
1.いじめられっ子が雪上で覚醒
東京・大森で生まれ育った、体が小さくて弱い一人の少年がいました。
地元のコミュニティでは、いつもいじめられる側の存在。そんな彼の人生が、ある日のスキー教室で劇的に変わることになります。
実は、それは単なるスキー教室ではありませんでした。選手発掘プロジェクトだったのです。そして驚くべきことに、普段はいじめられていたその少年が、スキーを履いた瞬間、先輩たちに勝ってしまったのです。
「スキーを履いていないといじめられるけれど、履くと急に強くなる」—この発見が、彼の運命を決定づけました。
2.小学6年生が白馬村に住込みスキー修行
東京の子が本格的にスキーを続けるには限界があります。小学校を卒業する時、両親は「もういい加減にしなさい」と言われるほどです。
普通なら、そこで夢は終わったでしょう。ところが、コーチが「そんなことを言わないで、なんとか続けさせてください」と両親を説得したのです。
そして提案されたのが、今では考えられない解決策でした。
白馬村の旅館に住み込みで働きながら、地元の子たちと一緒にスキーを続けるという、まさに奇跡のような環境だったのです。
小学6年生の岡安さんは、本当に白馬村へ旅立ちました。大学生たちと同じタコ部屋で生活し、旅館の手伝いをしながら、時にはその大学生たちにスキーを教えて、空いた時間で自分の練習に励むという信じられない日々が始まったのです。
信じられないような環境でしたが、岡安さんにとってそれは苦痛ではありませんでした。なぜなら、スキーが心底好きで仕方がなかったからです。
3.障害者チームをサポートする小学4年生
さらに驚くべきことに、岡安さんは障害者チームのサポートも始めました。片足の方やチェアスキーの方々の東京から白馬への移動や宿での生活、そしてスキー場でのサポートまで、その頃からこなしていたのです。荷物の積み下ろしから現地でのお世話まで、「僕にできることは全部やる」という姿勢で、障害者の方たちと一緒に合宿に参加していました。
中学、高校時代も、この驚異的な生活は続きました。平日は東京の学校に通い、休み前になると夜行を乗り継ぎ土日や長期休みには白馬へ。そしてまた夜行を乗り継ぎ、東京へ戻り荷物を持ったままそのその足で学校へ。
毎週のように行ったり来たりを繰り返しながら、朝6時から夜11時まで、時間がある限りひたすら滑り続けました。普通の学生が遊んでいる時間も、宿での夕食の手伝いや掃除をした隙間時間に、スキー靴を履いて山にいるような生活でした。
4.高校1年生のプルスキーヤー、規格外の挑戦にスポンサーが惚れた瞬間
運命の高校1年生。16歳の時に、岡安さんのこの規格外の生活を「面白い」と評価してくれる人が現れました。某スキーショップがスポンサーがついたのです。
「板を出してあげる」「ウェアを出してあげる」「お小遣いもあげる」
ここからが、本格的なプロスキーヤーとしての道のりの始まりでした。
しかし、岡安さんは表舞台には立っていませんでした。「アングラなので」と本人が語るように、全中やインカレ、インター杯といった公式大会には出場せず、まさに「秘密兵器」として隠され続けていたのです。
それでも彼が戦っていたのは、1/1000秒を削るという異次元の世界。アルペンスキーでは1/100秒は当たり前、トップレベルになると1/1000秒まで見る、そんな狂気じみた精密さが求められる競技だったのです。
大学に進学してからも、岡安さんは数社のスポンサー企業に支えられながらスキー人生を歩んでいました。プロとしての将来への道筋も見えていました。
5.足が違う方向に…16歳の天才を襲った悲劇
しかし、運命は残酷でした。大学2年の時、大会中に転倒、突然の靱帯断裂。
「足が違う方向いちゃってた」という衝撃的な状況でも、興奮状態で痛みを感じず、片足で滑りだそうとしましたが、左足がついてきませんでした。その重大さになかなか気づけなかったといいます。
この怪我が岡安さんの人生を一変させました。
それまで共に切磋琢磨していた友人たちは、実は全員がライバルでした。
親とも喧嘩しながらスキーを続けていた彼には、この悲しみを分かち合える相手がいませんでした。
「誰にも悲しみを伝えられない」状況の中で、岡安さんはどんどん心を閉ざしていきます。
さらに追い打ちをかけたのは、適切な治療を受けられないことでした。
当時の日本では靱帯の再建手術技術が十分でなく、2年間も病院をたらい回しにされてしまったのです。その間に、切断された靱帯は体に吸収されて溶けてしまいました。「要は左の前十字靱帯はなかったので、常に包帯ぐるぐるで、それでも膝の脱臼癖がついてしまって早歩きさえもできなかったんですね、僕ね」と岡安さんは振り返ります。
6.絶望からの復活へ、
アスリート復帰を懸けた奇跡の手術
絶望の淵にいた岡安さんに転機が訪れたのは、2年後のことでした。
スキーのナショナルチームのドクターとの偶然の出会い。そのドクターは「俺なら直せる」と断言し、日本ではまだ症例の少ない最新の人工靭帯を入れた膝の再建手術を提案してくれました。ただし、条件がありました。学会に発表するためのサンプルとして手術を受けること、そして必ず競技復帰を果たすこと。
岡安さんは迷わず「全然戻りたいです」と答えました。この手術は普通の治療とは全く違っていました。アスリート復帰を前提とした特別な手術で、手術の2週間前から入院してひたすらトレーニング。
「体ぶよぶよになっちゃってた」彼を、2週間でみっちり鍛え上げてから手術に臨んだのです。腰から腱を取り出して複雑に組み合わせる大手術でしたが、見事に成功しました。
7.0.004秒の壁──そして訪れた解放の時
手術から1〜2ヶ月後、退院時の検査で反射テストを行いました。
結果は0.004秒の遅延。医師は「全然誤差だろう、もうほぼ大丈夫だよ」と言ってくれましたが、1/1000秒の世界で戦ってきた岡安さんには、この0.004秒が許せませんでした。
「僕は1/100、1/1000削ってやってたので、0.004の遅延はもう異常値であるってことに」なってしまったのです。
加えて2年間のブランクへの不安、もう一度あの状態に戻されることへの恐怖心。様々な要因が重なり、岡安さんは悩みに悩みました。
そして最終的に、せっかく治してもらったドクターに
「俺無理です。引退させてください」と告白したのです。
予想していたのは叱責でした。
しかし、ドクターの反応は意外なものでした。
「お前の人生だから好きにしなさいよ」そう言われた瞬間、岡安さんの中で何かが吹っ切れました。
「すごいすっきりした顔をしてたと思いますね」と本人が振り返るように、長い間抱えていた重荷から解放された瞬間でもありました。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく何かが変わっているはずです。
小学生で単身白馬に渡り、逆境をチャンスに変え続けた岡安さんの人生は、まるで映画のようなストーリーです。しかし、これは紛れもない実話なのです。
1/1000秒という想像を絶する精密さの世界で戦っていた男の美学、突然の怪我がもたらした絶望と孤独、2年間の治療困難な状況、奇跡的な手術との出会い、そして最後の引退決断まで。
これほど濃密で劇的な人生を、これほど淡々と、それでいて深く語れる人はそう多くありません。
「普通の人はだって、経験できないっすもん」
岡安さんの言葉通り、この体験は確かに普通では味わえないものです。
だからこそ、この配信には計り知れない価値があります。
挫折を知る人には深い共感を、
順風満帆な人生を送っている人には新たな視点を、
そして全ての人に「人生とは何か」を考えさせてくれる貴重な時間となるでしょう。
天才的な才能を持ちながら突然全てを失い、それでも新たな人生を歩み始めた男の生き様。
高校生でプロになるという栄光から2年間の地獄、
そして奇跡の手術、最後の引退決断まで。
あなたの人生観が確実に変わる20分間がここにあります。
今すぐ「人生配信オンリーワン」岡安さん回を再生して、この奇跡のような人生譚に耳を傾けてください。きっと、あなたの心に深く刻まれる物語となるはずです。