教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第141回目は「中世都市」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
領主からの支配を受けていた中世都市は、11~12世紀以降、自治を獲得するようになる。イタリアでは自治都市(コムーネ)、ドイツでは皇帝から特許状を得た帝国都市が誕生した。これらの有力都市は共通の利害のために都市同盟を結成する。北イタリア都市を中心とするロンバルディア同盟や、北ドイツ都市を中心とするハンザ同盟などがある。
都市の自治運営の基礎になったのがギルドとよばれる同業者組合で、初期段階では大商人を中心とした商人ギルドが市政を独占した。これに不満をもった手工業者が同職ギルド(ツンフト)をつくり対抗し、政治に参加していった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第140回目は「商業の復活」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
農業生産力の上昇で生み出された余剰生産物を交換する場として定期市が開催された。また、ノルマン人やムスリム商人の商業活動により貨幣経済が復活する。十字軍の影響で交通が発達するとヨーロッパ全体を1つの商業圏とする遠隔地商業が成立する。商工業の拠点として都市が成長する。
地中海交易圏ではヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなど海港都市が東方貿易を独占し、内陸都市のミラノやフィレンツェは毛織物業や金融業で栄えた。北海・バルト海交易圏ではリューベック・ハンブルク・ブレーメンなどの北ドイツ都市が海産物や木材、穀物などを取引した。
南北の商業圏を結ぶ通商路ではシャンパーニュ地方で大規模な市が開かれたり、アウグスブルクなどの南ドイツの諸都市が交易の拠点として発展する。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第139回目は「十字軍その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
十字軍の時代、聖地防衛や巡礼保護を行う宗教騎士団が結成された。時が流れるにつれて規模が拡大し単なる軍事集団ではなく、中世ヨーロッパの宗教、軍事、経済、国際関係の全てに深く関わる、極めて重要な存在となる。
中でも「ヨハネ騎士団」「テンプル騎士団」「ドイツ騎士団」は最も有名で、三大宗教騎士団と呼ばれている。ドイツ騎士団は聖地陥落後は活動の場を現在のバルト海沿岸に移し、北方十字軍として異教徒の征服とキリスト教化を推進。後のドイツ国家形成の基盤の一つとなる。
テンプル騎士団は大規模な金融業を通じて巨大な財力を持つが、1312年にフランス王フィリップ4世の圧力により解体された。ヨハネ騎士団は聖地陥落後はロードス島、そしてマルタ島に拠点を移した。マルタ騎士団と呼ばれ、現在も活動を継続している。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第138回目は「十字軍その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
1291年にアッコンが陥落し十字軍は失敗に終わる。参加していた諸侯や騎士は没落する者も多く、彼らが所有していた土地を国王が没収して王権を強化した。逆に、運動を呼びかけた教皇は、遠征の失敗で教皇の権威がゆらぎはじめる。
聖地解放はならなかったが十字軍による人やモノの流れが地中海交易を再び活性化させヴェネツィアをはじめるとするイタリアの諸都市が繁栄する。ビザンツ帝国やイスラームの文物が流入し、西ヨーロッパ人の視野が拡大した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第137回目は「十字軍その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世がアイユーブ朝の内紛に乗じてカイロと交渉してイェルサレムを回復する。しかし、聖地回復は一時的なものとなった。その理由は、和解条件の中に「城壁を修復してはならない」が含まれており、防御力がゼロに近かったこと、そして十字軍国家内の混乱中にホラズム朝の残党勢力が侵入したからだ。
その後、フランス王ルイ9世が興した十字軍はアイユーブ朝と戦うが、彼自身が捕虜となる。身柄を解放され月日がたち、晩年になると再び十字軍を興しイスラーム軍と交戦するが病死する。1291年、最後の拠点であるアッコンがマムルーク朝に占領されて、イェルサレム王国は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第136回目は「十字軍その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
教皇インノケンティウス3世の提唱により第4回十字軍の派遣が決定される。当初の目的はエジプトのアイユーブ朝を攻撃し、最終的に聖地イェルサレムを奪還することだった。
しかし、資金不足とビザンツ帝国の王位継承争いが原因で当初の目的とは異なる結末を迎える。
資金を提供したヴェネツィアの要望によりキリスト教都市のザラを攻撃。さらにコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建てたのだ。同じキリスト教徒を攻撃した十字軍に対し、教皇は激怒したが、東方正教会をカトリックの支配下に置く好機と考えローマ教会の勢力拡大として部分的に容認した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第135回目は「十字軍その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
十字軍国家の1つエデッサ伯国がイスラーム勢力によって陥落し、奪還のため第2回十字軍の派遣が決定した。主力はフランスと神聖ローマ帝国だったが失敗に終わり、イスラーム勢力が主導権を握った。1187年にアイユーブ朝のサラディンによってイェルサレムが奪還される。これに対して第3回十字軍が結成された。神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世は事故死、フランス国王フィリップ2世は途中で帰国、残ったイギリス国王リチャード1世が孤軍奮闘するも聖地回復にはいたらなかった。1192年、休戦条約が結ばれた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第134回目は「十字軍その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
教皇ウルバヌス2世は1095年クレルモン宗教会議を開催し、ムスリムが支配する聖地イェルサレムを解放するために十字軍の派遣を決定した。翌年、数万の諸侯や騎士による第1回十字軍が出発し、1099年にイェルサレムを占領する。シリア・パレスチナ地方には、イェルサレム王国をはじめとする十字軍国家が建設された。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第133回目は「十字軍」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
11世紀になると西ヨーロッパ世界が外に向かって膨張を始める。イベリア半島の国土回復運動(レコンキスタ)、ドイツ人の東方植民の本格化、シリア・エジプトに向かった十字軍がその例である。これらの膨張は、農業生産力の上昇による人口増加が背景にあった。
十字軍は、ビザンツ帝国の皇帝が教皇に援助を求めたことから始まった。イランの大半を征服したセルジューク朝が攻め込んできたのだ。マンジケルトの戦いではビザンツ皇帝が捕らえられ、その後小アジア(アナトリア)の領土を次々に失っていった。そのためローマ教皇に援軍派遣を要請したのだ。
※金を建国した女真は「狩猟農耕民」です。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第132回目は「アフター・モンゴルその3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
第6代皇帝のアウラングゼーブの時代にムガル帝国は最盛期を迎えた。禁欲主義者で厳格なスンナ派イスラーム国家を築こうとした彼は、ジズヤ(人頭税)を復活させシーア派や異教徒を迫害した。
南端を除くインドを統一し領土最大を実現したが、領土拡大により官僚の急増と給与地不足を招き財政が悪化する。地方で自立化する官僚が出始め、シク教やヒンドゥー教の反抗も始まった。彼の死後、帝国は急速に解体へと向かった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第131回目は「アフター・モンゴルその2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ティムール亡き後、約100年後に王朝は消滅する。1526年ティムールの子孫バーブルは北インドに侵入してデリーを都にムガル帝国を建国した。第3代皇帝のアクバルは北インドを統一し、検地を行い地租を確定させて財政基盤を確立する。官僚制度としてマンサブダール制を定め、世襲化を防ぐため役職や給与は短期間で変更された。非ムスリムとの融和にも努め、従来課されていたジズヤ(人頭税)を廃止する。中央集権化とインドに多いヒンドゥー教勢力との協力関係を構築できたため、帝国統治は安定した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第130回目は「アフター・モンゴル」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
14世紀後半、中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂した。このうち西チャガタイ=ハン国から台頭したティムールが1370年にティムール朝を建国し、サマルカンドを都とした。イル=ハン国滅亡後のイランやイラクを制圧し、南ロシアのキプチャク=ハン国や北インドにも遠征した。さらに1402年、オスマン帝国をアンカラの戦いで破ったが、明への遠征途上で病死した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第129回目は「モンゴル帝国その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
14世紀の北半球は寒気な気候が続き、不作と飢饉が起きる。ユーラシア規模の巨大な経済圏がモンゴル帝国の強みだったが、ひとたび感染症(ペスト)が発生すると一気に東西に広がった。経済的なつながりが寸断され、各地でモンゴルの支配が揺らぎ政権が衰退する。
中国では黄河が決壊して飢饉が起きたので、経済政策としてが交鈔を濫発したり、専売制度を強化したりした。自然災害と経済の混乱で民衆が苦しむ中、宗教結社の白蓮教を中心に紅巾の乱が起こり、元は1368年に明の軍隊に大都を奪われてモンゴル高原へ退いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第128回目は「モンゴル帝国その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
モンゴルは徴税と治安維持に重点をおき、征服地の社会や文化、宗教や思想に対して寛容だった。仏教やカトリック、イスラームなどが伝来し、特にチベット仏教は歴代のハーンや王族に保護された。東西の交易に力を入れ、駅伝制(ジャムチ)をしいて交通・通信ネットワークを築く。陸路だけでなく海路にも力を入れ、大都から大運河をとおして水路をひらき、南シナ海・インド洋と結ばれた。陸と海を連動させたユーラシア規模のモンゴル経済では銀を通貨の基本とし、補助として交鈔を用いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第127回目は「モンゴル帝国その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
元の官僚制度はモンゴル人が中枢を占め、ウイグル人やイラン系ムスリムなど中央アジアや西アジアの出身者である色目人が財務方面で重用された。金の支配下にあった契丹人、女真人、漢族などは漢人、南宋の支配下にあった人々は南人と呼ばれた。モンゴルは実力主義だったため中国古来の科挙や儒教を重視せず、軍功・推薦などさまざまな人材登用ルートを用意した。科挙は当初停止されたが、14世紀になって制限つきで再開した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第126回目は「モンゴル帝国その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
モンケが急死した後、弟のクビライがモンゴル帝国東方の支持を得てハーンに即位した。
彼は華北を拠点にしていたので、モンゴル高原と華北の境界に都を築き大都と名付ける。その後国号を中国風の「元」と改めた。
彼の即位にオゴダイの孫で、中央アジアを拠点とするカイドゥ(ハイドゥ)が反旗をひるがえした。長年にわたり抵抗が続いたためモンゴル帝国は政治的に分裂した。各ハン国は高い自立性をもちつつ、ハーンのもとにゆるやかに連合した。
西方での乱に対処しながら、東方では1276年に南宋を滅ぼし、さらにベトナム、日本、ジャワなどへの遠征活動を続けた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第125回目は「モンゴル帝国その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
オゴタイの子グユグが3代目のカーンに即位するが、すぐに死去した。第4代のモンケは弟のクビライに命じて雲南の大理を滅ぼし、同じく弟のフレグを西アジアに遠征させて1258年にアッバース朝を滅ぼし、イル=ハン国を建てた。モンゴルの侵略が止まった西ヨーロッパでは、ローマ教皇や国王が、使節をカラコルムに送っている。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第124回目は「モンゴル帝国その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
チンギス=ハンの後をついだオゴタイは、モンゴル高原の中央部に都カラコルムを定めた。
中国の華北を支配していた女真族の金を1234年に滅ぼし、農耕地帯にまで進出する。
また、ヨーロッパ世界への遠征を計画し、総司令官を兄の子であるバトゥとした。1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破りロシアや東ヨーロッパを制圧する。遠征の途中でオゴタイ死去の知らせを受け撤退。バトゥはモンゴルに戻らず、中央ユーラシア西部にキプチャク=ハン国を建てた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第123回目は「モンゴル帝国」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
840年にウイグル帝国が崩壊したあと、モンゴル高原には統一勢力が現れなかった。しかし、テムジンがモンゴル系の部族を次々に制圧し、1206年部族長の会議であるクリルタイでチンギス=カン(ハン)の称号を受け、モンゴル帝国が建国された。
彼は千戸制という統治システムを使い、軍事と行政を統括した。軍団を率いて東方の金を攻め、ムスリム商人の協力を得ながら中央アジアのホラズム朝を征服し、遠征帰還後に西夏を滅ぼした後、間もなく亡くなった。