8月3日まで諸事情により投稿をお休みします。次回の投稿は2025年8月4日(月)です。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第99回目は東アジア文化圏の形成と発展「後漢2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
2世紀後半、前漢の末期と同じく外戚が幼い皇帝を操っていた。成人した皇帝は宦官を頼りにしたので、宦官と外戚が対立を繰り返すようになる。この状況を官僚や学者が批判すると、宦官は弾圧した。
2度にわたる弾圧(党錮の禁)により混乱が生じる。184年に宗教結社の太平道が黄巾の乱を起こし、各地に軍事政権が誕生する中で後漢は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第98回目は東アジア文化圏の形成と発展「後漢」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
西暦25年、新に代わって漢王室の一族である劉秀(洪武帝)が都を洛陽に移して後漢を建てた。匈奴や高句麗が服属した他、倭人(奴国の王)が朝貢した。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を授け、後に福岡県志賀島で発見されている。
このころ西アジアではパルティアとローマ帝国が対立していた。後漢は西域にも積極的に進出し、西域都護の班超は多くのオアシス都市を服属させる。部下の甘英をローマ帝国に派遣したが、大海に妨げられ皇帝とは面会できなかった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第98回目は東アジア文化圏の形成と発展「外戚の王莽」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
西暦8年、外戚の王莽が帝位を奪い新を建てる。彼は官僚機構や貨幣制度を数百年前の周のように戻そうとしたので大混乱が起きた。飢饉が発生しても対策しなかったので、各地で農民反乱(赤眉の乱)が発生。匈奴や高句麗の王を諸侯に格下げしたので抗争に発展する。豪族も反王莽をスローガンに離反した。王莽が殺され、わずか15年で滅びた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第97回目は東アジア文化圏の形成と発展「漢(前漢)その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
積極的な対外進出の結果、財政難が生じた。武帝は財政再建のため均輸や平準などの経済政策を採用し、塩・鉄・酒の専売を実施。税や労役の重い負担で小農民は没落、大商人はその土地を買い占めて豪族となるものも現れた。
武帝は地方長官の推薦で官吏(かんり)を選任する郷挙里選を実施して、人格の優れた人間を登用しようとした。さらに監察官を派遣して全国を監視。中央では皇帝側近の外戚が力を持つようになった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第96回目は東アジア文化圏の形成と発展「漢(前漢)その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
前2世紀後半までに国内では中央集権化が進んだ。歴代の皇帝は外交、内政ともに現実的な政策をとり、国内の充実に努めてきたが、第7代皇帝、武帝は対外積極策に転じる。
最大の敵である匈奴を倒すため、張騫を大月氏に派遣するなど西域(中央アジア)への外交政策を行う。さらに匈奴にたびたび遠征軍を派遣し、タリム盆地のイラン系オアシス都市国家群を解放する。
ベトナム中部まで進出して南海9郡を設置、インド方面につながる海の道にアクセスできるようになった。朝鮮にも進出し朝鮮4郡を設置。この結果、武帝の時代に漢は領土が最大となった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第95回目は東アジア文化圏の形成と発展「漢(前漢)」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
前202年、農民出身の劉邦(高祖)が、楚の名門出身の項羽を破り、長安を都として漢を建国する。国外では前200年に北方の匈奴に敗れ、貢納を支払う和親策を70年近くとった。
国内では、郡県制と封建制を併用する郡国制を実施して、封建制の縮小を図った。劉邦の死後、皇帝と諸王の対立が深まり呉楚七国の乱が起きる。鎮圧後は、諸王国の統治に皇帝が干渉するようになり、第7代の皇帝武帝のころには実質的に郡県制に移行した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第94回目は東アジア文化圏の形成と発展「秦」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
前221年、秦が戦国時代の動乱を収め中国を統一する。秦王の政は、王の上の君主として始皇帝と名乗った。彼は都の咸陽から全土を支配する中央集権政治を進め、郡県制を用いて地方へ官僚を派遣した。それまでバラバラだった文字や度量衡、貨幣の統一を進め、半両銭を鋳造している。しかし、急速な改革や土木事業の負担、焚書・坑儒に代表される思想・文化の統制などが民衆の反感を生む。始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が発生し秦は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第93回目は東アジア文化圏の形成と発展「春秋・戦国時代3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
春秋時代末期から戦国時代にかけて伝統的な社会が崩壊する。時代は新しい秩序を求めていた。個人の能力が重んじられるようになり、思想や技能を生かして社会的な評価を得ようとする者たちが現れる。諸国の王も他国に負けないため、出身地や身分にとらわれることなく有能な人材を登用した。
彼らのような思想家を諸子百家とよび、孔子を祖とし、孟子・荀子に継承された儒家、老子・荘子による道家、墨子を祖とする墨家、商鞅や韓非による法家があげられる。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第92回目は東アジア文化圏の形成と発展「春秋・戦国時代2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
前403年に晋が韓・魏・趙に分裂したことに始まり、秦の始皇帝が中華を統一した前221年までを戦国時代と呼ぶ。周王の権威は無視され、有力諸侯が公然と王を自称した。力をつけた臣下が諸侯に取って代わる下剋上の世の中となり、実力主義の時代となった。
戦国の七雄と呼ばれる斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙、7つの国が天下を争った。富国強兵策の元、牛耕や鉄製農具が普及し農業生産力は向上、刀銭や布銭などの青銅貨幣が使用された。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第91回目は東アジア文化圏の形成と発展「春秋・戦国時代1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
前8世紀の前半、周は内紛や外敵の侵入で鎬京より東にある洛邑に都を移した。これ以降を東周または春秋・戦国時代と呼ぶ。前半の春秋時代は、周は存在するが威光は衰え、覇者とよばれた有力諸侯が勢力争いを繰り広げた。代表的な覇者は春秋の五覇とよばれた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第90回目は東アジア文化圏の形成と発展「周(西周)」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
殷の高度な文化は、周辺の邑にも広がった。紀元前11世紀になると黄河上流の渭水盆地からおこった周(西周)が殷を滅ぼし、都を鎬京とする。
殷が宗教的な威圧により邑を支配したのに対し、周は封建制度を用いた。宗法を重んじ、血縁集団である宗族に封土を与えて世襲の諸侯とし、支配を認めるかわりに貢納と軍役を義務づけた。仕える家臣は卿(けい)・大夫(たいふ)・士の3階層に分かれ世襲された。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第89回目は東アジア文化圏の形成と発展「殷(商)王朝」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
古代中国の集落である邑(ゆう)の中でも、堀や城壁に囲まれた規模の大きいものは都市国家に発展していった。紀元前1600年ごろに成立する殷(商)王朝も、有力な邑の1つだった。
王は占いを国政に反映させる神権政治を行い連合体をまとめた。占いの結果をカメの甲羅や動物の骨に記録したため、その文字を甲骨文字と呼び漢字の起源とされている。宗教的権威を高めるための祭祀(さいし)では青銅器が使用された。後期王朝の最後の首都として栄えた殷墟は、現在世界遺産に登録されている。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第88回目は東アジア文化圏の形成と発展「長江」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
黄河文明と同時期、温暖で雨が多い長江流域では稲作を中心とする農耕文明が成立した。下流の河姆渡(かぼと)や良渚(りょうしょ)で遺跡が見つかっている。後に、華中と華南は水路網が発達、稲作文化は東シナ海を超えて朝鮮半島や日本列島へと広がることになる。
#98【通史】世界史⑥東アジア文化圏の形成と発展1:黄河文明
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第87回目は東アジア文化圏の形成と発展「黄河文明」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
黄河文明は黄河の中流と下流の農業に適した場所でおこり、アワやヒエが栽培された。
紀元前5000年ごろに中流域で彩文土器に代表される仰韶文化が開花する。人々は竪穴式住居で生活し集落を形成した。
紀元前3000年ごろになると、人やモノの行き来も活発になり下流域を中心に竜山文化がおこる。薄手の黒陶(こくとう)や厚手の灰陶(かいとう)と呼ばれる土器が使われた。城壁に囲まれた大規模な集落を形成するようになっていた。
イスラーム世界の形成のまとめ(後半)です。
イスラーム世界の形成1~9までのまとめです。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第86回目はイスラーム世界の形成「イベリア・北アフリカ編」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
11世紀半ばの北アフリカでは、先住民であるベルベル人のイスラーム化が進み、スンナ派の宗教運動が展開された。その結果モロッコのマラケシュを都として、ムラービト朝やムワッヒド朝が相次いで成立する。ともにイベリア半島に進出し、キリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)に対抗した。13世紀にはイベリア最後のイスラーム王朝となるナスル朝がグラナダを都に成立したが、1492年にスペイン王国に滅ぼされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第85回目はイスラーム世界の形成「マムルーク朝2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
マムルーク朝ではナイル川の治水管理が進められ、農業生産力が向上する。農村の支配は軍人に任せられた。農民と農業生産の管理、および徴税権が与えられるイクター制は、アイユーブ朝の時代からエジプトとシリアでは行わていた。
首都のカイロはインド洋・紅海と地中海を結び、商業・手工業の中心として栄える。国際交易の拠点としてカーリミー商人らが、南アジア、東南アジアからもたらされた香辛料を扱う交易に従事した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第84回目はイスラーム世界の形成「マムルーク朝」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
13世紀後半、第7回十字軍がエジプトに進行してきたさいに、奴隷軍団がクーデータを起こしてアイユーブ朝を滅ぼした。マムルーク朝を建設し、十字軍やモンゴル軍を撃退する。生き残ったアッバース家の一員をカイロに招き形だけのカリフに据えた。
歴代の代表者は、カリフからスルタンの地位を与えられる形をとることで、イスラームの防衛者として地位を固める。西アジアからキリスト教勢力を一掃、14世紀前半にはイルハン国と和約し統治を安定させた。