
「あいまいでいいよ 本当のことは後回しで忘れちゃおうよ / そうして僕たちは飲み干せないままの微温いコーヒーを持て余したままで歩いたその先でキスの真似をする」(羊文学『あいまいでいいよ』)
「映画とはなにか?」この巨大な問いを持て余したまま、かつてのあのキスの真似事を続けるのが、引用と参照を繰り返す21世紀の映画文化だとして、そこには歴史の芳醇さを享受することができる自由と甘美がある反面、残酷な消費社会の現実が横たわっています。
それにしても「映画的」というワードはやはり難儀で、その原義に迫ろうとすればするほど、偉大な映画監督たちの作品、ひいては映画史を形作ってきた批評家の体系を避けることはできません。そんな掴み所のない映画という文化を前に、この界隈性を取っ払ってご機嫌に「映画的」について語ることができないか?と思いついたのが、今回の特集です。
そもそも「〜的」とは、元からある状態ひいては前例に対しての比喩・比較に対して用いる言葉であり、人はオリジナル(原義)と、それに類似するものとの「あわい」を見つけては、つい「〜的」という言葉を多用してしまいます。二項対立や断定の束縛から解放してくれる「あわい」は、その言葉の響きからしても柔和で、とても居心地の良い状態を与えてくれます。しかし、この「あわい」は、判断力や審美眼を知らぬ間に鈍らせる非常にしたたかな悪魔でもあります。「〜的」という言葉はそれぞれの知見や思考を同一のコンテクストに委ねることとなります。
今回私たちは映画という概念をより理解するべく、「映画的」を的(まと)と仮定し、それに向かって矢を放ちました。しかしそれがすべからく空を切った(概念が増幅した)ことで気づいたのは、「映画的」というのは、映画のど真ん中の本質を射抜くために作られた矢であるということです。これは中島敦『名人伝』がごとく、矢じりの先端を矢で射抜くような名人芸であり、この芸を習得するのは並大抵のことではなく、我々が「映画的」という的を通して映画の本質を捉えようとするのは、いささか現実的ではないように思えてなりません。「映画」と「映画的」、果たしてそのどちらを的として射るべきなのか。我々の鍛錬はまだ終わりそうにありません。
後半回では、藤本タツキが元より持つ「漫画的」なシグネチャー、それがセル画になって動いた瞬間の「アニメ的」な躍動、さらには映画として映画館にかけられた時に試される「映画的」への試行について、それらが作り手側の目論見通り機能しているのか?どこまで挑戦を成功させているのか?を探っています。
結局、今回の「特集:映画的」で、私たちは「良い映画の成立条件とは何か?」について「より良い映画は、より「映画的」である」という前提条件をもとに話を展開していたようです。すべての映画が静止画のショットを1秒に24コマのスピードで目まぐるしく展開していく運動である以上、それは大なり小なり「映画的」です。その上で、我々に鮮烈な体験を与えてくれるような、さらなる「映画的」な映画が存在するならば、果たしてその映画はどのように「映画的」なのでしょうか。
コーヒーでも飲みながら、耳を傾けてみてください。