今回の特集はあのちゃんです。と言いつつも、中身はミスiDと大森靖子を軸に「2010年代のアイドルシーン」について振り返ろうという内容になっています。「推し活」の隆盛とともに、アイドルシーンについて語り語られる場所や機会が増えていく一方で、その実態は旧ジャニーズ問題をきっかけに労働問題やジェンダー問題が中心となり、カルチャーの側面からアイドルシーンの歴史や文脈を捉えようとする動きは依然として少ない(というか芯を食ったものがない)状況です。それもそのはず、J-POP自体が非常にカオスな偶発性の連続で成り立っているようなものであり、「なぜあのちゃんは売れたのか?」などと真っ正面から考えてみたところで答えなど出てくるわけがない。「J-POP」というよくわからないものの上で成立している「日本のアイドルシーン」というさらによくわからないものについて解明しようとすると、人はまず歴史を漠然と抽象化して考えようとする。つまり「2010年代前半はAKBとももクロ、後半は坂道グループとK-POP文化の流入」などと簡単にまとめて、「会いに行けるアイドルから、会いに行くことのできない偶像崇拝型のアイドルへ」くらいに結論づけるくらいが良いところです。しかしそれでは現在のカワラボやiLIFE、イコラブなどの流行の理由は説明できません。私もつい最近までは「なんで今更でんぱ組やももクロみたいな曲が流行ってるんだろう?」と疑問でした。しかし観測を続けていくうちにひとつの答えが出ました。それが「ミスiD」の存在です。ミスiDとは講談社が主催し2012年から2022年まで開催されていたオーディション・プロジェクト。iDの意味は「アイデンティティ」「アイドル」「i(わたし)」そして「多様性(Divercity)」。初回のグランプリは玉城ティナ、2022年の最後のグランプリは金井球。何よりも木村ミサとSKY-HYが審査員として参加していたということ。サバ番やオーディション番組が全盛となる以前、その前例としてあまりにも早すぎたプロジェクトが誰に語られることもなく忘れ去られようとしている。2010年代を総括し、2020年代のアイドルシーンを考えるためのピースはここにあるはず。知らない名前がたくさん出てくると思いますが、彼・彼女たちはあの時代を皆、一生懸命生き抜いていました。是非とも固有名の洪水にめげずにお聴きください。
文春砲があり、幻想はいつも崩れる。それでも真実はだんだんと勝利する。時間ちょっとかかってもね。
・時間をかけて「本当」になっていくもの
・過去の自分の救うために、未来の自分に応えるために
・今、ここで言葉を紡ぐことの意味
・文春「公人は模範的な存在であるべき」
・アイドルオタクはちいかわ、文春はでかつよ
・石田純一のビジョナリー
・不倫はカル活?
・文春砲によって都会の麻布競馬場ゲームから解放されること
・広末涼子の交換日記と小沢健二「アルペジオ」
・鳥羽周作のSNSにみる優しさ
・この世は抑圧された人々だらけの相互監視の世界
・人々に考察欲と伏線回収欲を喚起する文春
・フィクショナルな事実と向き合うことの難しさ
・人を考察するな、オーラを読め
・週刊誌を捨てよ、街へ出よう
今回の特集は「週刊文春」です。他のどのポッドキャストもまさかこの話題を取り上げようとはしないでしょう。語り手として潔癖であろうとすればするほど、スキャンダルな話題ひいてはゴシップ誌について触れることは、ダーティ(Dirty)なこととして忌避するのが普通です。しかし、文春が芸能人のスキャンダルをすっぱ抜けば、たちまち当該者は出演作品の降板や活動自粛へと追い込まれ、政治家のスクープを取り上ければ、時に政局を大きく揺るがす事態へと発展させることもあります。何よりも、どんな話題に対してもスキャンダラスに面白がることができる日本人の文化的土壌が、スキャンダルも政治スクープも文化的な営みへと変えてしまう。「報道の自由」の赦しのもとに猛威を振るう文春という強大なジャーナリズムが、もはやテレビや新聞なんかよりもはるかに日本を大きく動かしているということ。「不倫は文化」の国において、文春こそ文化であり、しかも最もアナーキーなポップ・カルチャーなのです。
であるならば、これまで主に「日本」と「ポップ・カルチャー」についてのあれこれを中心に語ってきたこのポッドキャストが「週刊文春」について語ることは必然と言わざるを得ないでしょう。
「ここは文春、恋愛スキャンダルや政治スクープが集まるってことは日本の中心!」という見立てから、
・人はなぜ働きながら、文春を読めるのか。
・藤原ヒロシとカルチャー、非マガジンハウス文化圏の逆襲。
・「文春砲」のシグネーチャー、「センテンススプリング!」と「卒論提出」からみるベッキーのポジティブ。
・「見えない」ものが「見えて」しまうことの文学的快楽。
・AKB48という「政治」がもたらした、政治語りそのものへの変革。
・すべてがコンテンツ化した現代において、文春こそが最強?
・2016年ポップ・カルチャー最盛期問題。フランク・オーシャン、チャンス・ザ・ラッパー、Netflix、Spotify、センテンススプリング…。サブスクとペイウォールによるカルチャーの地殻変動。
などなど話を展開しています。
「あいまいでいいよ 本当のことは後回しで忘れちゃおうよ / そうして僕たちは飲み干せないままの微温いコーヒーを持て余したままで歩いたその先でキスの真似をする」(羊文学『あいまいでいいよ』)
「映画とはなにか?」この巨大な問いを持て余したまま、かつてのあのキスの真似事を続けるのが、引用と参照を繰り返す21世紀の映画文化だとして、そこには歴史の芳醇さを享受することができる自由と甘美がある反面、残酷な消費社会の現実が横たわっています。
それにしても「映画的」というワードはやはり難儀で、その原義に迫ろうとすればするほど、偉大な映画監督たちの作品、ひいては映画史を形作ってきた批評家の体系を避けることはできません。そんな掴み所のない映画という文化を前に、この界隈性を取っ払ってご機嫌に「映画的」について語ることができないか?と思いついたのが、今回の特集です。
そもそも「〜的」とは、元からある状態ひいては前例に対しての比喩・比較に対して用いる言葉であり、人はオリジナル(原義)と、それに類似するものとの「あわい」を見つけては、つい「〜的」という言葉を多用してしまいます。二項対立や断定の束縛から解放してくれる「あわい」は、その言葉の響きからしても柔和で、とても居心地の良い状態を与えてくれます。しかし、この「あわい」は、判断力や審美眼を知らぬ間に鈍らせる非常にしたたかな悪魔でもあります。「〜的」という言葉はそれぞれの知見や思考を同一のコンテクストに委ねることとなります。
今回私たちは映画という概念をより理解するべく、「映画的」を的(まと)と仮定し、それに向かって矢を放ちました。しかしそれがすべからく空を切った(概念が増幅した)ことで気づいたのは、「映画的」というのは、映画のど真ん中の本質を射抜くために作られた矢であるということです。これは中島敦『名人伝』がごとく、矢じりの先端を矢で射抜くような名人芸であり、この芸を習得するのは並大抵のことではなく、我々が「映画的」という的を通して映画の本質を捉えようとするのは、いささか現実的ではないように思えてなりません。「映画」と「映画的」、果たしてそのどちらを的として射るべきなのか。我々の鍛錬はまだ終わりそうにありません。
後半回では、藤本タツキが元より持つ「漫画的」なシグネチャー、それがセル画になって動いた瞬間の「アニメ的」な躍動、さらには映画として映画館にかけられた時に試される「映画的」への試行について、それらが作り手側の目論見通り機能しているのか?どこまで挑戦を成功させているのか?を探っています。
結局、今回の「特集:映画的」で、私たちは「良い映画の成立条件とは何か?」について「より良い映画は、より「映画的」である」という前提条件をもとに話を展開していたようです。すべての映画が静止画のショットを1秒に24コマのスピードで目まぐるしく展開していく運動である以上、それは大なり小なり「映画的」です。その上で、我々に鮮烈な体験を与えてくれるような、さらなる「映画的」な映画が存在するならば、果たしてその映画はどのように「映画的」なのでしょうか。
コーヒーでも飲みながら、耳を傾けてみてください。
映画館とは「教会」である。映画館に足を踏み入れるとき、私たちは単に娯楽の場へと向かうわけではありません。場内が暗転し、日常の喧騒が閉ざされ、やがて一筋の光がスクリーンを照らし出す。その瞬間、私たち観客はすべての感覚を物語へと委ねることになります。スクリーンとはすなわち「窓」であり、映画館とは暗闇の中でスクリーンの光を唯一の拠り所とする場。まるで教会のステンドグラスを透過した光が、信者に神の存在を告げるように。
映画館では、隣り合う他人と会話を交わすことはありません。しかし時おり、その場にいる人々の間で、笑いや涙が自然と同期することがあります。見知らぬ者同士が同じ物語を共有する、ここに共同体的な一体感が生まれます。まるで教会の合唱のように。
宗教が人間の苦悩に意味を与えるように、映画もまた観客に救済を与える可能性を持っています。悲劇に涙し、希望に胸を打たれるとき、観客は自らの人生についてふたたび考える機会を得ることができる。戦争映画で平和の尊さを学び、恋愛映画で失恋を慰められる。物語は単なる娯楽を超えた、生の実感を与える意味へと直結します。
日本独自の映画文化に目を向ければ、ミニシアターの存在も大きいでしょう。シネコンが大衆にひらかれた大教会だとすれば、ミニシアターは地域に根ざした小教会であり、そこではシネコンでは扱われない独立系映画やマイノリティなテーマを描いた作品が上映されます。観客や映画の作り手たちがそこに集い、互いに議論を交わすことで、小教会ならではの親密な共同体が生まれます。ミニシアターは、そのようなミクロで個別な祈りを支える役割を担っているのではないでしょうか。そう考えると、日本の映画人たちがミニシアターを守るために運動する理由もよく理解できます。それはまるで信者たちが教会を守ろうとする営みのようであり、仮に映画館が単なる商業施設ならば、このような熱意は生まれないでしょう。「祈りの場」として人々にとって不可欠だからこそ、共同体は館を守ろうとするのです。
しかしながら、果たして祈りとは、必ずしも教会のような公共空間で行われる必要があるのでしょうか。たとえばキリスト教徒が自宅で祈ることはもちろん可能であり、イスラム教徒も日常的に自宅で礼拝を行います。ただし、多くの宗教において「祈りの中心」は共同体の場、すなわち教会やモスクに置かれてきました。対して日本文化には特異的な側面があります。それは家の中に仏壇や神棚を設け、日々の生活の延長線上で祈りを捧げる習慣が広く存在することです。これは世界的に見ても極めて少数派であり、家庭に宗教的な空間を持つという点でも際立っています。
つまり、映画館が「教会」ならば、家庭のテレビで見るドラマは「仏壇」と言えるのではないでしょうか。前述した通り、映画は映画館という特別な空間に足を運び、教会でのミサや礼拝のように、共同体とともに体験する儀式性を持ちます。一方で、テレビドラマや配信ドラマは、家庭の中で週に一度、生活のリズムに伴って視聴されるのが一般的です。食卓や寝室のすぐそばに、ごく自然な形として「物語」がある。つまり家庭の中に祈りがある。それはまさに仏壇に手を合わせるような、日常に溶け込んだ宗教的行為に近い印象を受けます。映画とドラマの違いとして、まず「祈りの場」の違いがあります。
具体例を出して考えてみましょう。たとえば映画『国宝』がここまで大ヒットしたのは、映画として「教会」たり得ているからではないでしょうか。そもそも歌舞伎の上演自体が「儀式」として描かれているし、その舞台空間には聖壇のごとく、美しい光が差し込む。登場人物たちが神に導かれるように舞い踊る姿を、観客はスクリーンという窓を通して眺めることになります。加えて、「才能とは何か?」「血縁・伝統の呪い」「自己との所在」「犠牲を受け入れることの価値」などといった、まるで教会での礼拝や説教が喚起するような問い、つまり観る者にとって自己との対話を促すテーマを多分に含んでいるのも、この作品が「教会」と言える=映画たりえている理由です。
ではドラマはどうでしょうか。代表的なものをいくつか挙げて考えてみることにしましょう。NHKの「朝ドラ」は、毎朝15分という極めて短い尺で半年間にわたって放送されます。家庭の生活リズムに寄り添うことによって、物語へと向き合う=「祈りの時間」を視聴者に自然と与えています。15分の朝ドラを見てから仕事や学校に向かうことは、仏壇に手を合わせてから家を出る習慣とどこか似ています。
そして「大河ドラマ」は、1年間という長い時間を通して、視聴者に歴史の追体験を促します。これこそまさに先祖供養的と言えるのではないでしょうか。既に亡き人々の物語に思いを馳せ、そこから現代的な意味を感じ取ることは、まさしく仏壇の前で祖先に語りかける姿と重なります。
そして「日曜劇場」も重要です。週末を終え、次の新たな週を迎える直前に放送される「日曜劇場」は、ある種の「日曜礼拝」とも言えますし、サラリーマンや家族の葛藤をテーマに描くことによって、視聴者は自らの人生を反芻します。まるで仏壇に向かって「明日からまた頑張ろう」と拝むように。
このように、まるで「仏壇」のごとく、日本人の生活に根ざした切実な祈りのかたちを表しているのが、日本の「ドラマ」であり、「映画」と大きく異なるポイントです。
「映画とは何か?」について考える前に、「映画とは何ではないのか?」を考えてみることによって、より理解を深めるきっかけへと繋がるはずです。
ーーー
以上の文章は、本編のテーマである「映画的」とは?を真面目に考察した概要文を書こうとした結果、あまりにも堅苦しい文章になってしまい、あえてそれを無視した形で再度書き直したものです。文体についても普段とは意識して変えてみました。これが「仏壇」のような文章か、あるいは「教会」のような文章かと問われれば、おそらく前者になっているはずです。昨今は、こと「推し活」について、やれ「非性欲的」だとか、やれ「神格化的」だとか散々議論が交わされていますが、私は「物語化」も「宗教化」もどちらも否定したくありませんし、そのためにも、日本人はもっと「仏壇」的な概念を意識するべきだと思います。「メガチャーチ」の時代において、「仏壇」こそがアツいのではないでしょうか?
長々と語ってしまいましたが、果たして藤本タツキは、『チェーンソーマン』は、『ブレイキング・バッド』は、「映画」=「教会」なのか?あるいは「ドラマ」=「仏壇」なのか?恐ろしいことに実は本編での語りはこの観点を一切用いていません。それについては本編を聴き、その上でこの概要欄を読んでくれたマメな皆さんへの宿題にしたいと思います。せっかくなので一緒に考えてみましょう。答えが出たらぜひ #過剰接続 で教えてくださいね。お待ちしてます。
どうもキムラです。
さて、前回はポッドキャスト公開直前に石破辞任の報せが入ってくるというハプニングにも見舞われ、なにか日本が少しずつよろしくない方向へと向かっている…という、世の中の「風」を感じながら、もはや次が小泉だろうが、高市だろうが、林だろうが、はたまた麻生だろうが、本当に重要なのはそこではなく、新たな国のトップが民衆をどのように扇動されていくのか、それによってこれからいったい幾つの間違いが繰り返されてしまうのか。より広い目で未来を案じることが必要です。
国家の中枢に佇む支配者や指導者たちに目を向けると、彼は力を持ってはいるものの、その力を実行するのに恐れてばかりの腰抜け、とまでは言いませんが、非常に形骸化した存在に成り果ててしまった。その結果として台頭したのが神谷宗幣なわけで、メカニズムとしてはかつて細木数子やマツコ・デラックスがメディアに持ち上げられたことと同じであり、いつの世も「ズバリ言うわよ」を欲しているわけです。
そしてSNSを見ていると、民衆もまた非常に愚かである。左と右の境界線がそれぞれの発する暴力性という共通項によって曖昧になってしまい、彼らはまるで水槽の中でケーブルに繋がれた脳のように非現実的な、あるいは映画『スーパーマン』に登場する、PCの前でキーボードを叩き続ける猿のように狂乱的な姿で、タイムラインというたった一瞬の時間軸をみずからの住処としています。理想の国家を作るためには、理想の民衆が必要だという「わけでもない」のが落とし穴で、多数決を勝ち取った者たちの理想によって作られたコミュニティこそ、それが「理想」と定義づけられてしまう。各々が理想を押し付け合うが、別に革命が起こるわけでもなく、コミュニティが乱立するだけの極めて空虚な状態。それが今の日本です。漁港のスピーカーから「多数決で決めるなんて 全然きゅーとじゃないじゃん わたし少数派でいいじゃん(FRUITS ZIPPER『NEW KAWAII』)」という歌声が聞こえてくる世界になりました。
しかし、人類は愚かだからこそ美しい。欠点があるからこそ人を愛することができる。藤井風『Prema』ばかり聴いて、すっかり"High Yourself"状態なキムラはこれから来る(おそらく)最悪な世界に備え、愛や信念について深く考えるようになりました。世界の状態と自分自身の状態は全く別のもの。だからこそできるだけ自分の状態を良好に保つために、SNSとは断絶された、リアルな身の回りの世界にこれまで以上に目を向けるようになりました。休みの日は毎朝散歩し、水を飲み、木や鳥を眺める。とても楽しいです。
なんだか日記みたいになってしまいましたが、後半パートではもう少し『鬼滅の刃』の内容について考えながら、それを現在の政局と照らし合わせつつ、さらに来年始まるあのドラマの凄さとヤバさについて話しています。 
今回は、特集「日本」と題しまして、現在映画が大ヒット公開中、今や国民的コンテンツに成長を遂げた『鬼滅の刃』、そして先の参院選で獲得議席数を大きく伸ばし、今日の日本の政局の行方を握ると言っても過言ではない新興政党・参政党について、それぞれの特徴や思想から見える共通点を探りながら、「日本」という国の特殊さや複雑さについて探っていきます。
『鬼滅の刃』で炭治郎が所属する「鬼殺隊」。人喰い鬼を狩る力を有した剣士、そしてその剣士を支える者達が集まった政府非公認の組織である鬼殺隊は、物語を通して、人々の生活を守る、絶対的な「正義」の側として描かれます。その名のごとく鬼を殺す隊であるのだから、ごく自然のことでしょう。
「参政党」に目を向けると、彼らは「日本の国益を守り、世界に大調和を生む」という理念、日本の利益や国民を優先する「日本人ファースト」という思想を掲げながら政治活動を行っています。「ここは日本なのだから、日本に住む日本人が最も尊重されるべきだ」というのも、額面通り受け取れば真っ当な言い分なわけですし、何より”政”治に”参”加する”党”というネーミングの分かりやすさには、大衆の興味関心を惹き付ける力があります。ここ数年間まさしく政治に参加することの正しさを訴え続けてきたリベラル左派のコマーシャルキャンペーンのスローガンを、ほとんどそのまま党名に冠するというアイデアは、非常に狡知に長けたものだと唸ってしまいます。
「鬼殺隊」と「参政党」。両者ともそれぞれの目的意識が判然とした名前のもとに、前者の場合は読者、後者は有権者に対して、「わたしたちこそが正義であり、あいつらは敵である。だから必ず成敗しなければならない」と人々を扇動します。
しかしどうでしょう。かつて、中島みゆきが「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」と歌っていたように、人は自分の愛するものや、それを失った復讐のためとあれば、いとも簡単に悪に成り変わることができます。貧困、他人への憎悪、嫉妬や妬み...によって、あっという間に自分が自分でなくなっていく。鬼舞辻無惨を討伐し、自分にとっての復讐が完了した炭治郎は、倒した敵の悪性に取り憑かれ、とうとう鬼と化してしまったわけです。そのような最悪の事態に陥る前に、あなたの頬を張り倒してくれる本当の友人や家族が、あなたの周りには居ますか?自信をもって「はい」と答えられる人はそう多くないはずです。人間同士の関係というものは、極めて不安定かつ繊細な糸のようなもので、誰かひとりが自らの利する方へと無理に手繰り寄せた途端、その糸はいとも容易くぷつんと切れてしまう。血のつながりがあろうがなかろうが、それは変わりません。
炭治郎は、そして参政党は、本当に「正義」たりえているのか?彼らがいうところの「鬼」は、本当に「悪」なのか?何のために、何を犠牲にして、何を守りながら、何と戦おうとしているのか。そんなあらゆる立場の人々のことについて考え、思いを巡らすこと。あらゆる思想や言説が加速主義に突入している現在だからこそ、もう一度糸を弛ますこと。
もしかしたら、あなたはもう既に鬼になってしまっているのかもしれません。今回はあなたにそのことに気づいてもらうための特集でもあります。ぜひとも、鬼になる前の、ありのままだった頃の自分の姿を、もう一度思い出してみませんか。
※追記:収録日時点では続投の意思を表明していた石破首相が、8月7日の15時14分、辞任の意向を固めたという速報が入ってきました。ちょうどこの概要文を書いていた最中ということもあり、複雑な心境ではありますが、しかし「日本」について語ったこのポッドキャストを配信するには、この上なく絶好のタイミングです。我々二人はことごとく運やタイミングに恵まれていて、それだけでも、すごく実感をもって活動することができています。喋ったり、笑ったり、叫んだり、ワクワクします。全部新鮮です。どんな絶望にもまして、この楽しさこそが、我々がポッドキャストを録る理由なんだって、今、はっきり理解できました。
今回の特集は、『SUMMER SONIC 2025』です。来年には25周年を迎える通称サマソニは、都市型音楽フェスティバルとして、日本最大級の野外ロック・フェスティバルであるフジロックと共に日本の洋楽アクトを大規模に招集する夏フェスの二大巨頭として、その役割を担い、お互いが歴史を積み重ねてきました。だからこそ、定点観測することによって日本の音楽産業(洋楽の隆盛状況)そのものを見通すことが出来る、音楽ファンならば無視することのできないイベントとなっています。
そんな中、この両者のラインナップを通して発せられるシグナルは近年、より異なったものになってきています。特に今回僕ら2人が参戦してきたサマソニは、2010年代後半から”ロックフェス”であることから離れ(元々サマソニはそのようなオールジャンルを指向する”都市型音楽フェスティバル”でしたが)、HIPHOPやEDM、そしてK-POPや日本のアイドルを大胆にラインナップに加えていくようになりました。そして、僕ら2人はだからこそ、2010年代後半に上京してから、毎年サマソニを選択しているのだと思っています。
この、フジロッカーと呼ばれるフジロック愛好家を毎年生み出し固定客を掴んでいるのとは対照的に、誰もサマソニストを自認しない、毎年観客の傾向がラインナップによって流動し、都市で行われ毎年「反省と改革」を結局はどのフェスよりも行い、その形を変え続けているのがサマソニであると思います。だからこそ、2018年にまだ当時「ocean eyes」で世界に姿を現し始めたばかりのBillie Eilsishが出演するなど、そのビジョナリーさをいかんなく発揮してきました。Billie Eilsishは、裏で同日にスペシャルワンとしてサマソニ対ビリーの構図で語られる単独公演を開けるまでに成長しました。そして、今年のラインナップにもそのようなアーティストを満杯ではないメインステージではない状態で私たちは目撃できたかもしれません。
そんな、大文字の”東京”をどこよりも体現しているサマソニを通して、今の音楽の動向だけでなく、都市のダイナミズムまでも感じることができる。今を生きている人々が何を眼差しているのか?までも、見通すことが出来てしまう。それこそが、サマソニの1番の特徴なのではないかと考えています。そんなことを考えながら、今年のサマソニの振り返りを是非一緒にしていきましょう。
今回の特集は、『SUMMER SONIC 2025』です。来年には25周年を迎える通称サマソニは、都市型音楽フェスティバルとして、日本最大級の野外ロック・フェスティバルであるフジロックと共に日本の洋楽アクトを大規模に招集する夏フェスの二大巨頭として、その役割を担い、お互いが歴史を積み重ねてきました。だからこそ、定点観測することによって日本の音楽産業(洋楽の隆盛状況)そのものを見通すことが出来る、音楽ファンならば無視することのできないイベントとなっています。
そんな中、この両者のラインナップを通して発せられるシグナルは近年、より異なったものになってきています。特に今回僕ら2人が参戦してきたサマソニは、2010年代後半から”ロックフェス”であることから離れ(元々サマソニはそのようなオールジャンルを指向する”都市型音楽フェスティバル”でしたが)、HIPHOPやEDM、そしてK-POPや日本のアイドルを大胆にラインナップに加えていくようになりました。そして、僕ら2人はだからこそ、2010年代後半に上京してから、毎年サマソニを選択しているのだと思っています。
この、フジロッカーと呼ばれるフジロック愛好家を毎年生み出し固定客を掴んでいるのとは対照的に、誰もサマソニストを自認しない、毎年観客の傾向がラインナップによって流動し、都市で行われ毎年「反省と改革」を結局はどのフェスよりも行い、その形を変え続けているのがサマソニであると思います。だからこそ、2018年にまだ当時「ocean eyes」で世界に姿を現し始めたばかりのBillie Eilsishが出演するなど、そのビジョナリーさをいかんなく発揮してきました。Billie Eilsishは、裏で同日にスペシャルワンとしてサマソニ対ビリーの構図で語られる単独公演を開けるまでに成長しました。そして、今年のラインナップにもそのようなアーティストを満杯ではないメインステージではない状態で私たちは目撃できたかもしれません。
そんな、大文字の”東京”をどこよりも体現しているサマソニを通して、今の音楽の動向だけでなく、都市のダイナミズムまでも感じることができる。今を生きている人々が何を眼差しているのか?までも、見通すことが出来てしまう。それこそが、サマソニの1番の特徴なのではないかと考えています。そんなことを考えながら、今年のサマソニの振り返りを是非一緒にしていきましょう。
ここはNEW KAWAIIの国
見てる阿呆より踊る阿呆に
さ、アップデートしよ?
(訂正:sombrの話でScritti Polittiの名前を出してますが、正しくはThe Durutti Columnです)
今回の特集は、先日Netflixで配信が開始されたストップモーションアニメ作品『My Melody & Kuromi』です。2025年はマイメロディが50周年、クロミが20周年のアニバーサリーイヤー。そんな長年親しまれてきた「メロクロ」の2人を描いた本作ですが、皆さんはもうご覧になられましたか?「どうせ子供向けアニメでしょ?」などと高を括ってらっしゃる方々、是非とも今すぐ観てください。
今作「メロクロ」の素晴らしいポイントは、優しく朗らかな性格のマイメロディと、自分の心に正直なクロミのふたりの性格と関係性をそのまま忠実に取り入れながら、その上で現代の我々がまさに直面している社会の問題や病理についてもきちんとと描いているところです。脚本を担当した根本宗子はインタビューで「今作ではマイメロとクロミの二人の関係性をもとに、"対立の先にある優しさ”を描いた」と語っています。他者を見てつい欲望や嫉妬を抱えてしまうこと、そんな欲望や嫉妬にここぞとばかりに漬け込んでくる存在がいること、その結果、思いもしなかった誰かを傷つけてしまうこと。そんな幾度も繰り返し続ける失敗を、果たして我々はどうやって乗り越えていけばよいのか。混沌を極めるいま、改めて考え直さねばならない非常に重要なテーマを、わかりやすく簡潔に、しかしどこまでも深く描いているのが本作なのです。
株式会社サンリオの創始者である辻信太郎は「人々がお互いに思いやりを持ち、仲良く暮らせるコミュニティ(集団)を作りたい」と語ります。第二次世界大戦時中、甲府空襲を経験した辻は、その悲惨な経験をもとに、「みんなが仲良くなるにはどうしたらいいだろう?」「どうしたら平和な世界になるんだろう?」と考え続け、その願いや祈りのもとに、サンリオは今日まで様々なキャラクターやコンテンツを生み出してきました。みんなが少しでも楽しく仲良く暮らすために、サンリオから、そしてこの「メロクロ」から学ぶべきことがいくつもあると思うわけです。
日本の夏は暑くなりすぎて、最近では日中にあまり蝉が鳴かなくなりました。当たり前だったことは当たり前じゃなくなり始めていて、我々は少しずつ何かを忘れていきながら、そのくせ大して大事でもないことを一生懸命に頭に詰め込み、せっせせっせと日々を生きています。人間として本当に大切な何かを失ってしまう前に、かけがえの無い喜びや悦楽とは何か?それを「メロクロ」から教わることにしましょう。
※サンリオHPより『いちご新聞8月号|いちごの王さまからのメッセージ』https://www.sanrio.co.jp/news/goods/strawberrynews-message-202508/
本パートから本格的に『世界99』の世界を読み込んでいきます。我々が特に重要だと思うのが、下巻における空子と白藤の関係性の変異であり、この2人の言動を観察していると「もしもあの人混みの前で君の手を離さなければ / もしも不意に出たあの声をきつく飲み込んでいれば」と思わずにはいられない場面がいくつもある。もっとこうしていればあんなことにはならなかったんじゃないか...と。思想も境遇も全く違う人間どうしの不和を解決するためには一体何が必要なのか?
その答えを映画『エブエブ(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)』から見つけていきたいと思います。『世界99』と『エブエブ』、どちらも「家族」ひいては「母娘関係」をテーマの中心に扱った作品であり、そのうえ主人公が多層的な世界を複雑に横断していくという共通点もあります。家族という切っても切れない深い絆、が時にもたらす重責と業。21世紀において「血」や「家族」といった逃れられない束縛(システム)は、我々の想像をはるかに超えるレベルでこの世界を動かす基盤として機能しており、それは「世襲」をもとに歴史を積み重ねながら、長きにわたって我々日本人の熱狂の中心に存在し続ける「政治」や「芸能」のあり方をみても明白です。その事実について我々はもっと真剣に考える必要がある。『世界99』と『エブエブ』この2作品をじっくりと参照することで、きっとこの現代社会を生き抜いていくための手引きが見つかるはずです。
今回の特集は村田沙耶香の小説『世界99』です。
上下巻合わせて900ページ近い超大作であるこの作品には、私たち読者が日頃から無意識に受け入れている「正しいこと」「普通のこと」といった常識を、根本から揺さぶる圧倒的な強さがあります。この物語の登場人物たちの行動や思考が、一見すると異常でありながら、その異常こそが現代社会の規範が持つ矛盾や欺瞞がありありと露呈してゆく。この物語を読む私たちは、何が「普通」で、何が「異常」なのかという根源的な問いを突きつけられることになります。
この衝撃を我々はどう受け止めればよいのか。ここで「過剰接続」の出番です。
今回はA24の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(エブエブ)』という映画を引き合いに出しながら、両作品に共通する事項について、つまりは「家族観」や「多様な選択の可能性」といったトピックを中心に考えていきます。
『エブエブ』におけるマルチバースという設定によって、主人公エヴリンは「もしあの時こうしていたら…」という無数の可能性を目の当たりにします。カンフーマスター、映画スター、ソーセージの指を持つ人間など、様々な「あり得たかもしれない自分」を経験することで、彼女自身のアイデンティティが揺らぐことになります。このアイデンティティの揺らぎによってエブリンは自身の中の多様さ、複雑さを受け入れていく過程が描かれます。
『世界99』も『エブエブ』も、両者ともに、現代社会では当たり前となった感覚やシステムを揺さぶり、それによって発生したカオスの中から新たな意味を見出すという点で、非常に重要な作品であるということを訴えたいと思います。
今回も重いテーマになりますが、どうぞ最後までお付き合いください。
ウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』という映画があります。物語の舞台は1965年9月のはじめ、ニューイングランドの架空の島。子供たちの冒険と成長、そして大人たちの混乱を描いたオフビートなコメディ映画なのですが、ここで注目したいのは、周囲の大人たちが子供たちに向ける多種多様な視線です。とある親は子を過保護に心配し、またある親は問題児である我が子に愛想を尽かして無関心な態度を見せる。何よりも主人公であるサムが孤児であるということ。どの子供たちも複雑で/ある種無責任で/欠落した視線を大人たちから向けられている。そんな中、彼らは野山に集い、テントを張って共に生活をします。「血のつながっていない家族」のひと夏の物語。
”君は覚えてるかな?9月のあの夜のこと”
“互いの愛が、噓つきな僕らの心を変えていったこと”
“まるで雲を追い払うみたいに’
(Earth, Wind & Fire / September)
もうひとつ。タイカ・ワイティティの傑作『ジョジョ・ラビット』について話しましょう。舞台は1940年代、第二次世界大戦末期のドイツ。10歳の少年ジョジョ・ベツラーは、熱心なヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)のメンバー。彼は空想上の親友として、頭の中のコミカルで陽気で狂気的なヒトラーと会話しながら日々を過ごしています。ジョジョはヒトラーユーゲントのトレーニングを経て優秀な兵士になることを夢見ていましたが、ウサギを殺すことができず、「ジョジョ・ラビット」というあだ名をつけられ、ついには怪我で訓練キャンプを追放されてしまう。そんな彼はある日ユダヤ人のエルサと出逢います。彼はエルサの話を聞いたことで、自身の「ユダヤ人に関する知識」が全てデタラメであることに気づきます。そして何よりも彼を救ったのは母ロージーの存在。彼女はジョジョに希望や愛情だけでなく充実した教育を与えます。「感性とはなにか?」を知ったジョジョ。しかしロージーは反戦活動に関わった結果、処刑されてしまいます。母を喪失という絶望を糧に、彼はエルサと2人で未来へと歩いていくことを決意する。この作品は、国や大人たちが動かす邪悪で強大なシステム、イデオロギーや信仰にどっぷりと支配されてしまっていた「子ウサギ」が、母や友、師の支えや教えを受けながら、戦禍の中で自らの意志を掴み取り、成長してゆく物語であるということです。
“君が泳げたらな”
“イルカのように イルカが泳ぐように”
“どんなに引き離されそうになっても”
“僕らはやつらを打ち倒せる、いつまでも、何度でも”
“僕らは英雄になれる、一日だけならば”
(David Bowie / Heros)
今挙げた2作品には、共通するテーマがいくつかあります。勘のいい方なら既にお気づきかと思いますが、要は僕ら二人が「未来」を思考するために「過剰接続」という手段を用いるとして、今回の特集『狂気』の後半パートはその核心的な部分へと触れることになるのではないでしょうか。
現在、世界では軍事的/産業的、大小様々な規模の戦争が繰り広げられており、終わりの兆しすら見えません。日々ますます最悪な状況が加速するこの世界を生き抜くために、来たる未来に対して「備える」こと、そして何より忘れてはならないのが「教育」と「慈愛」であると考えます。フランシス・フォード・コッポラの集大成である『メガロポリス』は、そういったメッセージが存分に込められた映画でした。自分の中にある「狂気」を飼いながら、その「狂気」をどういった場面でどのように発揮するか。未来を「視る」ためにはどうすればよいのか。
それでは考えてみることにしましょう。
まず最初にお伝えしなければならないのは、今回の特集テーマについて。ここまで星野源、乃木坂46とそれぞれ特定のアーティストをテーマに語ってきたわけですが、ここで一度、このポッドキャストの根本的な命題に立ち返り(?)、思い切って「概念」を起点とした過剰な接続を試みたいと思います。今回の特集は「狂気」です。そして登場するのがカニエ・ウェストとミン・ヒジン。
きょう‐き〔キヤウ‐〕【狂気】:気が狂っていること。また、異常をきたした精神状態 / Goo辞書(2025年6月25日をもってサービス終了)
「狂気」についていくつかの辞書を調べてみると、辞書というある程度は思想の公平性が担保されたメディアでさえ、やたらとネガティブな言及・定義が目立ちます。とはいえ皆さんも「狂気」と聞くと、なんとなく嫌なイメージを抱くのではないでしょうか?(あまつさえ、それをミン・ヒジンに貼り付けたタイトルを見たBunniesの方々は)
しかし本当にそうなのでしょうか?
かつてフランスの哲学者フーコーは「中世時代には一種の「知」とされていた「狂気」が、のちに理性主義が優位になると社会的に監禁されるようになった。「狂気」と「正常」の線引きがはっきりとなされ、社会的な型にはまっている状態こそが「正常」で、そこから外れた存在が「狂気」と定義づけられた」と語っています。「狂気」とはポジティブかネガティブか、理性か非理性かで定義づけられるものではなく、文明が未来を切り開くための可能性でさえあったということです。
またアインシュタインは、「狂気」について、「同じことを繰り返しながら、異なる結果を期待すること(Insanity is doing the same thing over and over again and expecting different results)」だと説きました。
カニエもミン・ヒジンも、同じことは一切しない、常に新しいアイデアで未来を切り開く天才として評価され続けているわけですが、彼らにだって、いや、むしろ彼らのような「狂気」を孕んだ人間の行動や思想にこそ「繰り返し」や「非合理」による実践があるはずだと考えるわけです。
たとえば、カニエはパンデミック以降、私財を投げ打ってリスニングパーティーを何度も開催しています。ツアーやフェスで各地を周り、チケット代やマーチの売り上げなどでプロモーション費用を回収することが最も合理的かつ一般的とされている音楽業界において彼のような行動は実に非合理的です。
またミン・ヒジンは、CDやグッズなどのアートワークデザインに並々ならぬ執着と意匠を持ち、たとえ採算が合わなくても良質で革新的なものを提供したいという意思のもとでクリエイティブを続けています。K-POPのシーンの規模や環境が変わってもなお、確固として変わらない彼女の信条もまた実に「繰り返し」と「非合理」の上に成り立っているものです。
収録を終えてふと振り返って考えてみると、僕ら2人は「狂気」というテーマについて明るく楽しくポジティブに語ってみたかったんじゃないかと思います。ですから皆さんも一見すると物騒なタイトルに臆することなく、どうか気楽に明るい気持ちで聞いていただければ。かつてないほど「狂気」が嫌悪されるこの時代に、改めて「狂気」について考えてみることにしましょう。
Bunnies Campから一年経って、世界はあの頃よりも最悪だけど、これからも彼女たちが、僕たちが生き延びるために。
「乃木坂46と『東京の生活史』」
後半パートでは2019年以降の乃木坂46を紐解いていきます。
丁度この時期に加入した4期生は『乃木坂どこへ』という”上京物語”によってキャリアの幕を開けます。
「東京タワーに登りたい」と泣く女の子がいました。なぜあんなにまで東京タワーに登りたかったのか。今思うと、その気持ちがなんとなく分かるような気がします。
またある彼女は、首都高から眺める東京タワーの写真をブログに載せていました。別の彼女は東京タワーの足元で撮った、オレンジの光に照らされた自撮りの写真を送ってきました。東京のシンボル、東京に生きる人々のセンチメンタルに寄り添う同情塔。あのなんとも言えない魔力。刹那。
乃木坂というアイドルグループは、東京のアイドルグループなのか?
あの時、確かに東京の街で生きた彼女たちの痕跡を辿ること。君の中の本当の正しさが悪や欺瞞を暴くとき、その代償として世界が君の姿を隠そうとすることを僕は知っている。だからこそ、君がいたことを少しでも残しておきたいと、そう思ったんだ。
つい収録時間が長くなってしまいましたが、どうか最後までお付き合いください。
今回の特集は「乃木坂46と『東京の生活史』」です。
そもそも乃木坂46がきっかけでTwitterで出逢った僕ら2人にとって、このテーマはまさに核心そのもの。放っておいたら何時間でも話せてしまう話題だからこそ、どの角度から語り、どう過剰接続していくべきか悩みました。
そんな時ふと、「東京に暮らす僕らと、東京に生きる乃木坂メンバー、それぞれの暮らしを照らし合わせていけば、なんか共通点が見つかるんじゃない?」と冗談半分で話しはじめた結果、乃木坂46とそこに生きるメンバーは、「東京」という都市のありようと密かな「つながり」を抱えているんじゃないかと思うに至りました。
果たして乃木坂46は「東京」のアイドルなのか?
今回の特集では、乃木坂46の13年間の歴史を「2019年」の前後で区切り、その周辺で起こった変化や転機をもとに、できるだけファンダムの外側にも届けるつもりで意識をしながら語りました。我々の東京の生活を語ることが、きっとそのまま乃木坂46を語ることに「つながる」はずだと、そう信じて。なので「乃木坂なんて興味ないし…」みたいな方こそ、固有名詞の羅列をかわしながら是非ともチェックしてみてください。きっと新たな発見が、あなたの生活との共通点が見つかることでしょう。
まず前半パートでは、私はこーへ史観の「乃木坂46」を紐解いていきます。橋本奈々未の卒業、その悲痛。大園桃子という異端児、そのリアルとアンリアル。そしてなによりも、齋藤飛鳥という存在との鮮烈な出逢い、そのエウレカ。なぜ私はこーへは齋藤飛鳥に惹かれてしまったのか?それでは、私はこーへと齋藤飛鳥の『天気の子』をお楽しみください。
『彼女がいる。東京で彼女が生きている、彼女がいるかぎり、僕はこの世界にしっかりと繋ぎ止められている。」
『私はこーへとキムラのコンテンツ過剰接続』第一回「星野源『Gen』と大阪万博」の後半エピソードです。星野源『Star』で幾度も繰り返される「いのちは輝いた」というフレーズ。これこそが星野源『Gen』と大阪万博の最大の接続ポイントではないでしょうか?そんな気がしたので二人で考えてみました。
漠然とした景気回復の旗印であった東京五輪の挫折の先に開催される、もはやなんの意味も持たなくなってしまった大阪万博。前回の大阪万博EXPO'70で岡本太郎が注入した毒が「いのちの輝きくん」へと繋がった?公式マスコットキャラクター「ミャクミャク」の凄さ:細胞分裂と再生産、POPの増殖(VIRUS)。
星野源は大阪万博とコラボすべきだった?三波春夫「世界の国からこんにちは」と星野源「Hello Song」。星野源と大阪万博が共にある21世紀世界の行く末とは…
「ほーしのくん、遊びましょ」
『私はこーへとキムラのコンテンツ過剰接続』第一回の特集は「星野源『Gen』と大阪万博」です。『逃げ恥』や『恋』のヒット以降、ミュージシャン、俳優業、文筆業など様々な分野で活躍を続ける星野源。彼が6年ぶりにリリースしたアルバム『Gen』はもう聴きましたか?この国のポップミュージック・シーンを牽引する重要かつ巨大な存在でありながらも、私たちは彼の凄みや引力の正体を未だ捉え切れていないのではないでしょうか?そんな彼を包む曖昧さや抽象性ゆえに、彼の周囲では常に様々な政治的イシューによる分断が引き起こされています。ポップスターとして大衆の要請に応えながら明るくご機嫌に振る舞う一方で、時に私たちを身震いさせるほどの恐ろしい狂気を表出する瞬間さえ見せる、その内面。アルバムリリースに際してのインタビューでは彼自身が抱える絶望や諦念といった素顔をありのままに吐露しています。このように複雑な多面性を持つ星野源という存在について、様々なトピックを過剰に接続しながら語っていきます。『Gen』のセルフタイトルに込められた意味とは?絶望と諦念を抱えながら、彼の書く歌詞はどう変化したのか?『MAD HOPE』とはなにか?結局『LIGHTHOUSE』とはなんだったのか?彼は何を原動力に「創造」を続けるのか?前半エピソードではニューアルバム『Gen』の作品性をもとに、直近の星野源の思考や境遇が「どう」変化したのか、また「なぜ(Why)」変化したのかについて迫ります。
僕らは今、SNSや動画コンテンツにより、過剰に接続し続ける時代を生きている。人は空を見上げず、首を落とし、手の中にある箱に無限の可能性と虚無を休みなくみている。そんな24時間過剰接続の先で、地球を救うことはできるのだろうか?もうそんなデッドラインはとうの昔に過ぎてしまっているのかもしれない。それでも、確かに箱を持つ手が存在し、考える身体がそれぞれのデバイスの先にはあるのだと僕らは知っているはずだ。それならば、その手の実感を得ることができるようになるまで過剰に想像しよう。彼は苦しんでいるかもしれないし、自分だって苦しんでいるからあんなことをしてしまったのかもしれない。情報の過剰さに負けることなく、更に過剰に接続することのススメ。24時間過剰接続、今世のテーマは『~明日のために、今日つながろう~』、あなたの世界に対する優しい過剰接続のためのレッスンとなるなら、これ以上の悦びはありません。