった」という感謝の言葉からは、異国での人とのつながりの大切さが伝わってきます。

 

6.「しょうがねえな」と言える強さ、ドイツ8年が鍛えた“どこでも生き抜く力”

5年間のアメリカ生活を終え、日本に帰国した沢野さん。新しい電気製品を揃え、「よし、日本で頑張ろう」と意気込んでいたのも束の間。なんと1年後、またしても海外転勤の辞令が下ります。今度はドイツです。

「最新のエアコンも冷蔵庫も買ったばかりなのに、全部安く売り飛ばして...」

こうして始まったドイツでの8年間は、沢野さんのキャリアにとって転機となりました。

BMW、ダイムラー、アウディといったヨーロッパの名だたる自動車メーカーを相手に、ミュンヘン、デュッセルドルフ、イギリス、スウェーデンまで、ヨーロッパ全域のオペレーションを統括する重責を担ったのです。

特に印象的なのは、日本人社長からローカル社長への交代時期と重なったこと。「サポートを強化しなくちゃいけない」という状況の中、5年の予定が8年に延長されることになります。

「しょうがねえな、残るか。まだヨーロッパで行ってないところもあるし」という沢野さんの飄々とした語り口が、長期海外生活を乗り切る秘訣を物語っています。

 

8年間のドイツ生活で身につけたのは、単なる語学力やビジネススキルだけではありません。

「住めば都って本当に正しい言葉だと思う」という言葉通り、どこでも生きていける適応力と、異文化の中でも結果を出し続ける実行力でした。

 

7.13年の海外挑戦がつくった沢野さんの“世界力”

日本帰国後、沢野さんにはもう一つの挑戦が待っていました。中国市場への参入です。「中国をやりたかった」という強い想いを持ちながらも、会社からは一度日本に戻るよう指示される。それでも諦めない沢野さんは、中国担当として1年半にわたり現地メンバーと共にプロジェクトを推進していきます。

合計13年間の海外生活。アメリカで学んだ競争の厳しさ、ドイツで培ったマネジメント力、中国で感じたダイナミズム。そのすべてが沢野さんという人間を形作っています。

 

今すぐ聴いてみて下さい

この配信では、グローバルビジネスの最前線で戦い続けた一人のサラリーマンの、等身大の体験談をお聞きいただけます。成功だけでなく、失敗や迷い、家族との時間、そして何度も訪れた人生の転機をどう乗り越えてきたのか。

もしあなたが今、キャリアの壁にぶつかっていたり、新しい挑戦を躊躇していたりするなら、沢野さんの物語は必ず何かのヒントを与えてくれるはずです。

世界を舞台に活躍することは、特別な人だけの話ではありません。普通のサラリーマンでも、決意と行動力があれば、人生は大きく変わる。沢野さんの13年間の軌跡が、それを雄弁に物語っています。

ポッドキャスト「人生配信オンリーワン」沢野さんエピソード あなたの人生観が変わる20分間を、ぜひお聞きください。

 

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2 months ago
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オンリーワン
#86 人生に正解なんてない、沢野さんの人生物語1

あなたは今、人生に迷っていませんか?
「このままでいいのか?」と思いながらも、何をしていいかわからない...
そんなあなたに聞いてほしい、一人の男性の物語があります。

 

埼玉県川越市で生まれた沢野純一さん、通称「Jay」。

 

現在、サラリーマンをしながら自分の会社も経営するという二足のわらじを履いています。

彼が目指すのは「弱くなった日本の製造業を強くする」こと。
海外進出の支援や、安価な部材の調達、そしてグローバル人材の育成という、まさに彼の経験が活かされる分野での挑戦です。 

この配信を聞いてほしいのは、人生の方向性に迷っている学生や社会人、海外経験に興味があるけれど一歩踏み出せない人、転職や起業を考えているビジネスパーソン、そして「普通の人でも人生を変えられる」ということを知りたいすべての人です。 

沢野さんの物語から得られるのは、まず勇気です。

 

「ぼーっと生きていた」人でも人生は変えられるという希望。
そして新しい視点。海外経験が与える価値観の変化の実例。さらに行動力。休学してでも挑戦する決断力の源泉。加えて柔軟性。「何でもあり」という適当さの重要性。最後に実践知。グローバルビジネスの最前線で学んだ生きた知識です。

沢野さんはこう語ります。

 

「人生に正解なんてない。
でも、一歩踏み出してみれば、必ず何かが変わる。
僕の『適当』な人生が、あなたの背中を少しでも押せたら嬉しいです。」

 

30年前、新聞社でのバイトがきっかけで海外に飛び出した一人の青年。
その後の歩みは決して順風満帆ではなかったかもしれませんが、彼が手に入れたものは何物にも代えがたい人生の財産でした。
今すぐ再生ボタンを押して、あなたの人生を変える「きっかけ」を見つけてください。

 

1.新聞社バイトから始まった、30年のグローバル人生ストーリー

小学校から大学まで、彼自身が「ぼーっと生きていた」と振り返るほど、ごく普通の青年でした。勉強もそこそこ、大学でも遊びとバイトに明け暮れる日々。親も「こいつ大丈夫か?」と心配するほどの、どこにでもいる学生だったのです。

しかし、運命は思わぬ形でやってきました。数あるアルバイトの中で選んだ新聞社での仕事が、彼の人生を180度変えることになったのです。

新聞社には多様な人々が集まっていました。芸能人も出入りし、海外から帰国したばかりの人、これから海外に向かう人。ぼーっと生きていた青年にとって、それは全く別の世界でした。

「あ、なんかこれって面白いんだな。こういう世界があるんだな」

そう気づいた瞬間から、沢野さんの中で何かが変わり始めました。

特に印象深かったのは、海外経験のある人たちとの出会いでした。英語もほとんど話せない、高校時代に交換留学の話が出ても「ふーーん」と他人事のように感じていた彼が、突然「海外」というキーワードに引っかかったのです。まるでスイッチがポチッと押されたかのように。

決断は早かった。大学4年生の時、思い切って大学の休学を決意。どうせ勉強の柄じゃないし、ぼーっと生きてきたのだから、いっそのこと「遊学」をしようと決めたのです。遊ぶための留学。なんとも沢野さんらしい発想でした。

 

2.エアーズロックに呼ばれて──
遊び心が起業家精神を育てた1年

遊学として行き先に選んだのはオーストラリア。

理由は驚くほど単純で「エアーズロックがあるな」という軽いノリ。しかし、22歳の沢野さんがオーストラリアの地に降り立った時、彼はまだ知らなかった。この経験が、彼の人生観を根底から変え、その後の波瀾万丈な人生の原点となることを。

ワーキングホリデービザで渡豪した沢野さんですが、「働ける」ビザなのに基本的にはホリデーしかしていませんでした。

当時のオーストラリアは今とは比べものにならないほど物価が安く、ビール1本が50円という夢のような時代。100万円程度あれば十分暮らせたため、彼の遊学生活が始まったのです。

特に印象的だったのは、フリーマーケットでの商売体験でした。手作りの折り紙や飛び出す絵本のようなポストカードを作って売る。1日の売上は500円程度でしたが、それでも「お酒代になればいい」という気軽さ。この経験が後の起業家精神につながっているのかもしれません。

しかし、オーストラリアで得たものは遊びの経験だけではありませんでした。アングロサクソン系とアジア系が混在する多様な社会で、様々な価値観を持つ人々と出会い。

英語学校で出会ったインドネシアやマレーシアからの留学生たち。イスラム教の彼らとの交流は、沢野さんにとって毎日が驚きの連続でした。

握手一つとっても、左手と右手の使い分け。
お祈りの時間。
宗教的な考え方の違い。

「毎日がスポンジのように新しい学びを吸収していく感覚だった」と振り返る沢野さん。この多様性への理解と興味こそが、彼の人生を貫く大きなテーマとなるのです。

「みんな適当なことやってるな」と感じた彼は、同時に「何でもありなんだ」「適当に生きていいんだ」という新しい人生哲学を身につけました。

 

3.一晩XX万円使って、左遷された男の物語

帰国後に待っていたのは、全く異なる世界でした。

1989年、バブル絶頂期の富士電機に入社。自動販売機の営業・マーケティング部門で、沢野さんは日本の「イケイケドンドン」な企業文化に飛び込みます。

「お札でタクシーを止める」という話を聞いたことがある人は多いでしょう。でも沢野さんは、それを実際にやっていた人です。

赤坂での接待、深夜1時にお客様のためにタクシーを止める光景。一晩でXX万円を平気で使う接待文化。パナソニック、三洋など競合他社との熾烈な競争の中で、それが当たり前の世界だったのです。

ところが、新人だった沢野さんに転機が訪れます。ある日、お客様とのXX万円の接待について社内稟議が部長に回ると承認印を反対に押された、「やりすぎだろう」とという示唆を直属の上司(課長)から聞かされました。しかし沢野さんは、会社のための接待であり、適切な顧客対応したという自負もあり、部長のところへ謝罪も行くこともなく平然と過ごしていました。

 

4.左遷すらチャンスに変える“沢野流”

ところが、突然、高額接待が原因かわかりませんが、(後から聞いた話ではそれが起因していたとのこと)、本社から長野県松本市への左遷通告!。え!マジ!、なんで?
都会のバブリーな生活から一転、山と水に囲まれた地方都市での営業活動が始まりました。
ところが、ここで沢野さの真骨頂が発揮されます。
左遷を嘆くのではなく、新たな環境を楽しみ始めたのです。
長野の地域コミュニティに溶け込み、長野オリンピックのボランティア活動にも参加。資格の取得(宅建士、通関士)をして次のステップへの準備を起動!

「住みやすい街だった」「そして自分の充電期間だった」と振り返る沢野さんの前向きな姿勢には、オーストラリアで培った「新しいことを知る楽しさ」が息づいています。
3年間の長野生活を経て、再び沢野さんの心に芽生えたのは海外ビジネスへの憧れでした。そして転職を決意──。

 

今すぐ聴いてみて下さい

この配信を聞けば、あなたは時代の証言者となります。バブル時代の実態を生で体験した人の話は、もはや貴重な歴史的資料です。しかし、それ以上に価値があるのは、どんな環境に置かれても学びと成長を見つける沢野さんの人生哲学です。

海外で多様性を学び、バブルの狂乱を体験し、左遷という逆境を乗り越えて次のステップへ向かう。現代を生きる私たちにも通じる、人生の転機との向き合い方がここにあります。

22歳での海外体験が人生観を変えた話から、バブル時代のリアルな企業文化、そして逆境を成長の機会に変える思考法まで。沢野さんの人生第一章は、まさに現代のビジネスパーソンが聞くべき生きた教材なのです。

次回は、転職後の海外ビジネス挑戦編をお届けします。沢野さんの冒険は、まだ始まったばかりです。

今すぐこの貴重な体験談を聞いて、あなた自身の人生に活かしてください。そして、この唯一無二のストーリーを、ぜひ大切な人たちとシェアしてください。

人生配信オンリーワン - 一人ひとりの唯一無二の人生ストーリーをお届けします。

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2 months ago
20 minutes 26 seconds

オンリーワン
#85 2度の死線を越えた男が見つけた、本当の生きる意味、岡安さんの人生物語2

岡安さんは、かつてプロスキーヤーとして雪山を駆け抜けていました。

パラアジアカップ役員にも選ばれ、輝かしいキャリアの階段を一段ずつ上っているかのように見えました。

しかし現実は厳しく、「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実が彼の前に立ちはだかったのです。

20代でスキー競技を諦めることになった岡安さん。
誰にも悲しみを伝えられない状況の中で、人生のどん底を味わいます。
一時は死すら考えた絶望の淵で、彼は何を思い、どのようにして這い上がったのでしょうか。

 

【衝撃の人生逆転劇】元アルペンスキー選手が語る「絶望の淵から希望への道」

 

1.一本の電話が変えた運命の物語

「お前、今何してんだ?」

病院のベッドで、もう誰とも話したくないと心を閉ざしていた岡安さんに届いた一本の電話。

その声の主は、現役の時から関わっていた障害者スキーチームのコーチでした。この何気ない一言が、絶望の底にいた元アルペンスキー選手の人生を180度変えることになるとは、この時誰が想像できたでしょうか。

 

2.栄光から一転、人生最大の危機

岡安さんは現役のアルペンスキー選手として、雪山を駆け抜ける日々を送っていました。しかし、選手生命を脅かす大怪我により、愛してやまないスキーから離れることを余儀なくされます。

手術への恐怖、そして何より、スキーという人生の全てを失った絶望感は想像を絶するものでした。

「死ぬ一歩手前まで考えていた」と振り返る岡安さん。誰とも話したくない、もう何もかもが終わったと感じていた時期が続きました。まさに人生のどん底でした。

 

3.運命を変えた電話の向こうの優しさ

そんな岡安さんの状況を知っていたコーチは、あえて電話をかけてきました。

「お前、まだ片足が残ってるだろう?
だったらスキーできるだろ?
選手で戻ってこい!」

その言葉は、岡安さんの心に眠っていた可能性を呼び覚ましました。

「ふざけないでくれ!靭帯ごときで片足選手ができるわけがない!」
「あれ?」
「そうだろ!選手としてではなく、また障害者チームのコーチとして戻ってこい」

この提案は、新たな人生の扉を開く鍵でした。

障害者の方々と長く接してきた経験があった岡安さんは、靭帯がなくても自分のスキーを待ってくれてる人がいる!という前向きな気持ちを取り戻していきます。

そして何より、「みんな待ってるよ」という温かい言葉が、再び人とつながることへの勇気を与えてくれました。

 

4.パラリンピック黎明期での挑戦

30年以上前、今ほどパラリンピックが注目されていなかった時代。
障害者スキーの指導は、スキーが好きな優しいボランティアの方々が行っていました。そこに、現役に限りなく近い技術を持つ岡安さんが加わることで、チーム全体のレベルが劇的に向上しました。

特にブラインドスキーでは、視覚障害者の選手が強すぎて、その前を走るガイド役のパートナーが見つからないという問題がありました。元プロスキー選手である岡安さんなら、その役割を完璧にこなせる。彼は自分だけのポジションを見つけ、選手を勝利へと導いていきました。

 

5.夢の舞台への切符と、理不尽な現実

1994年リレハンメルパラリンピック。
岡安さんはナショナルチームのコーチとして、合宿にも参加していました。夢の舞台まであと一歩。しかし、最終選考の段階で政治的な圧力が入り、担当していた選手が代表から外されてしまいます。

「お前だけでも行ってくれ」と言われた岡安さんでしたが、彼の答えは明確でした。

「僕はその選手のためにコーチになった。他の人のコーチはやりたくない。それがオリンピックでもパラでも関係ない」

信念を貫き、大喧嘩の末に干されることになっても、岡安さんは自分の判断を後悔しませんでした。

 

6.人生の真の価値とは

岡安さんのその後の人生は、ジャパラ(障害者スキーの国内最高峰大会)の役員、アジアカップの運営、長野パラリンピックでのサポートなど、障害者スポーツ界への貢献で彩られています。競技者としての栄光は手放すことになりましたが、多くの人の人生に光を与える存在となりました。

絶望の淵にいた時に受けた一本の電話。それは単なる偶然ではなく、人とのつながりが生み出した奇跡でした。人生は予想もしない形で転機が訪れ、思いもよらない場所に新たな可能性が待っているのです。

 

7.大手電機メーカーでの24年間、そして運命の一日

「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実に直面し、26歳で初めてサラリーマンの世界に足を踏み入れた岡安さん。

大手電機メーカーでイベント業務を担当することになりました。持ち前のリーダーシップと現場を仕切る才能で、イベント現場のリーダーから新会社の事業立ち上げ、社長秘書、そして事業戦略室メンバーへと次々に昇進を重ねていきます。

24年間という長い歳月を大手電機メーカーで過ごし、順風満帆なサラリーマン生活を送っていました。

しかし、47歳のある日、運命が彼を待ち受けていました。
ハードワークが続く中での現場の掛け持ち。ようやく訪れた休日。

その日、脳卒中で自宅で意識を失い、救急搬送されたのです。医師も匙を投げるような状況で、家族が涙を流す中、息子の必死の呼びかけによって奇跡的に意識が戻りました。

 

8.死の淵で見つけた本当の答え

「毎晩眠るのが怖かった。
目を閉じたら死んでしまうと思って...
でも朝起きると嬉しくて涙が出るんです」

生と死の境界線で、岡安さんが気づいたのは、お金や地位では決して満たされない、本当に大切なもののことでした。20代で味わった絶望の自分を救済できていない。同じように苦しむアスリートたちの心の声を聞いてあげる人がいない。そんな思いが彼の心に蘇ってきたのです。

入院中にキャリアカウンセラーの資格を取得し、ソニーからマクドナルドへ、そして独立へという驚きの転身を遂げることになります。

 

9.生かされている理由

今の岡安さんは、力強くこう語ります。

「僕が今生きてる理由は、求める人がいるから生かされてる。
その人たちに答えるのが僕の存在価値であり、生きてる理由です」

なぜ彼は、そこまで強い使命感を持てるのでしょうか。死線を越えた人間だけが語れる、生きることの本質とは何なのでしょうか。

10.あなたも岡安さんの声に耳を傾けてみませんか

もしあなたが人生の方向性に迷っているなら、
キャリアチェンジを考えているなら、
困難な状況から立ち直りたいと思っているなら、
本当の生きがいを見つけたいと願っているなら、

この配信はあなたの心に深く響くはずです。

プロスキーヤーからサラリーマン、そして2度の死線を越えてカウンセラーへ。この奇跡的な人生転換ストーリーを、あなたの耳で、心で、確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わるはずです。

「人生配信オンリーワン」で検索して、今すぐ再生してください。

岡安さんの生きざまを体感し、一度きりの人生を本当に大切なもののために生きるヒントを見つけてください。

求める人がいるから生かされている──そんな生き方があることを、岡安さんが教えてくれます。

なぜ今、この物語を聞くべきなのか

現代社会を生きる私たちにも、人生の転機は必ず訪れます。
それは挫折かもしれないし、思わぬ出会いかもしれません。岡安さんの物語は、どんな絶望的な状況にあっても、人とのつながりと自分の信念があれば、必ず新しい道が開けることを教えてくれます。

30年以上前のパラスポーツ界の貴重な証言でもあるこのエピソードは、障害者スポーツがどのような人々の情熱によって支えられてきたかを知る貴重な機会でもあります。

そして何より、一人の人間が持つ強さと優しさに、深い感動を覚えることでしょう。


「人生配信オンリーワン」で描く真実の物語

人生にはそれぞれ異なるストーリーがあり、一人ひとりがオンリーワンの体験を持っています。今回の岡安さんの回は、特に心に響く内容となっています。一本の電話が人生を変える。その事実は、あなたの人生にも新たな可能性があることを示しています。

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2 months ago
15 minutes 47 seconds

オンリーワン
#84 1/1000秒を削る男の壮絶なスキー人生、岡安さんの人生物語1

1.いじめられっ子が雪上で覚醒

東京・大森で生まれ育った、体が小さくて弱い一人の少年がいました。
地元のコミュニティでは、いつもいじめられる側の存在。そんな彼の人生が、ある日のスキー教室で劇的に変わることになります。

実は、それは単なるスキー教室ではありませんでした。選手発掘プロジェクトだったのです。そして驚くべきことに、普段はいじめられていたその少年が、スキーを履いた瞬間、先輩たちに勝ってしまったのです。

「スキーを履いていないといじめられるけれど、履くと急に強くなる」—この発見が、彼の運命を決定づけました。


2.小学6年生が白馬村に住込みスキー修行

東京の子が本格的にスキーを続けるには限界があります。小学校を卒業する時、両親は「もういい加減にしなさい」と言われるほどです。

普通なら、そこで夢は終わったでしょう。ところが、コーチが「そんなことを言わないで、なんとか続けさせてください」と両親を説得したのです。

そして提案されたのが、今では考えられない解決策でした。

白馬村の旅館に住み込みで働きながら、地元の子たちと一緒にスキーを続けるという、まさに奇跡のような環境だったのです。

小学6年生の岡安さんは、本当に白馬村へ旅立ちました。大学生たちと同じタコ部屋で生活し、旅館の手伝いをしながら、時にはその大学生たちにスキーを教えて、空いた時間で自分の練習に励むという信じられない日々が始まったのです。

信じられないような環境でしたが、岡安さんにとってそれは苦痛ではありませんでした。なぜなら、スキーが心底好きで仕方がなかったからです。


3.障害者チームをサポートする小学4年生

さらに驚くべきことに、岡安さんは障害者チームのサポートも始めました。片足の方やチェアスキーの方々の東京から白馬への移動や宿での生活、そしてスキー場でのサポートまで、その頃からこなしていたのです。荷物の積み下ろしから現地でのお世話まで、「僕にできることは全部やる」という姿勢で、障害者の方たちと一緒に合宿に参加していました。

中学、高校時代も、この驚異的な生活は続きました。平日は東京の学校に通い、休み前になると夜行を乗り継ぎ土日や長期休みには白馬へ。そしてまた夜行を乗り継ぎ、東京へ戻り荷物を持ったままそのその足で学校へ。

毎週のように行ったり来たりを繰り返しながら、朝6時から夜11時まで、時間がある限りひたすら滑り続けました。普通の学生が遊んでいる時間も、宿での夕食の手伝いや掃除をした隙間時間に、スキー靴を履いて山にいるような生活でした。


4.高校1年生のプルスキーヤー、規格外の挑戦にスポンサーが惚れた瞬間

運命の高校1年生。16歳の時に、岡安さんのこの規格外の生活を「面白い」と評価してくれる人が現れました。某スキーショップがスポンサーがついたのです。

「板を出してあげる」「ウェアを出してあげる」「お小遣いもあげる」

ここからが、本格的なプロスキーヤーとしての道のりの始まりでした。

しかし、岡安さんは表舞台には立っていませんでした。「アングラなので」と本人が語るように、全中やインカレ、インター杯といった公式大会には出場せず、まさに「秘密兵器」として隠され続けていたのです。

それでも彼が戦っていたのは、1/1000秒を削るという異次元の世界。アルペンスキーでは1/100秒は当たり前、トップレベルになると1/1000秒まで見る、そんな狂気じみた精密さが求められる競技だったのです。

大学に進学してからも、岡安さんは数社のスポンサー企業に支えられながらスキー人生を歩んでいました。プロとしての将来への道筋も見えていました。


5.足が違う方向に…16歳の天才を襲った悲劇

しかし、運命は残酷でした。大学2年の時、大会中に転倒、突然の靱帯断裂。
「足が違う方向いちゃってた」という衝撃的な状況でも、興奮状態で痛みを感じず、片足で滑りだそうとしましたが、左足がついてきませんでした。その重大さになかなか気づけなかったといいます。

この怪我が岡安さんの人生を一変させました。

それまで共に切磋琢磨していた友人たちは、実は全員がライバルでした。
親とも喧嘩しながらスキーを続けていた彼には、この悲しみを分かち合える相手がいませんでした。

「誰にも悲しみを伝えられない」状況の中で、岡安さんはどんどん心を閉ざしていきます。

さらに追い打ちをかけたのは、適切な治療を受けられないことでした。
当時の日本では靱帯の再建手術技術が十分でなく、2年間も病院をたらい回しにされてしまったのです。その間に、切断された靱帯は体に吸収されて溶けてしまいました。「要は左の前十字靱帯はなかったので、常に包帯ぐるぐるで、それでも膝の脱臼癖がついてしまって早歩きさえもできなかったんですね、僕ね」と岡安さんは振り返ります。


6.絶望からの復活へ、
アスリート復帰を懸けた奇跡の手術

絶望の淵にいた岡安さんに転機が訪れたのは、2年後のことでした。

スキーのナショナルチームのドクターとの偶然の出会い。そのドクターは「俺なら直せる」と断言し、日本ではまだ症例の少ない最新の人工靭帯を入れた膝の再建手術を提案してくれました。ただし、条件がありました。学会に発表するためのサンプルとして手術を受けること、そして必ず競技復帰を果たすこと。

岡安さんは迷わず「全然戻りたいです」と答えました。この手術は普通の治療とは全く違っていました。アスリート復帰を前提とした特別な手術で、手術の2週間前から入院してひたすらトレーニング。

「体ぶよぶよになっちゃってた」彼を、2週間でみっちり鍛え上げてから手術に臨んだのです。腰から腱を取り出して複雑に組み合わせる大手術でしたが、見事に成功しました。


7.0.004秒の壁──そして訪れた解放の時

手術から1〜2ヶ月後、退院時の検査で反射テストを行いました。
結果は0.004秒の遅延。医師は「全然誤差だろう、もうほぼ大丈夫だよ」と言ってくれましたが、1/1000秒の世界で戦ってきた岡安さんには、この0.004秒が許せませんでした。

「僕は1/100、1/1000削ってやってたので、0.004の遅延はもう異常値であるってことに」なってしまったのです。

加えて2年間のブランクへの不安、もう一度あの状態に戻されることへの恐怖心。様々な要因が重なり、岡安さんは悩みに悩みました。

そして最終的に、せっかく治してもらったドクターに
「俺無理です。引退させてください」と告白したのです。

予想していたのは叱責でした。
しかし、ドクターの反応は意外なものでした。

「お前の人生だから好きにしなさいよ」そう言われた瞬間、岡安さんの中で何かが吹っ切れました。

「すごいすっきりした顔をしてたと思いますね」と本人が振り返るように、長い間抱えていた重荷から解放された瞬間でもありました。


今すぐ聴いてみて下さい

この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく何かが変わっているはずです。

小学生で単身白馬に渡り、逆境をチャンスに変え続けた岡安さんの人生は、まるで映画のようなストーリーです。しかし、これは紛れもない実話なのです。

1/1000秒という想像を絶する精密さの世界で戦っていた男の美学、突然の怪我がもたらした絶望と孤独、2年間の治療困難な状況、奇跡的な手術との出会い、そして最後の引退決断まで。

これほど濃密で劇的な人生を、これほど淡々と、それでいて深く語れる人はそう多くありません。

「普通の人はだって、経験できないっすもん」

岡安さんの言葉通り、この体験は確かに普通では味わえないものです。
だからこそ、この配信には計り知れない価値があります。

挫折を知る人には深い共感を、
順風満帆な人生を送っている人には新たな視点を、
そして全ての人に「人生とは何か」を考えさせてくれる貴重な時間となるでしょう。

天才的な才能を持ちながら突然全てを失い、それでも新たな人生を歩み始めた男の生き様。
高校生でプロになるという栄光から2年間の地獄、
そして奇跡の手術、最後の引退決断まで。
あなたの人生観が確実に変わる20分間がここにあります。

今すぐ「人生配信オンリーワン」岡安さん回を再生して、この奇跡のような人生譚に耳を傾けてください。きっと、あなたの心に深く刻まれる物語となるはずです。

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2 months ago
23 minutes 10 seconds

オンリーワン
#83 独立して3年間、12回の失敗から生まれた奇跡の「人事図書館」創設者よっさんの人生物語2

・なぜ日本の若者は3年で会社を辞めるのか?
・なぜ数十年前から問題視されているマネジメントが今でも繰り返されるのか?
・どうすれば誰も犠牲にならない組織を作ることができるのか?
・一社で終わる人生でいいのか?

 

そう語るのは、人事図書館の創設者・よっさん。
よっさんは東京の人形町に、日本で唯一となる「人事図書館」をオープンさせました。クラウドファンディングで多くの人の協力を得ながら、約半年をかけて実現した夢の場所。

一見すると成功者のような彼ですが、創設するまで、なんと3年間、12回の失敗を経験されています、
もがき苦しみ、長い暗闇の中で、よっさんは何を見つけたのか?
多くの起業家が経験する生々しい現実と、それを乗り越えた先にある深い洞察が隠されています。

 

1.就職した友達30人が消えた謎

大学院で組論を学んでいたよっさんの周りで、不可解な現象が起きていました。大学を卒業して就職した友達が次々と会社を辞めていくのです。
その数、なんと30人。しかも3年以内という短期間で。
「めっちゃやめるなって思って...企業も個人もお互いダメージを受けてるのはおかしいな」
よっさんは疑問に思いました。
なぜこれほど多くの人が職場を去らなければならないのか?
そして、その友達の一人から聞いた話は、彼の人生を大きく変えることになりました。

 

2.大手食品会社で起きた信じられない出来事

体育会系の大手食品会社に就職した友人が体験したのは、現代では考えられないような出来事でした。飲み会の席で服を脱がされ、ベランダに出されて、面白いポーズを取らないと中に入れてもらえない。これが実際に行われていたのです。
「そんなことやっていたら辞めるでしょって思うんですけど、でも大手の食品会社で当時は行われていたことを知ったときは衝撃でしたね」
数十年前からこういうマネジメントは良くないと言われているのに、なぜ今だに繰り返されているのか。学んできた組織作りの理論と、現実の世界があまりにもかけ離れていることに気づいたのです。

 

3.リクルートという修行の場

この現実を変えたい。そう決意したよっさんは、組織作りを支援する会社の中でも最も多くの事例が集まるであろう場所を選びました。リクルートマネジメントソリューションズです。
そこでの14年間は、まさに組織の最前線での修行でした。
適性検査、採用コンサルティング、研修、人事制度、アセスメント。

あらゆる角度から企業の課題解決に取り組みました。
大阪で3年半、東京で3年半、そして次第に一つの思いが募っていきます。
「日本の組織作りのパターンは大体7年ぐらい見てきた。
でももっと知りたい」

 

4.中国という未知の世界への挑戦

よっさんの中で、ある確信が芽生えていました。

「日本って結構キレイな国。でも人間はもっと生々しい生き物なんじゃないか」
もっと人間の本質的な部分、ドロドロとしたパワーバランスや生々しい現実を知らなければ、どんな組織でも共通する真理は見つけられない。
そう考えた彼は、迷わず手を挙げました。「海外で仕事をしたいです」
こうして始まった中国上海での3年半。

最初の3ヶ月だけで200社を回るという驚異的なスピードで、日系企業、中国系企業、欧米系企業のあらゆるバリエーションを目の当たりにしました。

 

5.警備員泥棒事件が教えてくれた人間の真実

中国で出会った一つのエピソードが、よっさんの組織観を決定的に変えました。ある日本企業が中国に新しいスーパーを開店した時の話です。
倉庫を守るために警備員を雇ったのに、なぜか商品が盗まれる。
調査してみると、なんと警備員自身が犯人だったのです。
「それなら警備員を2人にしよう」と考えたところ、今度は2倍盗まれるようになりました。
最終的な解決策は意外なものでした。
警備員を3人にして、「盗んでるやつを見つけたらボーナスを支給する」という仕組みを作ったのです。すると、ものがなくならなくなったというのです。
「これ日本の中だったら一番最初から起こらないだろうな。
警備員が盗んでましたっていう話があっても、そいつがおかしいみたいな話になって組織の学びにはならない」
でも人間って、そういう側面が絶対にある。
よっさんはこの時、組織作りの本質を垣間見た気がしたのです。

 

6.祖父への想いが生んだ使命感

よっさんの行動力の源泉は、実は幼い頃の記憶にありました。
大学教授だった祖父が、食卓で自分の研究について一生懸命話している時のこと。家族は「はいはい」と聞き流していましたが、よっさんだけは最後まで話を聞こうと決めていました。
「一生懸命やってる人が犠牲になっていくのを見るのはすごく嫌で。
だからどうしたら誰も犠牲にならないチーム運営とか組織運営ができるのかっていうのが、すごく大きな問いとしてあって」
この想いが、30人の友達の退職を見た時の憤り、リクルートでの14年間の修行、中国での200社巡り、そして現在の活動すべての原動力になっていたのです。

 

7.普通なら心が折れる3年間の地獄

40歳という人生の節目で会社を辞めたよっさん。
しかし彼の独立理由は、多くの人が想像するものとは全く違っていました。

「前の会社も好きだったし、やめたい理由なんてなかった。
ただ、一社で終わる人生が嫌だっただけ」という、まるで映画のような動機だったのです。

ところが現実は甘くありませんでした。
独立した瞬間、「一社じゃない人生」という目標は達成されてしまい、今度は「自分はどう生きていきたいか」という根本的な問いに直面することになります。

家族を養う責任もある中で、よっさんは必死に自分の旗を立てようと奮闘し始めました。

「これといえば吉田さんだよね」と言われるような存在になりたい。
その一心で始めた挑戦の数々は、しかし次々と失敗に終わります。
適性検査の使い方をレクチャーする事業では、あまりにも分かりやすく教えすぎて、30分のレクチャーでお客さんが「もう大丈夫っす」と帰ってしまう始末。
「小難しくやればよかったのに...」と周りからアドバイスを受けるよっさんの苦笑いが目に浮かびます。

 

8.12回の失敗が教えてくれたもの

「不安でしょうがないから、次々と挑戦し続けた」。

この率直すぎる告白が、よっさんの3年間を物語っています。

一つ失敗するたびに、「じゃあ旗が立つようになったか」と自問自答し、答えは常にNO。それでも40歳を過ぎ、このまま60歳、70歳になった時に「今の仕事を自分に頼むかな」と考えると、立ち止まることはできませんでした。

毎回真剣に「これで自分の旗を立ててやっていくんだ」と思いながらも、旗は立たない。普通なら心が折れてしまうような状況でも、よっさんは挑戦を続けました。その背景には、単なる成功への憧れではなく、もっと深い想いがありました。

「誰も犠牲にならないチーム運営をもっと当たり前にするにはどうしたらいいのか」。

この問いが、よっさんの心の奥底にずっとありました。一生懸命やっている人が馬鹿にされたり、自分を犠牲にして燃え尽きていく人を見るのが、どうしても嫌だった。多くの人が当たり前だと思っている「誰かが犠牲になる組織」を、本当に変えることはできないのだろうか。

 

9.13回目に見つけた本当の答え

12回の失敗を通して、よっさんは自分の特徴を理解し始めました。
「カチッとしたアウトプットを出すことには向いていないらしい」
「対面で会っている方が反応がいい」
「本に関しては信頼を抱きやすい」。

失敗は辛いものでしたが、同時に自分自身を知る貴重な機会でもあったのです。

そして13回目の挑戦として生まれたのが、人事図書館でした。

これは単なるビジネスではありません。
「誰も犠牲にならないで高い成果を出せるんだ」ということを、多くの人に体験してもらい、信じてもらえるような場所。よっさんが長年抱いていた想いを、ついに形にできる場所だったのです。

 

10.あなたにとっての13回目は何ですか?

この話を聞いて、あなたは何を感じるでしょうか。

・独立や転職を考えているけれど失敗が怖い人?
・何度も挫折を経験して諦めそうになっている人?
・40代で人生の転換点を迎えている人?

よっさんの3年間は、決して華々しいサクセスストーリーではありません。

でもそこには、多くの人が抱える不安や焦りとの向き合い方、失敗を恐れずに進み続ける勇気、そして本当の意味での価値ある人生を築くヒントが詰まっています。

「自分じゃね、なかなか気づかないんで」と謙遜するよっさんですが、彼の経験は間違いなく多くの人の心を支える力を持っています。

現代は成功事例やノウハウに溢れていますが、本当に必要なのは失敗との向き合い方と、自分らしい成功の定義ではないでしょうか。よっさんの生々しい告白と深い洞察が、あなたの明日への一歩を後押ししてくれるはずです。

今すぐこのエピソードを聞いて、よっさんの3年間の軌跡を辿ってみてください。あなたの13回目の挑戦は、もうすぐそこにあるかもしれません。

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2 months ago
29 minutes 24 seconds

オンリーワン
#82 日本唯一の「人事図書館」創設者が語るよっさんの人生物語1

「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプです

そんなよっさんが語る、誰にもマネできない人生設計術。
第1話では、彼の人生の基盤となった幼少期から大学時代までを深掘りします。

小学生の頃、図書室に入り浸っていた一人の少年がいました。本に囲まれて育った彼は、やがて「みんなが知らないバンド」を追いかける中学生となり、そして誰も想像しなかった人生の軌道を描き始めます。

彼の名前は、よっさん(人事図書館 創設者)。
一見普通に見える彼の人生には、実は驚くべき「ある法則」が隠されていました。


1.3歳から始まった"発見癖"が人生を変えた話

3歳のよっさんが札幌の地下鉄のホームに立っていた時、他の子供たちが電車そのものに夢中になっている中、彼だけは違うものを見ていました。車輪です。しかも、ただの車輪ではありません。よく見ると、出っ張っているものと凹んでいるものがあることに気がついたのです。

「なんで出っ張ってるのと凹んでるのがあるんだろう」

この素朴な疑問を両親に投げかけた時、大人たちでさえ「そうなの?」と首をかしげました。その瞬間、よっさんの心に小さな火が灯りました。

「自分しか知らないことかもしれない」というワクワク感。これが、彼の人生を決定づける「発見癖」の始まりでした。


2.「コンビニって何だ?」祖父が育てた思考力

実は、よっさんの家庭環境は極めて特殊でした。
祖父は大学教授、母方の叔父2人も大学教授、そして両親も大学関係者という、まさに学者一家。

食卓で交わされる会話は、一般的な「今日何があった?」ではなく、研究内容や学術的な議論でした。

特に印象深いのは、おじいちゃんとの会話です。

ある日突然「コンビニって何だ?」と聞かれたよっさん。
「ちっちゃいスーパーみたいなやつ」と答えると、「じゃあ小さいスーパーは全てコンビニなのか?」と返されました。

この追求は止まりません。
おじいちゃんは意地悪をしているのではなく、ただ正確に理解したいだけ。適当な受け答えでは納得してもらえない環境で、よっさんは物事を深く考える習慣を身につけていきました。


3.なぜ『ゾロリ』じゃなく『ほうれん草マン』を選んだのか

小学生になると、この好奇心はさらに広がりました。
本は大好きでしたが、みんなが読んでいる『かいけつゾロリ』ではなく、その大元になった『ほうれんそうマン』を選ぶような子供でした。

なぜなら、ゾロリは元々ほうれんそうマンの敵役だったという事実を知っていたから。

「他の人があまり読んでなさそうな本」への偏愛は、一人っ子として大人に囲まれて育った環境で培われた、自分だけのアイデンティティを確立したいという想いの表れでもありました。

ドラゴンクエスト3が大ブームだった小学1年生の時代、よっさんはゲームにも夢中になりました。新しいことをどんどん体験できるゲームの世界は、彼の探究心を満たす完璧な場所でした。

読書とゲーム、そして音楽。小学6年生でCDシングルを大量に買い集めていた彼は、すでに「好きになったものは長い」という、現在も続く特徴を見せていました。

そして運命的な出会いが訪れます。小学6年生の担任の先生が、本格的なバンド活動をしていたのです。ライブにも何度か足を運び、音楽の持つ力に魅了されたよっさん。


4.新しいこと好き×やめない主義、最強の組み合わせ

中学生になるとベースを買ってもらい、バンド活動を開始しました。この音楽活動は、なんと現在も年1回のペースで続いている、彼の人生の重要な柱の一つです。

放送部に入り、剣道も継続し、バンド活動にも精を出す中学時代。

一見バラバラに見える活動の根底には、常に「新しいことへの探究心」と「一度始めたことを長く続ける継続力」がありました。
やめた趣味はほとんどないという彼の言葉通り、幼少期から始まった好奇心は形を変えながらも決して消えることはありませんでした。


5.片道2時間の高校選択が示した、人生の方向性

高校進学の際、よっさんは地元の中学校からたった一人で、片道2時間もかかる新設の私立高校を選びました。

なぜそんな遠い学校を?

周りからは「普通じゃない」と言われましたが、彼は「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプだったのです。

この選択が、後の人生を大きく左右することになります。その高校は海外を重視する学校で、ニュージーランドでの3週間研修や6カ国から選べる修学旅行など、グローバルな体験が彼の視野を一気に広げました。そして、この体験が後のアメリカ生活への布石となったのです。


6.90個のバンドが教えてくれた、チーム作りの真実

大学に入ったよっさんは、軽音楽部で驚異的な記録を打ち立てます。
なんと7年間の大学と大学院生活で、90個ものバンドを結成したのです。しかし、この数字の裏には深い学びがありました。

「モテたいのに、モテたいって隠してやると、途中でうまくいかなくなるんですよ」

彼が発見したのは、率直なコミュニケーションの力でした。
好きな子に告白するための曲をやっていたメンバーが、振られた途端にやる気を失う。でも周りは「ライブをやりたい」という想いしか聞けていなかったから戸惑う。そんな体験を通じて、彼は人の本当のモチベーションと向き合うことの大切さを学んだのです。


7.アメリカで見つけた、国境を越えた仲間作り

大学時代、よっさんはアメリカで1年間を過ごします。現地でのインターンや語学学校での学び、そして何より印象的だったのは、水より安いビール(1ドル!)を片手に築いた国際的な友人関係でした。
アジア系、フランス系、現地のアメリカ人たち。言葉や文化の壁を越えて、彼は再び「チーム作り」の魅力に取り憑かれていきます。


8.知識と実践を結びつけた、独自の人生設計術

本に囲まれて育ったよっさんにとって、「本にはたくさんいいことが書いてある」というのは信念でした。しかし彼が本当にすごいのは、その知識を実際の体験で試し続けたことです。組織論の理論を90個のバンドで検証し、目標設定の理論をサークル運営で実践し、コミュニケーション論を海外生活で磨き上げました。

そして今、彼は人事図書館という形で、自分が本から得た学びと実体験を融合させた独自の活動を続けています。

音楽、読書、海外経験、チーム作り。一見バラバラに見えるこれらの体験が、実は一本の太い線で繋がっていたのです。

その「繋がり」の秘密を知ることで、あなたも自分だけの人生の物語を紡げるようになるでしょう。


9.あなたも自分だけの物語を始めませんか?

よっさんの人生が教えてくれるのは、「普通じゃない」選択こそが、人生を豊かにするということです。

みんなが行く道ではなく、自分が本当に興味を持った道を歩む勇気。
そして、その体験を仲間と分かち合う喜び。

彼が大学卒業後にどんな道を歩み、現在の人事図書館にたどり着いたのか?
その答えは第2話で明かされます。

この配信を聞き終わった時、固定観念を打ち破り、あなたの中に眠る「発見者」を目覚めさせ、あなたは「普通じゃない人生」を歩むための最初のヒントを手に入れているはずです。

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2 months ago
21 minutes 49 seconds

オンリーワン
#81 心をつなぐハグで新しい日本を作るマリアさんの人生物語2

1.あなたは最後に家族をハグしたのはいつですか?

TEDのステージから降りたマリアさんの元に、一人の高校生がやってきました。目を合わせることもできないほど緊張していた彼は、震え声でこう言ったのです。

「一人でこのスピーチを聞きに来ました。恥ずかしいけど、今日帰ったら親に感謝をハグで伝えます」


2.日本に移住されたフランス人女性はずっと1人だと感じていた

同じ日、フランスから日本に移住してきた女性が、大粒の涙を流しながらマリアさんに近づきました。
「日本に来てからずっと一人だと感じていました。
でも今日、その理由がわかったんです。
ハグしてもらえないことで、こんなにも心の距離が生まれるなんて...」


3.不登校の子供が学校に通えるようになるまで

不登校になった子どもの親御さんの話は、特に心に刺さります。

子どもは部屋に閉じこもり、会話を拒絶していました。何を声かけても、子どものイライラを増すだけ。そんな絶望的な状況で、親御さんができることは食事を運ぶことだけでした。

その時です。マリアさんの話を聞いた親御さんは、恥ずかしがって嫌がる子どもを毎日ハグし続けることにしたのです。言葉では伝わらない愛情を、全身で表現し続けました。すると少しずつ、子どもが学校に行かなくなった理由を話してくれるようになりました。

そして数ヶ月後、ついに部屋から出てきて、学校にも通うようになったのです。

言葉がプレッシャーになってしまうとき、ハグは無条件の愛を伝える最強のツールになります。この事例は、マリアさんの活動が単なる理想論ではなく、実際に人生を変える力を持っていることを証明しています。

これらは決してフィクションではありません。マリアさんが経験された実際に起きている現実の物語なのです。


4.ハグの持つ力

彼らの反応を見れば、ハグが持つ力の大きさは明らかです。

しかし、なぜ日本でこれほどまでに反響があるのでしょうか?
マリアさんは日本人が冷たいからだとは決して言いません。
むしろ、日本の文化的背景を尊重しながら、その中で失われてしまった大切なものを取り戻そうとしているのです。


5.なぜ見知らぬイギリス人が、マリアさんにハグの講演を企画したのか?

人生が変わる瞬間は、いつも予想外の場所で起こるものです。
マリアさんにとって、それはTEDトークの舞台で話した後に訪れました。

そのTEDトークを偶然見た一人のイギリス在住者の心を深く動かしたのです。その人は画面の向こうのマリアさんに強く心を揺さぶられ、「この人の話をもっと多くの人に聞いてもらいたい」と感じました。

そして驚くべきことに、海を越えてマリアさんにハグの講演企画を持ちかけたのです。


6.ハグ文化の国で起きた心の革命

イギリスといえば「ハグ文化」が根付いている国。
マリアさんは最初、そんな文化の本場で自分のメッセージがどう受け取られるのか不安でした。しかし、実際に講演の会場に足を運んでみると、30人の聴衆が集まり、彼女の話に真剣に耳を傾けてくれました。

その中には、メキシコやブラジルといったラテン系の国からイギリスに移住してきた人たちが多くいました。彼らにとって、マリアさんの「ハグ」の話は特別な意味を持っていたのです。

「イギリスは私たちの母国ほどハグをしないし、感情を表に出さない。
だからこそ、ハグを通して感情を伝えることが恋しかった...」

一人の移住者がそう語ったとき、会場全体に共感の波が広がりました。


7.当たり前の中に隠された宝物

さらに驚くべきことが起こりました。

ハグが日常的な習慣だった人たちが、マリアさんの話を聞いて新たな発見をしたのです。

「ハグはもう当たり前すぎて、その意味を考える瞬間なんてなくなっていました。でも改めて気づいたんです。家族とのハグには、ただの習慣じゃない、心が込められているということを。
今度からは、その気持ちを意識してハグしようと思います」

会場にいた一人がそう語った瞬間、マリアさんは自分のメッセージが確実に人々の心に届いていることを実感しました。文化の違いを超えて、人間として大切なものは共通しているのだと。


8.あなたの人生にも起こりうる奇跡

この物語は、マリアさんだけの特別な体験ではありません。私たちの日常にも、実は同じような「当たり前の奇跡」が隠れているかもしれません。

グローバルな視点から自分を見つめ直すことで、人間関係の本質に気づき、一歩踏み出す勇気を得ることができるのです。

見知らぬ人がわざわざ企画してくれたハグの講演会。
30人の心を動かしたハグの物語。
そして、普段何気なくしている行動に込められた愛の発見。
すべてがマリアさんの人生配信に詰まっています。


9.AI時代だからこそ価値が高まる人間らしさ

マリアさんは未来を見据えています。
AIが人間の仕事を代替し、オンラインでのコミュニケーションが当たり前になった時代。スマートフォンの画面越しの「いいね」や絵文字で感情を表現することに慣れてしまい、画面越しでは伝わらない何かがあります。

それが肌と肌が触れ合うことで生まれる安心感、信頼感、そして愛情です。

まさにそんな時代で、「デジタル技術が進歩すればするほど、ハグのような人間的な温かさが宝物のように貴重になる」と彼女は語ります。これは感情的な願望ではなく、冷静な社会分析に基づいた予測です。
マリアさんの活動は革命的な意味を持ちます。彼女は日本の文化を深く理解しながらも、「握手ではなくハグで挨拶する」という新しい可能性を提示しているのです。これは単なる挨拶の変更ではありません。人と人との心の距離を縮める、まったく新しいコミュニケーション革命なのです。

マリアさんの体験談を聞いていると、自分の人生も違った角度から見えてくるはずです。TEDトークから始まったこの奇跡の連鎖が、今度はあなたの人生にも新しい気づきをもたらすかもしれません。

人生は、思いもよらない場所で、思いもよらない人との出会いによって輝き始めます。マリアさんの物語があなたの次の一歩になることを願って、今すぐポッドキャストを再生してみてください。きっと、あなたの中の「当たり前」が「特別」に変わる瞬間を体験できるはずです。


今すぐ聞くべき理由

この配信を聞いた人たちは、すでに行動を始めています。

高校生は家族への感謝をハグで伝え、親御さんたちは毎日の家族ハグを習慣にし、孤独に苦しんでいた女性は人とのつながりを取り戻しました。

あなただけが取り残されていいのでしょうか?
マリアさんは今、仲間を募集しています。
本格的なコミュニティ活動が始まります。「ハグ文化」が日本に根付く前に、この革命の始まりを目撃し、参加する機会があるのは今だけです。

明日から家族との関係を変える具体的な方法を知り、言葉にできない感謝を伝える技術を身につけ、そして孤独感から解放される実践的なアクションを学ぶことができます。さらには、日本社会の未来を変える歴史的な運動の先駆者になる可能性も手に入るのです。


「人生配信オンリーワン」マリアさんエピソードを今すぐ再生して、あなたの人生を変える一歩を踏み出してください。

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2 months ago
11 minutes 21 seconds

オンリーワン
#80 「命を救うハグ大使」マリアさんの人生物語1

1.一つの疑問から始まった、愛と孤独の人生

ブラジルで生まれ、3歳半で日本に帰国したマリアさん。

日本で幼稚園のバスに乗る前、彼女は当たり前のように父親に
「パパ、ハグ!」と言いました。

しかし、それを見たクラスメートたちの反応は——

「気持ち悪い」
「なんでパパにハグするの?」

その日から、マリアさんへのいじめが始まりました。


2.封印されたハグ、そして父の死

子供ながらに「みんなと違うことをするといじめられる」と理解したマリアさんは、外でのハグを封印。家族の中だけの特別なコミュニケーションツールとして、ハグを大切にしながら成長していきます。

受験に失敗したとき、失恋したとき——いつも父親のもとへ行き、ハグで慰めてもらう。それが当たり前の日々でした。

しかし、健康だった父親が突然この世を去ります。

人生で一番の衝撃を受けたマリアさんを待っていたのは、日本社会の無言のプレッシャーでした。


3.「大丈夫ですか?」という優しさ

会社の同僚たちは心配して声をかけてくれます。でも、毎回説明した後には「大丈夫です」と答えなければならない空気。

全然大丈夫じゃないのに。 泣きたいのに泣けない。 助けてほしいのに言えない。

「もう誰とも会いたくない」

家から出たくなくなったマリアさんの元に、一人のメキシコ人の友人が訪ねてきました。


4.言葉を超えた愛の力「I am here for you」

ドアを開けると、友人は何も言わずにマリアさんをハグ。

「I am here for you(私はあなたのためにここにいる)」

その瞬間、マリアさんはようやく涙を流すことができました。
無理して「大丈夫」と言わなくていい安心感。
一人じゃないという温もり。

言葉の力を超える、ハグの力を実感した瞬間でした。


5.命を救うハグ大使として

この体験を通してマリアさんは気づきます。

日本では1日平均50人が自ら命を絶っている。
多くの人が「周りに負担をかけたくない」と助けを求められずにいる。

もし誰かが言葉ではなくハグで
「あなたは一人じゃない」と伝えてくれたら?
SOSを出せる瞬間が作れたら?
救える命があるのではないか?

現在、マリアさんは「命を救うハグ大使」として活動を始めています。


6.日本の家族が抱える深刻な問題

日本では、親子でさえハグをしない家庭が大多数。

  • 「お疲れさま」と言葉で伝えても、なかなか伝わらない感謝の気持ち

  • 距離感のある父娘関係

  • 夫婦間でも照れてしまうスキンシップ

マリアさんは気づきました。
日本人は感情を体で表現する方法を知らないのだと。


7.お父さんとの関係に悩む女性

ある女性は、何年も距離感のあった口下手なお父さんとの関係に悩んでいました。

本音で話したこともなく、どうやってコミュニケーションを取ったらいいか分からない状態でした。

でも、マリアさんの話を聞いて勇気を出し、お父さんに後ろからそっとハグをしたのです。お父さんは何も言いませんでしたが、それを静かに受け止めてくれました。

それ以来、会うたびにハグが習慣となり、今まで縮まらなかった父娘の距離が急速に近づいていきました。


8.ハグをしたことがない夫婦

今まで一度もハグをしたことがない夫婦の話もありました。ある男性がマリアさんの話を聞いて帰宅し、勇気を出して奥さんにハグをしたところ、最初は「何急に?」とびっくりされてしまいました。

でも、彼は諦めずに「ありがとう」という感謝の気持ちを込めたハグだということを言葉で説明し続けました。
すると、奥さんも次第にその温かい気持ちを理解し、今では夫婦の新しいコミュニケーション方法として定着しているといいます。


9.カメラマンを使った革命的なアプローチ

でも、いきなり「ハグしましょう」と言っても、日本人は恥ずかしがってできません。

そこでマリアさんが編み出したのが、**「撮影会方式」**という画期的な方法。

プロのカメラマンを呼んで、「撮影のために」という理由で自然にハグをしてもらう。

「カメラマンさんが言ってるからやるんだよ」という言い訳があることで、参加者は恥ずかしさのハードルを越えることができました。


10.ハグの科学的な効果

実は、ハグの効果は科学的にも証明されています。
ハグが文化として根付いているブラジル、スペイン、イタリアなどの国々は、自殺率が低いというデータもあるのです。

体感することでしか得られない、言葉を超えた深いコミュニケーション。
それがハグの持つ真の力なのかもしれません。

しかし、マリアさんの活動は常に誤解との戦いでもありました。
話を聞いた経営者の中には「じゃあ職場でもハグをルールにしよう」と言い出す人もいたのです。マリアさんは慌ててそれを止めました。

強制的なハグには何の意味もありません。
大切なのは、互いの信頼関係の上に成り立つ、自然な感情表現としてのハグなのです。


あなたも最後に家族をハグしたのはいつですか?

大切な人への愛を、言葉以上に伝える方法があります。
あなたも勇気を出して、大切な人に感謝のハグをしてみませんか?

「体感しないと分からない。ハグには、言葉を超えた力がある」とマリアさんは語ります。

きっとあなたの人生観も、そして大切な人との関係も変わるはずです。
勇気を出して、今日から始めてみませんか?

マリアさんの人生から学ぶ、本当の愛のコミュニケーションとは——

今すぐ再生して、心温まる感動の実話をお聞きください。
きっとあなたの人生観も変わるはずです。

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2 months ago
22 minutes 27 seconds

オンリーワン
#79 「ご縁の中で自分を生かす」與良さんの人生物語2

あなたは知っていますか?
一度はすべてを失った男が、なぜ今「エネルギーの塊」のような存在になっているのか。
今回のゲストは與良 (よら)さん。
一見すると、穏やかで哲学的な起業家に見える彼ですが、その裏には想像を絶する人生ドラマが隠されていました。


1.その日、37歳の男は人生最大の問いを突きつけられた。

~2度死んで、2度蘇った男の物語~


「君は何のために生きているんだ?」

突然、胸ぐらを掴まれるような勢いで問いかけられた與良さん。

37歳の彼は、その瞬間まで考えたこともない質問に戸惑った。

「そんなことあまり考えたことないから...」

逃げようとした彼に、その男は言った。

「逃げたら君の人生がダメになる。
俺が一緒に本気で考えてやるから」

これが、與良さんの人生を根底から変えた運命の出会いだった。


2.最初の「社会的な死」

物語は與良さんが初めて「社会的な死」を迎えたところから始まる。

食べるために、ただ必死に働く日々。
それまでの人生で培ってきたものが音を立てて崩れ落ちた時、彼が選んだのは組織・人材開発の会社「スコラ・コンサル」だった。

「とりあえず飯食わなきゃいけないから働かなきゃ」

そんな切実な想いでスタートした第二の人生。
しかし、この選択が後に彼の運命を大きく変えることになる。


3.運命を変えた3ヶ月間

スコラ・コンサルで数年が経った頃、與良さんは運命の人物と出会う。

総研会社の元専務取締役。外部からスコラ・コンサルに出入りしていたその男性は、與良さんに執拗に問いかけ続けた。

「何のために働いているんだ?」
「何のために生きているんだ?」

うざいと感じながらも逃げられない。
そして始まった3ヶ月間の濃密な対話。

「最初は、部活の先生みたいに嫌いだったんですけど、最後はやっぱり『いてくれたおかげです』ってなるじゃないですか。そういう感じでした」

與良さんは振り返る。
この3ヶ月で、彼は人生で初めて真剣に自分と向き合った。


4.発見した「復活の3要素」

この体験を通じて、與良さんは人生復活の秘密を発見する:

1. ご縁
人との出会い

2.問いと対話
「本気で聞いてくれる人がいる」
ただ聞くのではない。
一緒に本気で考えてくれる人の存在。

3. 応援
「一人じゃないって思わせてくれる」
しかし、這い上がる過程には時間差がある。
「いつでも戻ってきていいよ」
そう思わせてくれる環境。


5.二度目の試練、そして真の覚醒

しかし物語はここで終わらない。
與良さんは再び「社会的な死」を経験することになる。

だが今度は違った。一度目の経験で身につけた「復活の3要素」が彼を支えた。問いを立て、誰かと対話し、応援してくれる人に力を借りる。

「何かあった時には問いを立てて、誰かと対話して、僕を応援してくれる人に力を借りる」

これが與良さんの新しい人生哲学となった。


6.ギバーの矛盾

復活を遂げた與良さんだが、ここで興味深い発見をする。

お金を意識した時ほどうまくいかない。
無意識に人のために動いた時の方が、結果的にお金も入ってくる。

「無意識でいい時はギバー(与える人)になれるんだけど、意識するとテイカー(受け取る人)になってしまう」

現実世界の不思議なルール。
與良さんは今もこの矛盾と向き合い続けている。


7.新しい世界への扉

この体験が「エール」という事業の誕生につながった。

学生や社会人たちに「何のために働くのか」を考える機会を提供 エール。
辛い経験をした人を問いと対話と応援で支える世界を創造

「僕のような辛い体験をした人が、問いと対話と応援してくれる人が存在する世界を作りたい」

與良さんの新しい挑戦が始まった。


8.栄光から転落へ「上場という夢の終わり」

かつて與良さんには、大きな夢がありました。
起業家として会社を育て、上場を目指していたのです。多くの人が羨む成功への階段を、一歩ずつ登っていました。

しかし、運命は残酷でした。

「一回上場とかで失敗してから...」

さらりと語られるこの一言の裏には、想像を絶する挫折と絶望が隠されていました。すべてを賭けた夢が崩壊した瞬間。それは、與良さんにとって「社会的死」とも言える出来事でした。

普通の人なら立ち上がれないような状況。でも、與良さんの物語は、ここから始まるのです。


9.暗闇の中で見つけた一筋の光

どん底の中で、與良さんは一つの気づきを得ました。

「どこに向かっていくんだろうって思って生きてる...
だけど、なんか どっかに向かって生きていこうとしなくていい という自分もいて」

それは、目標や成果にとらわれることからの解放でした。
大きな方向性として「愛と感謝の地球を作る」という想いは持ちながらも、具体的な道筋にこだわらない生き方。

そして、ついに見つけたのです。

「ご縁の中でどういう風に自分を生かすか」

この一つの答えが、與良さんの人生を根本から変えることになりました。


10.「人生暇つぶし」という名の革命

失敗の経験を通して、與良さんは驚くべき境地にたどり着きました。

「人生暇つぶしという前提で生きてるので」

この言葉を聞いた瞬間、私は息を呑みました。
これは諦めではありません。これは、成功への執着から完全に自由になった者だけが到達できる、究極の人生哲学だったのです。

「売上を大きくしたいとかあんまないんですよ。
飯食えればいいやぐらいで思って」

でも不思議なことに、そう語る與良さんからは、むしろ強烈なエネルギーが溢れ出ていました。話しているだけで、こちらまで元気になってしまう。
それは一体なぜなのでしょうか?


11.執着を手放す魔法

與良さんには、多くの人が持てない特殊な能力がありました。
それは「手放す力」です。

出版の話が進んでいた時のこと。

「次の本が執着に変わってきたので、手放しました。
次の本を出したい、出さなきゃになってきたから...
あ、これ執着だからもう手放そうと思って」

普通の人なら、せっかくのチャンスを逃すまいと必死になるところです。
でも與良さんは違いました。
執着に気づいた瞬間、潔く手放したのです。

「僕は結構、簡単なんで」

この一言に込められた境地の高さ。
それは、すべてを失った経験があるからこそ到達できた境地でした。


12.現在進行形の奇跡「秘密決社での若返り計画」

そんな與良さんが今、取り組んでいるプロジェクトは実にユニークです。

  • チャクラグラスでのメガネ制作

  • オンラインサロンと起業塾の運営

  • そして極めつけは...

「若返りの秘密決社作ろうと思ってて。
内側と外側の若返りを誰にもバレないようにやってく」

すべては「ご縁の中で自分を生かす」という一つの軸から生まれているのです。


13.新時代の起業論「セルフベーシックインカム」

與良さんが提唱する革命的な考え方があります。

「バイトしながら起業でもいいし、派遣しながら起業でもいい」

従来の起業論では、「起業だけで食えないからバイトしている」と考えがちです。でも與良さんは違います。

「焦燥感なく安心した心でいたいから、バイトしながらしている」

この視点の転換が、すべてを変えるのです。
同じ状況でも、見方が変わるだけで「惨めな起業家」から「賢い起業家」に変身してしまう。これが與良さんの言う「世界を見る力のアップデート」なのです。


14.すべてはご縁から始まる

「僕の体験は世の中の体験だと思ってるので、シェアしてなんぼだと思っている」

與良さんがすべてをオープンに語る理由がここにありました。
自分の失敗も成功も、すべて世の中の財産として共有する。
その姿勢が、自然と人を引き寄せているのです。

「なので、もう、さらけ出し人生」

この言葉に込められた覚悟と愛。
それが、與良さんから溢れ出すエネルギーの正体でした。


15.あなたへの招待状

もしあなたが今、人生に迷っているなら。
もしあなたが、失敗を恐れて一歩を踏み出せないでいるなら。
もしあなたが、成功への執着で苦しんでいるなら。

與良さんの物語は、きっとあなたの人生に新しい視点をもたらしてくれるでしょう。

すべてを失った男が見つけた、本当の豊かさとは何なのか?
「人生暇つぶし」と笑える境地に至るまでの道のりとは?
そして、なぜ彼の周りには自然と人が集まってくるのか?

「人生配信オンリーワン」で、この奇跡の物語の続きを聞いてください

與良さんの人生逆転ストーリーには、まだまだ語られていない秘密がたくさんあります。

山あり谷ありの人生を歩み、それでも「ご縁の中で自分を生かす」ことを選んだ一人の男の物語。

それは、きっとあなたの人生にも奇跡を起こしてくれるはずです。

今すぐ視聴して、あなた自身の物語を始めませんか?


16.  あなたも主人公になれる

この物語を聞いて、あなたの心にも「問い」が生まれているかもしれません。

あなたは何のために生きていますか?
あなたは何のために働いていますか?

もしその問いに向き合いたいなら、もし人生の次のステージに進みたいなら、與良さんの20分の人生ストーリーを聞いてみてください。
與良さんが執筆された本を読んでみて下さい。

1人起業家マインドセット 「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方 | 與良 だいち |本 | 通販 | Amazon


胸ぐらを掴まれるような衝撃は保証できませんが、あなたの人生を変える「何か」がきっと見つかるはずです。

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2 months ago
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オンリーワン
#78 二度の社会的「死」から学び、「好き」を「稼ぎ」にできるようになった與良さんの人生物語1

1. エリート街道20代から35歳で人生迷子

大学を卒業して、伊藤忠商事に入社。

25歳で外資系コンサル、アクセンチュア(旧アンダーセンコンサルティング)に転職、戦略コンサルタントに。

29歳のとき、父親が経営するシステム開発会社(社員70名)に後継者候補として転職。

これだけ見ると、
ピカピカなキャリアに見えるでしょう。

僕も、成功の人生の道を歩んでいると
疑いもなく信じていました。

しかし、、、34歳のとき、
父親の会社で社員の退職対応や
リーマンショックによる大幅売上減もあり、

過剰すぎる責任感を勝手に持ってしまい、
僕の力不足もあいまって、心を壊してしまいました。
そこからは、
薬に助けられながらの生活でした。
朝、会社に向かうバスの中では

「このバス、事故にあえばいいのに、、、」

そんなことを毎日思う日々。
そんな生活が1年ほど続いた35歳のある日・・・

「銀座の交差点で叫んで走る」

というところまで追い込まれ、会社にいけなくなりました。

・・・はい、

「社長の息子の役員が、会社に来なくなる事件」

を起こしたんです。

それから一度も会社に行かぬまま、会社を去ることになります。社員のみんなに挨拶もなしに...十字架を背負った気持ちになりました。そして、家から出られなくなりました。恥ずかしいし、情けない気持ちに押しつぶされるような毎日。父親にはものすごい迷惑をかけたと思います。

これが、1度目の社会的「死」でした。

2.2度目の社会的「死」。1円で会社を売却

35歳で父親の会社を辞め、無職・無収入になりました。

子供は1歳、まだ当分終わらない住宅ローン、、、人生、終わったと思いました。しかし、死ぬ勇気もない。家族のためにも、生きていかなければいけない。半年ほど時間が経ち、サラリーマンに戻りました。

前の会社で「人がすべて」とわかったので、組織開発コンサルタントとして転職しました。そこの仕事はとても面白く、僕に合っていたようでした。

2011年の震災を機に「ハタモク(働く目的)」という

学生と社会人が「何のために働くのか」を語り合う場を仲間と立ち上げたら、それが多くの人に共感され、活動は全国に広がるほどに。何度か新聞や雑誌にも取り上げられ、一度終わったと思った人生は、少しずつ良い方向に回復していきました。2013年、この流れを事業にしたいと思い、「株式会社もくてき」を立ち上げました。「目的に向かって生きる・働く人と組織を増やす」というビジョンを掲げた会社です。

いまでこそパーパス経営と言われていますが、その時は「なにいってるの?」と言われる始末でしたが、ときどき見つけてもらって、新聞に取り上げてもらったりしました。

翌年の2014年には人を応援する「エール」というクラウドサービスを立ち上げ、投資家などから1億円近くを調達して上場を目指すことにチャレンジしました。

「多くの人に応援を届けたい」

そういった想いをカタチにしたかったんです。

ですが、僕の力不足もあり、
サービスが思うようにいかず...
情報漏洩問題も起こして顧客はゼロに。
毎月500万近くの赤字が垂れ流れ、、、
3年間、それこそ寝ずに頑張りました。

心の限界も超えていましたが、
なんとか耐えて踏ん張っていました。

・・・しかしある日、倒れました。
・・・一度休んだら、心も折れました。

そして、またやってしまったんです。
今度は「社長がこなくなる事件」を。

心も体も限界を超え、
何もできなくなりました。
弁護士に力を借りながら
投資家と話し合った末、

僕がこれ以上、
会社の経営をするのは無理と判断し、
会社を手放すこととしました。

売却金額は1円です。

翌日、銀行通帳には「1円」の入金が記帳されました。
やってきたことも、社員や仲間も、お金も、すべてなくなりました。命懸けでやってきたことが1円と記帳されただけ。

2016年、42歳。
これが2度目の社会的「死」でした。
人生で最もむくみ、体重も20キロ近く、増えました。

いつもガマンばかりしていて、ストレスをためて
いつも背中が痛くて、呼吸もできない日々でした。

家族には大変な苦労を掛けてしまいました。
このときには絶対に戻りたくない。そんな時代です。


3.生き直しで「半径3m」 x 「好き」の生き方に

また、無職・無収入になりました。人生2度目。

「おれ、そんなに悪いことしたのかよ」

神様に、そう言うしかできませんでした。

「まじめに一生懸命に生きてきただけなのに。なんでこんな目にあわなきゃいけないの。つらすぎるよ。もう生きるの疲れたよ。」

自分を責め続けました。人生を、あきらめたくなりました。

しかし、あるとき、ふと、

「あ、僕の生き方は 何かが間違っていたのかもしれない」

と気づきはじめるように。そこから「生き直し」することに決めました。自分の人生を見つめ直していくと、いくつも気づきがありました。評価や実績など外側ばかりを求めた「他人軸」の生き方をしてきたこと。

売上・利益を気にして「べき・ねば」で動き、「好き」を大切にしてあげなかったこと。

自分や家族、身近な人を充分に大切にしてこなかったこと。

それでも家族は離れずに近くに居続けてくれたこと。

恥ずかしながら、そんなことがわかりました。そして、

「半径3メートルを大切にする」「好きなことを、好きな人としかしない」「家族をいちばん大切にする」この3つを軸に、生き直すことを決意したのです。

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「好き」から生まれたビジョンは

生きる・働くエネルギーになる

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そこから人生は確実に変わり始めました。このとき、2017年、43歳からの再出発です。4.「好き」で生きたら人生が変わった

「半径3メートル」✕「好き」という

自分軸な生き方に変えて、人生は大きく変わっていきます。

売上などの規模を目指すやり方は、僕には合わない。

社員の雇用や事務所などの固定費や借入は、心の負担になるから、豆腐メンタルな僕には合わない。

自己理解が進み、さらには規模は小さくていいから

・「好き」を楽しんで生きるのが僕に合ってる!・「好き」の先に魂が震えるビジョンがある!

そして

・夢やビジョンはバカデカくていい!

こんなことがわかりました。今の僕のビジョンは

「地球がひとつの家族として 人もビジネスも 愛と感謝が流れている時代を創る」

恥ずかしげもなくそれを熱く語り、ビジネスもそこに結びつけています。

「好き」から生まれたエネルギーは、パワフルなことを確信しています。

生き方・働き方も軽やかに変わっていき、ビジネスも連続的に立ち上げて、楽しみながらできるようになりました。


5.14の事業立ち上げと、4社の売却からわかったこと

=================

「好き」から生まれたビジョンは

生きる・働くエネルギーになる

=================

これが僕がわかった真理。

そんなビジョンに生きてきた結果、冒頭で話した事業など多くを生み出せました。

さらに、ビジョンに向かって軽やかに動き続けるコツもわかりました。それは「仮決め」(かりぎめ)という技術。「好き」から生まれるビジョンと「仮決め」。

この2つをセットで実践すると、充実した生き方・働き方に向かいます。

それをどんなステップで具体的にどのような取り組めばいいかを描き尽くした1冊がこの本です。

+☆+☆+☆+☆+☆+☆+

1人起業家マインドセット

〜「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方〜 

はじめに 「好き」と「稼ぐ」を両立する最強の働き方

第0章 僕が1人起業家になったわけ
第1章 1人起業家という新時代の働き方
第2章 「好きなこと」を確実に見つける方法
第3章 「1人起業家マインド」で幸せに成功する
第4章 「ずらし戦略」で競争力を磨く
第5章 「ニッチスター戦略」でオンリーワンになる
第6章 「コミュニティ・コラボ戦略」で次のステージに飛躍する
おわりに 「好き」から始まる大きな循環
+☆+☆+☆+☆+☆+☆+

1人でも多くの人が、軽やかにポップに
「自分らしく、楽しく生きる」
に向かうことができるようになる本です。

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2 months ago
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オンリーワン
#77 転職5回の男が語る「運命を自分で創る」Yoshiさんの人生物語2

「親父が大腸がんになったんです。」

Yoshiさんの転職理由は、多くの人が想像するキャリアアップとは全く違っていました。製薬業界で働く彼にとって、父親の病気は単なる家族の問題ではなく、自分の仕事への向き合い方を根本から変える出来事だったのです。

なぜ、会社が提示した3つの選択肢ではなく、なぜ4つめの選択肢、転職を選んだのか?

そう、従業員3000人の大手外資製薬会社から、たった70人のドイツ系ベンチャーへ転職。 
父の病気が変えた人生の軌道。

一つ一つは小さな選択でも、それが積み重なって予想もしない運命が生まれる。

「運命って『命を運ぶ』って書くじゃないですか。僕はその瞬間瞬間の選択が、自分の命をどこに運んでいくかを決めている。そうして運命を作っていると考えてます捉えています」


1. 転職4社目 : 10年間のサバイバル戦 - リストラの嵐を乗り越えた男

「転職エージェントから『それだけでも業績ですね』って言われました(笑)」

入社した会社は「取り扱い要注意」のブラックリスト企業。外国人社長が頻繁に人をクビにし、業界内では悪名高い存在でした。

しかし、Yoshiさんはそこで何を見つけたのか?

  • 製品戦略担当2人のうちの1人から、マーケティング部を立ち上げる部長として14人のチームを率いるまでに成長

  • 会社も70人から200人規模へ拡大

  • 経営者視点での意思決定プロセスを体験

まさに「修羅場」が最高の成長の場となった10年間の物語です。


2. 夢と現実のギャップ - 海外転勤の約束が教えてくれたこと

「海外で働きたい」- ブラックリスト企業に入社時の希望を伝えており、社長も上司ももちろんサポートしてくれると約束していました。実際、私が知るかぎり10年間で3度のチャンスがありました。

1回目・2回目:新製品の臨床試験の失敗により機会消失
3回目:なんと上司が勝手に断っていた!

「日本を抜けられたら困る」という理由で、知らない間に夢を奪われていたYoshiさん。知らないうちに夢を閉ざされてしまった出来事が、Yoshiさんのその後の人生を大きく変える転機の一つとなりました。


3. 転職5社目 : 運命の1週間 - サンフランシスコからの突然の電話

45歳、ある医師の紹介で始まった小さな縁が、思わぬ展開を生みます。

「来週サンフランシスコに来れますか?」

突然のアメリカからの連絡。
たまたま空いていた1泊2日のスケジュールで弾丸渡米。1日で5人との面接をクリアし、なんと日本法人設立という壮大なプロジェクトのオファーを獲得!

日本法人すらない会社との契約という前代未聞の転職劇。

4. 製薬業界のエリートが安定を捨てて見つけた「本当の自分らしい働き方」製薬会社で順風満帆なキャリアを歩んでいたYoshiさん。

周囲からは羨ましがられる安定した地位にいながら、なぜ彼はリスクを冒してまで転職の道を選んだのでしょうか。

その答えは、彼が語る「思考の枠から出た時に見えた、まったく違う景色」にありました。

運命を変えた一つの決断

「このままでいいのか?」

製薬会社のマーケティング部長として働いていたYoshiさんの心に、ある日ふと浮かんだ疑問でした。安定した給料、将来への不安のない生活。でも、心の奥底では何かが物足りない。そんな漠然とした思いを抱えていた時、アメリカの遺伝子検査会社から声がかかります。

それは、日本法人がまだ存在しない、まさにゼロからの立ち上げプロジェクトでした。周囲からは「なぜそんなリスクを?」と驚かれましたが、Yoshiさんの胸には久しぶりのワクワク感が蘇っていました。


業界が騒然とした退職劇

決断の時が来ました。製薬会社を退職すると発表した瞬間、業界内でSNSなど、ちょっとした騒ぎになります。「あのYoshiが製薬会社をやめた」という話題で持ちきりになり、多くの人から「もったいない」「なぜやめたんですか」と質問攻めにあいます。

でもYoshiさんには確信がありました。「戻れる自信があった」から。この自信こそが、リスクを恐れずに新しい挑戦に向かう原動力だったのです。


気づいた時には「日本に数人」の希少人材に

癌領域での専門知識、遺伝子検査という最先端技術、海外組織でのビジネス経験、そして日本ビジネス立ち上げという特殊な経験。これらが組み合わさった時、Yoshiさんは「日本に数人しかいない人材」になっていました。軸をブラさない転職戦略が、気づけば圧倒的な市場価値を生み出していたのです。


5.  もう一つの顔:コーチングとの意外な関係

実は、Yoshiさんにはもう一つの顔があります。それがコーチング業です。「製薬やマーケティングと全然関係ないじゃないか」とよく言われますが、その原点は製薬会社時代の挫折体験にありました。

すべては30代の頃、一本の電話から始まりました。
29歳でマーケティングに異動した時、年上の部下との関係に悩み、精神的に追い詰められた時期がありました。そんな時に出会ったのが「コーチング」でした。

外資系企業で管理職になった彼は、会社のコーチング研修を受ける機会を得ました。「コーチングってこんなものかな」と思いながら学んだ知識は、実際に部下を持つと全く通用しませんでした。「全然うまくいかへんやんけ」という関西弁混じりの率直な感想が、彼の探求心に火をつけました。


6.   今、明かされる「思考の枠を超える」威力

Yoshiさんが3度の転職で得た最大の気づき、それは「思考の枠から出ることで見える、まったく違う景色」でした。コンフォートゾーンの中で考えていた時には見えなかった世界が、環境を変えることで一気に開けたのです。

結果として年収は大幅にアップし、様々な機会にも恵まれました。でも何より価値があったのは、「自分らしい働き方」を見つけられたことでした。


7.  製薬マーケティング責任者からコーチング起業家へ——ある男の選択が紡いだ物語

履歴書を見れば、誰もが首を傾げるでしょう。転職回数5回。普通なら「この人、何か問題があるのでは?」と思われても仕方ありません。

しかし、転職エージェントは彼の経歴を見てこう言いました。「素晴らしいキャリアですね」と。

現在は米系のがん遺伝子検査会社の日本法人のシニアディレクターを務めながら、自らの会社を立ち上げてコーチング事業を展開する、まさに現代の「複業」を体現する男です。


8.  製薬会社を辞めた瞬間に見えた世界

45歳、製薬会社を辞めた瞬間、予想外のことが起こりました。多くの人が彼のもとに相談に来るようになったのです。

「製薬企業でのマーケティング責任者をやっていた人が会社を出たら、たくさんコンサルしてとの声がかかりました。薬の売り方や製薬企業へのセールスををアドバイスできる人って結構貴重なんですよね」

広告代理店をはじめ、製薬向けにビジネスを展開する人たちから
「どういったプレゼンをしたらいいか」といった相談が殺到しました。

彼はコンサルタントとして的確なアドバイスを与えました。しかし、しばらくすると「ちょっとうまくいきませんでした」という報告が返ってくるのです。

「やり方や考え方は理解して動こうとしているんだけども、結局人の問題で動けていないケースが多かった」

そこで彼は気づきました。「これはもうコンサルの領域じゃない。コーチングなんだ」


9.  人生を変える責任の重さ

無料で相談に乗って、コーチング的な関わりをすることも多かったYoshiさんですが、あるとき重要なことに気づきました。

「コーチングって、その人の人生を変える可能性があるじゃないですか。」

セッションをきっかけに行動が変わり、その人の人生が変わっている。それは大きな責任を伴うことだと気付いたのです。

「無料でやるというのは、逆に責任感がない。ちゃんとお金をいただいて、それに見合うスキルを身につけて、プロとしてちゃんとやった方がいい」

この責任感が、彼をコーチングスクールへと向かわせました。


10.  本業とのシナジーが生む奇跡

コーチングの認定資格、さらにはトレーナー資格まで取得したYoshiさん。2020年後半から副業としてコーチングを開始し、現在で4年目を迎えています。

特筆すべきは、本業との絶妙なシナジー効果です。製薬業界にいる彼は、多くの医師とのつながりを持っています。

「お医者さんって、めちゃんこ大変なお仕事なんですよね。特に今の働き方改革で、大学病院は本当に最悪な状況」

40代、50代の医師たちは仕事の業績や部下の育成はもちろん、人生やキャリアに悩むことも多く、そこでYoshiさんのコーチングが力を発揮します。結果として、本業の製薬業界での仕事とコーチング事業が有機的につながっているのです。


11.  「失敗はない、あるのはフィードバックだけ」

多くの転職を重ね、副業から起業へと歩みを進めてきたYoshiさんが大切にしている考え方があります。

「やったら、フィードバックがあるということ。失敗はないわけです。期待する結果でなかったとしてもそれはフィードバックを得ただけ。それを踏まえて、また動いていけばいい」

転職する時も、「悩んだら、とりあえずちょっと行ってみるか」という軽やかさがありました。結果的に、それが良い方向につながっています。

「製薬にずっといたら、このコーチングをビジネスとして、今自分の会社まで作ってやることは多分できていない」

その時、その時の選択が、今の彼を作り上げてきたのです。

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3 months ago
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オンリーワン
#76、27歳で3社転職!?製薬業界を渡り歩いたYoshiさんの人生物語 1

27歳で3社転職!?製薬業界を渡り歩いた男の人生物語。

1社目:外資系製薬会社(2年半)
2社目:内科系の会社(2年半)
3社目:抗がん剤の世界へ(8年間)

「どうやって、余命数ヶ月の父親の大腸がんの治療をしてあげたらいいかわからない」

父の主治医から発せられたこの一言が、Yoshiさんの人生を180度変え、転職にも影響しています。

がんについて何も知らなかった自分。
父親を救えない現実と向き合った時、新しい道を切り開いていきます。


1.野球とラジコンと機械いじりの小学時代

大阪・阿倍野の生まれ。自営業で、両親が飲食店を営み、子どもの頃はお金のかからない遊びが中心。小さい頃からよくやっていたのは、近所での野球。
小学校の高学年くらいになると、「自分で組み立てるタイプのラジコン」。ネジを回したり、パーツをつなげたりするのが楽しくて、時間を忘れるほど没頭。

小さい頃から「機械いじり」が好きな少年でした。


2. 卓球漬けの中学時代

小学生の頃、少年野球チームに入ってはいたものの、中学では一転して卓球部に入ることになります。

その理由は、中学の野球部に入るには「坊主頭」にしなければならないというルールが単純に”嫌”。

また卓球部には、ちょっと面白い特徴があり、顧問の先生が「卓球をまったく知らない人」だったということ。最初の頃はまだ形だけの指導が、2年生になる頃には「もう自分たちで練習メニュー決めていいよ」と、完全に放任状態に。

これが、Yoshiさんにはすごく合っていたんです。

そして中学1〜2年生の頃はかなり卓球に熱中して、早朝練習と放課後の練習。さらに夜8時半ごろから地元の卓球クラブに通うという、卓球漬けの生活。

その結果、大阪の大会でベスト8に入る実力をつけることになります。

別に卓球が最初から好きだったわけじゃない。でも、やっているうちに「頑張る」ってこういうことかもしれない、そんな気持ちになっていった中学時代。


3. 自分たちで考える卓球練習が楽しかった

卓球の練習方法を探すために、卓球の本を読んだり、技術解説を調べたりして、「こんな練習やってみよう」と毎日のように話し合って決めていた。
形式にとらわれず、工夫しながら取り組むのがすごく楽しい。

Yoshiさんは2年生のときには部長を任され、自分たちで練習を組み立てる自由さのなかで、一生懸命に卓球と向き合っていました。そうやって試行錯誤しながらやっていたことが、夢中になれた理由のひとつだったのかもしれません。

今振り返ると、この時から
「どうすればもっと良くなるか」
「同じやり方じゃなくて、他の方法はないか」と
工夫するのが好きだった少年。

卓球部という枠の中で、自由に考え、仲間と工夫して動いていたあの時間は、Yoshiさんの「らしさ」が自然と出ていた瞬間だったのかもしれません。


4.  アメンボが教えてくれた進路のヒント

高校時代、最初は文系を選ぼうかと思いながら、最終的には理系を専攻。
理由はシンプル。
昔から「メカニズム」や「仕組み」を知るのが好きだった。

当時は、ちょうどバイオテクノロジーが注目され始め、生物工学などの学科が次々と新設。「生き物の仕組みを技術に応用する」という分野に興味を持ちます。

進路を決めるにあたっていろいろな大学を調べている時、ある学科の紹介文に目が止まりました。

「アメンボが水の上を歩ける仕組みを人間の技術に応用する研究」

「えっ、それって本当にやってるの?」と思いましたが、読んでいくと納得。
アメンボの足には細かい毛があって、撥水性を持っている。だから水の表面張力をうまく使って浮かぶように歩ける。――そんな自然の仕組みを、工学的に応用する研究があったんです。

その紹介を見たとき、「これは面白い!」と心から思いました。
それがきっかけで、生物の仕組みを研究する大学の工学系学部を目指すようになりました。


5.  メカニズムが気になる性格

Yoshiさんは何かを「作る」よりも、
「どう動いてるのか」
「中身がどうなってるのか」を考えるのが好き。

たとえば、ラジコンを作るときも、動かすのが楽しいというより、「どんな構造で動いてるのか」が気になって仕方なかった。

この「メカニズムを知りたい」という好奇心によって、目に見えている物事の表面だけじゃなくて、「その裏にある構造はどうなっているのか?」と、つい掘り下げたくなるんです。


6.  ジェットコースターの仕組みが気になった高校時代

高校生になり、女の子と遊園地に。もちろんジェットコースターにも乗って、「キャーキャー」と盛り上がる、あの感じ。

でも、ジェットコースターから降りたあとに感想を聞かれて、Yoshiさんが答えたのは、

「これ、どうやって坂を登ってるんやろうな?どんな仕組みなんやろ?」

女の子が期待していたのは、「怖かったね」「楽しかったね」といった共感や感情の共有。でも、Yoshiさんは完全に構造やメカニズムのほうに意識が向いていて……正直、ちょっと気まずい雰囲気になりました(笑)。


7.テニスサークルの部長の大学時代

理系としては珍しく、大学ではテニスサークルの部長として、ほぼ毎回参加。登録メンバーは200〜300人。夏の合宿では観光バス3台で移動するほどの大規模サークル。部長としての経験は、理系の勉強とは違った学びを与えてくれた貴重な時間でした。


8. 理系から製薬会社MRへ:自分に合った道を見つけるまで

理系の学生だったため、教授から大手食品会社など研究所への推薦の話がありました。しかし、研究室でずっと実験を続ける自分の姿が想像できず、早々に研究職の道は諦めて一般の就職活動を行うことに。

最終的に選んだのは、製薬会社のMR(医薬情報担当者)。

基本的には薬の営業という仕事内容で、理系の知識を活かしながらも、人とのコミュニケーションが中心となる職種。研究室にこもるのではなく、外に出て働ける環境に魅力を感じたのです。


9.キャリアのスタート、1社目:アメリカ系大手製薬会社

新卒で入社したアメリカの大手製薬会社では、早々にそれなりの成績を上げることができましたが、この会社には大きな課題がありました。

製薬業界では「新薬」の存在が営業のやりがいにおいても非常に重要と考える傾向があります。新しい薬は、医師からの需要も高いため、貢献感も高く、多くのMRが新薬を扱いたいと考えています。

ところが、この会社では、なかなか画期的な新薬が出てこない。細かい改良品のような市場価値がそれほど高くない薬がパラパラと出る程度で、営業としてのやりがいを感じにくい状況でした。


10. 転職、2社目: 内資系製薬会社

25歳頃、同じエリアを担当していた内資系製薬会社の先輩MRから「うちの会社で画期的な新薬が出るから、転職しないか」という誘いがありました。

この会社では、当時としては画期的な骨粗鬆症の治療薬を扱うことになりました。骨折リスクを減らす確かなエビデンス(科学的根拠)があり、従来の治療とは異なるアプローチの薬で、非常にやりがいを感じたのです。

新薬の発売に携わり成功をおさめますが、在籍期間は2年半で、薬の発売から1年半という短い期間でした。


11.  人生を変えた出来事

転職を考え直すきっかけとなったのは、父親の大腸がん発症でした。

当時、名古屋でMRとして働いていましたが、大阪の実家で治療を受ける父に呼ばれ、病院での説明に同席。製薬会社にいるとはいえ、がん領域の薬は扱ったことがなく、専門知識はない。それでも父からは「薬のことはお前が分かるだろう」と期待されていました。

しかしながら、父の病気がかなり進行した状態で発見され、余命が数ヶ月という厳しい現実。この経験が、その後のキャリアに大きな影響を与えることになったのです。


12. 転職、3社目: 製薬会社で抗がん剤担当

担当していた骨粗鬆症治療薬の競合企業からヘッドハンティングを受けました。私が発売した薬を、彼らが新たに発売する骨粗鬆症治療薬に切り替えてほしいというもので、当然断りました。ただ、その会社には抗がん剤の部署があり、父のことをきっかけに抗がん剤の仕事に興味を持っていました。ヘッドハンティング会社に抗がん剤の担当としてなら話を聞いてみたいと伝えたところ、そのまま選考に進み、未経験ながらも抗がん剤担当MRとして3社目となる転職をすることになったのです。

3社目では8年間勤務し、34歳まで製薬会社で抗がん剤領域の仕事を担当。

  • 入社時(27歳): 営業として入社

  • 2年後: マーケティング部門に異動

  • 3年後: プロダクトマネージャーに

プロダクトマネージャーとは、マーケティング部で薬の販売戦略を考える製薬会社の中でも花形部門です。そこからはずっとマーケティング業務に従事し、基本的に抗がん剤領域の製品をマーケティングとして担当していました。


13.  転機となった出来事

35歳直前に大きな転機が訪れました。自分が担当していた製品が「販売移管」となったのです。これは、自分の会社ではなく別のメーカーに販売をしてもらう。つまり自分では売らずに販売を別の会社にやってもらうという本社の決定でした。

自分が担当していた商品を別の会社に渡すことになり、当然自分が売る薬がなくなってしまいました。

幸い、会社は3つほどの選択肢を用意してくれました:

  1. 抗がん剤のマーケティング部で製品の担当をする

  2. 他の領域のマーケティングで新薬の担当をする

  3. 販売移管先の会社との窓口業務を行う

全て悪い話ではありませんでしたが、結果的に選んだのは4つ目の選択肢――会社を辞めるという選択でした。

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3 months ago
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オンリーワン
#75 転職6回の異例の経歴を持つキャリアハック、吉水さんの人生物語2

「何をやってるか、わからない会社を紹介してください」

転職エージェントにこんな無茶振りをした男がいる。

その男の名は吉水さん。

彼は今、人的資本の最前線で活躍するプロフェッショナルだ。 しかし、その道のりは常識を完全に覆すものだった...

今回の「人生配信オンリーワン」では、転職6回、「理系研究者→銀行員→外資系コンサル→起業家」という異色の経歴を持つ吉水さんが登場。彼の型破りな人生ストーリーは、あなたの「常識」を完全に覆します。


衝撃の連続!吉水さんの"非常識"キャリア

1.論文で就職した男

  • 就職活動をほとんどせず、論文1本で研究職内定

    • 面接は技術プレゼンのみ、人柄や志望動機は一切聞かれず
    • 「こんな人聞いたことない」と驚愕される採用方法

  • 2.研究所脱出大作戦

    • 憧れの研究職に就くも、数ヶ月で退職願

    • 理由は「誰も喋ってくれないから」

    • 人事部も「やっぱりな」と納得の配置転換


    3.役員直談判事件

    • 希望部署への異動を役員に直接メールで要求

    • 翌日呼び出され、部長たちがざわつく中での説明会
    • 「良くないことしました」と反省しつつも見事に異動成功


    4.銀行転職の奇跡

    • IR業務で財務知識の必要性を痛感

    • 「金融を学ぶなら銀行か証券」と1社のみ応募

    • 他業界から銀行への転職組わずか11人の狭き門を突破


    5.突然の英語面接地獄

    • 銀行勤務中に突然のヘッドハンティング

    • 「銀行を辞める気なんて全くなく、話だけ聞きます」のつもりが、なんと外国人社長との英語の面接。
      相手に話をさせてはいけないと、1時間、一度も息継ぎを与えずに日本語で喋り続けて内定を獲得。


    6.外資系コンサルでの7年間

    • よく喋るから仕事が途切れない法則

    • 月のタクシー代32万円の激務時代

    • 「好きだから続けられた」の真実


    7.8人でのMBO(買収)挑戦

    • 会社の一部門を丸ごと買い取る大胆な決断

    • 創業メンバーとして新会社設立

    • 寝ずに働いても楽しかった理由


    8.突然の「飽き」と新たな挑戦

    • 「シェア100%で4000社しかない」衝撃の気づき

    • 5年間築いたキャリアを捨てる勇気

    • 社長にブチ切れられても貫いた信念


    今すぐ視聴する理由

    この配信を聞けば、あなたも気づくはずです。

    人生は思っている以上に予測不可能で、それこそが最高に面白いということを。

    吉水さんの型破りなストーリーは、きっとあなたの固定概念を打ち破り、新しい可能性を発見するきっかけになるはず。

    「人と違う道を歩む勇気」

    そして、このエピソードは、あなたの人生観を根本から変える可能性を秘めています。

    「計画通りにいかない人生」を歩んでいるあなたへ

    それは失敗ではありません。 それは、あなただけの特別な道なのです。


    特に印象的だった名言

    「好きでやってると、人がそれを評価してくれる」

    「自分でやってる感がすごくあったんで、寝ずにできた」

    「僕以外誰がいるんですか?」


    このエピソードから学べること

    ✅ 吉水流キャリアハック術
    ❌ 世間の常識:「キャリアプランを立てて計画的に転職せよ」
    〇 吉水流:「好き嫌いだけで70%偶発的る」

    ✅ 「好き」を仕事にする本当の意味
    好きなことは評価される、そして仕事が途切れない

    ✅ 人生の流れに身を任せる技術
    計画通りじゃなくても、目の前の問題解決に集中すれば道は開ける
    ✅ 「普通」にこだわらない勇気
    常識に縛られず、自分らしい道を切り開く思考法

    ✅ チャンスの見極め方
    限られた機会を確実に掴む戦略的アプローチ

    ✅ 失敗を恐れない行動力
    「だめでも元に戻ればいい」という前向きマインド

    ✅ 専門性の築き方
    目的意識を持って必要なスキルを戦略的に習得

    ✅ キャリアの転機を見極める感覚
    安定を捨ててでも挑戦する価値がある瞬間の見分け方


    こんな人におすすめ

    • 転職を考えているけど踏み切れない人

    • 理系出身で文系職種に興味がある人

    • 失敗を恐れず挑戦したい人

    • 「普通じゃない」キャリアを歩みたい

    • 人生の転機を迎えている人


    今すぐ再生ボタンを押してください

    月のタクシー代32万円の激務時代から、突然の「飽き」まで。
    理系研究者が辿った予想外すぎる人生の軌跡を、ぜひあなたの耳で確かめてください。

    きっと、あなたの人生観が変わります。

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    3 months ago
    27 minutes 48 seconds

    オンリーワン
    ① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、、 だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。 世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。 「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。 ② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。 私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。 「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。 ③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。 ④ さらに、この番組は、ゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。 ⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。