本書「コンサイスバイブル 福音」は、すべて聖書から抜粋したもので、聖書のことばそのものです。おもに、まだ聖書を読んだことのない方のために、あるいは、キリストへの信仰の要点を知りたい方のために読み易くまとめたものです。 聖書全体は、イエス・キリストと、神の新しい御国の奥義を中心としています。それを悟り、理解するために、子どものように素直な心で読んでください。隠された宝を探し求めるような気持ちで神のことばを読めば、「あなたは、だれにも教えられる必要はない。」と書いてある聖書のことばが、必ずあなたの上に実現するでしょう。 なお、本書を読み終えたあと、ぜひ聖書そのものを、お読みください。 聖書は救われるための知恵を、私たちに与える書物である。そのすべては神の霊感によって書かれ、私たちに、真理を教え、また悪を示し、私たちを正し、義の道に導くために役立つ。 テモテへの手紙 第二 3章15節-16節
聖書は、旧約聖書と新約聖書から成り立っています。旧約、新約の「約」は「契約」の「約」で、神が人間を救ってくださるという約束を意味しています。 神の救いの契約とは、イエス・キリストの十字架上の死による救い、また、その救いによる天の御国の相続、という約束です。キリスト信者は、約二千年前に生まれた神の子イエス・キリストが、罪深い人間が受けねばならない刑罰を身代りに受け、十字架上で死なれたことによって、人類の罪が永遠に取り除かれたと信じます。つまり、私たち人間の罪が赦され、神から永遠のいのちを与えられるという神の契約の福音を信じているのです。この契約の福音が聖書全体の中心です。そして、キリスト以前に書かれた「契約の書」が「旧約聖書」、キリスト以後に書かれたものが「新約聖書」と呼ばれています。 旧約聖書は、ユダヤ民族を中心に、紀元前1500年代~前400年代の間にまたがり、数多くの人々によって書かれ、歴史の書、律法の書、預言の書、詩や歌など、合わせて三十九の書によって成り立っています。その中で、キリストと神の新しい御国が、繰り返して預言という形で語られているのです。 それに対して、新約聖書は、これらのキリストについての預言がいかに成就したかを、事実をもって説明し、その救いについて教えています。その内容は紀元30年代~90年代までの間に、おもにイエスの弟子たちによって書かれ、キリストの生涯を記した四つの福音書からはじまり、二十一通の手紙など、合計二十七の書から成っています。 なお、ユダヤ人は旧約聖書のみを「律法」とか「預言」と称し、「神のことば」、「聖書」と見なしてきましたが、キリスト信者は、旧約聖書、新約聖書すべてを「神のことば」と信じています。 聖書のことばは、どれも、自分勝手に解釈してはならない。 ペテロの手紙 第二 1章20節
聖書は、驚くほど複雑精巧に造られ、驚くべき生命をもつこの世界がどのように始まったのか、人間がどのように創造され、人類がなぜ自分たちの創造主である方に反逆し、無視したのか、そして神に対する人間の罪のために下された恐るべき死の呪いについて教えています。私たちが生まれたその日から死ぬべきものと定められているのは、神に対する私たちの罪のためであると聖書は教えます。私たちには希望も、変わることなくいつまでも続く本当の喜びも平安もありません。私たちの前途にはただ死が待ち受けているだけです。富める人も貧しい人も、強い人も弱い人も、自由な人も奴隷とされた人も、健やかな人も病める人も、やがて私たちは必ず死んでいくのです。やがて私たちは自らの創造主である方の前に立ち、なぜ創造主である方が定めた義の律法を無視したのかについて弁明しなければなりません。私たち人間が定めた法律によって私たちが裁くのではなく、神がご自身が定められた律法によって神が私たちをさばかれるのです。 世界のどんな宗教も、どんな哲学や思想も、またどんな人間も、どうしたらこの恐ろしい死の呪いから救われるかを教えてはくれません。それを教えてくれる唯一の書、それが聖書です。
人間の罪と暴力に満ちた世界を見るに耐えられなくなられた神は、息あるものをすべて滅ぼそうと決意されました。今日でも、神が地に下された恐ろしい裁きによって滅ぼされた動物の化石や痕跡が、高い山々の頂から深い峡谷の底に至るまで世界中の岩の中に残っています。 来たるべき裁きは火による滅びになると神は約束しておられます。新約聖書のペテロの手紙 第二 3章10節には、次のように記されています。「主の日は盗人のように襲って来ます。その日、天は大きな響きをたてて消え失せ、天体は燃えて崩れ、地とそこで造り出されたものは溶け去ってしまいます。」
洪水の後、長生きしたノアは死に、その後も地上には再び多くの人間が生まれ育ち、増えていきました。しかし、人間はまたもや堕落し、いろいろな宗教や偶像をつくり出しました。洪水の数百年後、地上はすでに罪に満ちた、暗黒の世界になっていました。 そこで神は、罪深い人間を罰すると預言者をとおして警告されました。人々に、悔い改めるよう神の声を伝えた預言者たちは、憎まれ、迫害され、殺されたことも少なくはありませんでした。しかし、人間を愛しておられる神は、あらゆる時代に預言者を世界に送り続けられたのです。
神が預言者たちをとおして私たちに約束されたことは、やがて神の支配する正義の王国が打ち立てられる日が来る、また、人が悪から清められ、救われるときも来る、ということです。 さらに、ひとりの方がこの世に遣わされ、はじめは救い主、後にはさばき主、また王として来られる、ということを預言者たちは伝えたのです。彼らは、このやがて来る救い主、またさばき主、王でもあられる方をメシアと呼びました。そして、イエス・キリストの誕生のはるか以前から、この方について預言をしていたのです。
聖書が伝える驚くべきメッセージとは、宇宙の創造主が、私たちを愛し、私たちが犯した罪の恐ろしい結果から私たちを救おうとされて、私たちと同じような人間となられたというメッセージです。ご自身は栄光の王、力ある創造主、聖なる神である方が、この悲惨に満ちた悪しき世に来られ、人類の代表として私たちに代わって私たちの罪を負い、私たちの身代わりとなって死ぬことによって世の罪を取り除くために来られたのです。手には人間たちによって釘が打ち込まれ、その顔は血と唾にまみれました。この方は、人類の罪に対する神の正しいさばきをその身に負ってくださったのです。
今日でもなお、イエスのことばは人々の心を刺し貫きます。なぜなら、そのことばは正しく、謙虚で清いからです。しかしイエスは、ただ美しいことばを語ったのではありません。イエスは、ご自分の弟子たちに、「私の教えに従いなさい」とは言われませんでした。イエスは、「私に従いなさい!」と言われたのです。同じように、イエスを信じる人々は、金銭やものに対する貪欲さや人からの誉れではなく、また他の人々を権力や権威をもって支配しようとする思いではなく、義と愛と清さの模範を自らの生活の中で示さなければなりません。イエスは私たちの模範です。
イエスはこう言われました、「世は私を憎んでいます。私が世の悪い行いを指摘しているからです。世があなた方を憎むとき、あなた方より先に私を憎んでいることを覚えなさい。もし、人々が私を迫害するなら、あなた方をも迫害します。事実、私の名のゆえに、人々はこれらのことをすべてするようになります。それは彼らが、私を遣わされた方を知らないからです。」 イエスが去ってから今日まで何世紀にもわたって、キリスト信者が世界各地で迫害を受けてきたのは確かな事実です。この事実こそが真のキリスト教のしるしです。聖書は、クリスチャンに耐え忍び、天の御国を待ち望むように教えています。ここでもまたイエスは私たちの模範とすべき方です。
イエスは、十字架上で苦痛にうめき、身をよじり、裸にされ、関節をはずされ、手と足を釘づけにされました。無理やりかぶせられたいばらの冠が頭に食い込み、その顔からは血と浴びせられた唾が流れ落ちました。人間を創造された王の王、主の主が、その人間の罪の責任を負われたのです。私たちは、その死によって生き、その苦しみによって赦され、その打ち傷によって癒されたのです。恐るべき罪の問題の解決にこれ以外の方法はありません。これこそが天の御国に至る唯一の門です。聖書には、それは狭き門であり、それを見つけるものはごくわずかであると記されています。そのような方だからこそ、キリスト信者は自分たちの王である方を愛するのです。
キリスト教のメッセージの希望と栄光と力は、イエスの復活にあります。多くの人はイエスの復活を無視していますが、よほど無知でない限り、この驚くべき事実を誰も否定することはできません。それは世界の歴史の中心であり、世界を引っくり返してしまった出来事でした。事実、これこそが、キリスト信者が世界に対して宣べ伝えているメッセージであり、宣べ伝えるべきメッセージなのです。イエスは死人の中からよみがえられた!私たちの人間の代表となられたイエスが復活されたがゆえに、私たちもまた復活して、栄光に満ちあふれる天の永遠の御国に入るのです。これこそが、全人類に重くのしかかる死という恐ろしい呪いに対する力強い、そして唯一の答えです。これ以外には、死に対して、どんな希望もどんな勝利もありません。
イエス・キリストが昇天されたあと、紀元一世紀の後半、キリスト信者は激しい迫害を受けていました。イエスの弟子ヨハネも、イエスをキリストであると証しし、神のことばを宣べ伝えたため、地中海のパトモスという島に流されました。神はヨハネに、これから全世界に起こることを幻の中で啓示してくださったのです。今は、キリスト信者であるために苦しい目に会わされていても、必ず報われる時が来る、悲しみも苦しみもない新しい世界が来ると、励まして喜びを与えてくださっているのです。この神の御ことばが「ヨハネの黙示録」です。
紀元一世紀の後半、イエスの弟子たちや多くの信者たちは、世界中へ福音を宣べ伝えるために、伝道をしていました。当時、キリストを信じるようになった各地の信者たちの信仰を強め、また励ますために、イエスの弟子たちは、数々の手紙を書きました。弟子たちのこれらの手紙をとおして語られた神のことばが、新約聖書の二十一通の手紙です。本書の第十一章~第十四章はこの手紙の抜粋です。
クリスチャンの信仰は、この世のいかなる宗教とも異なります。この世の宗教は、この世と、また死後の世界で幸せを得るために守るべき教義を教え、自己を鍛錬してその教義を守り行うようにと強いるのです。行いによって幸せを得る、これがこの世の宗教の教えです。一方、クリスチャンは、行いではなく、信仰によってのみ救いを得ることができると信じています。クリスチャンは、すべての人間は創造主なる神がおられることを知っていながら、その神を愛することも、またその神の戒めに従うことも拒んでいる罪に汚れた存在であることを信じています。
しかしそれでいて神は、完全に堕落し、永遠のいのちという希望を得ることが不可能な人間の罪を赦し、救いを与えるために、主イエスをこの世にお遣わしになったということを信じているのです。
人々に拒絶され、あざけられた主イエスは、十字架上で人間のすべての罪をその身に負い、神の怒りとさばきを人間に代わって受けてくださったのです。
ですから今はもう、罪―人類のすべての罪が、イエスによって贖われるのです。しかし人間は自分が神に逆らう罪人であり、自らの努力では自分自身を罪から、そのさばきから救い出すことができないと認め、イエス・キリストを自らの救い主として受け入れなければなりません。神は、信仰によって主イエスを信じ受け入れる人の罪を赦し、新しく生まれ変わらせてくださいます。それだけでなく、イエスを信じ、イエスの死によって自分の罪が赦されたという神のことばを信じる人には、だれにでも神の霊を与えると約束してくださいました。天の御国に相応しいとされた人には、これまでとは全く異なる新しい心と力が与えられ、神の前を正しく生きたいという思いをもって生きるようになるのです。神は私たち一人ひとりが自分でこの決断をすることを望んでおられます。
これが福音―良い知らせ―であり、本章のテーマです。以下は、イエスの弟子パウロが書いた手紙からの抜粋です。
聖書を読めば、キリスト信者になることは、どこかの宗教団体に入ったり、その指導者や話の上手な先生に従うことでないことが分かります。実際、イエスはそのようなことに気をつけるようにと強く警告しています。使徒たちがキリスト信者に宛てて書いた手紙を読むと、神のことばに従って清い生活をすること、この世の欲と誘惑を避けること、苦難や迫害をさえも耐え忍ぶこと、そしてまもなくやって来る神の御国における永遠のいのちの喜ばしい希望を抱いて生きること、そして何よりも、同じようにイエスを信じている兄弟姉妹を助け、愛することが勧められていることがわかります。
キリスト信者であることの本当のしるしは、その人が持っている知識や雄弁さでも、力や経済的な豊かさでもありません。また、クリスチャンの間で高い地位についたり、誉れを受けることでもありません。主にある兄弟姉妹を心から愛していること、それがキリスト信者の本当のしるしです。ヨハネの手紙 第一 3章23節には次のように記されています。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」本当の愛とはどのようなものであるか、その定義を本章の中に見出すことができます。それは、この世にあるどんな文学にも見出すことができない愛です。だれでも、このような愛をもっている人こそが本当のキリスト信者です。
聖書には、神がソロモン王(紀元前970年~前931年ころイスラエルを統治)に、海辺の砂のように、数えきれないほどの知恵と広い心を授けられたことが記されています。「ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。彼はすべての人よりも賢く、諸国の人々はソロモンの知恵を聞くために来た。地の諸王はソロモンの知恵を聞いて人をつかわした。」と聖書は伝えています。本章は、聖書からソロモンの箴言のほんの一部を抜粋したものです。これらのことばは今から三千年も前に書かれたものですが、現在でもなお世界中でしばしば引用されています。
聖書の中の詩篇は本来は歌うために書かれたものです。神は、これらを通して、私たちがどんなときにも、常に神に向かってほめ歌うべきことを教えておられます。悲しいときも、嬉しいときも、病気のときも、失敗して罪を犯してしまったときも、試練の只中にあるときも、迫害されているときも、神の祝福を感謝し喜びに満ち溢れるときも、富めるときも、貧しく乏しいときも、キリスト信者は、神への賛美を捧げる人々です。詩篇は、私たちに何をどのように祈ったらよいかを教えてくれます。詩篇は、「天の父である神」に向かってキリスト信者が何世紀にもわたって時代を超えて祈ってきた祈りです。詩篇の多くは今から三千年ほど前に書かれました。