序)「君たちはどう生きるか」
・太平洋戦争中の 1937 年に吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』が出版され、1982 年に岩波文庫として復刊されたものを私は学生時代に読んで感銘を受けた。2017 年には漫画と原文をミックスした『漫画 君たちはどう生きるか』が出ると、200 万部を超えるベストセラーとなった。2023 年に公開された宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』は第 96 回アカデミー賞長編アニメ賞ほか多数を受賞した。
1)コペル君の物語
・主人公はおじさんからコペル君とニックネームをつけられた本田潤一君中学2年生。銀座の人だかりを見て人間が分子みたいだと言った潤一君を、地動説をとなえたコペルニクス(1473-1543)にちなんで、おじさんが「コペル君」と呼ぶようになる。上級生からにらまれた友だちと行動をともにしようと約束しながら、自分だけ逃げてしまったコペル君は、友だちを裏切ってしまったことをくやんで、ひきこもる。しかし、勇気をもっておわびの手紙を書き、友だちから受け入れられて、コペル君が立ち直る姿を描き、「君たちはどう生きるか」と最後に問うている作品。
2)ペテロはイエスさまを裏切った
・イエス様からペテロ(岩男)とニックネームをつけられて愛されたシモンは、弟子たちの筆頭格だったし、迫害の時が来ても「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ 22 章 33 節)と言い切った男だった。しかし、イエス様が捕らえられて大祭司の家で審問されている夜、中庭で炭火を起こして暖まっている人たちの中に入っていたペテロは、そこで「あなたもあの人の弟子ではないのか」と三度問われて、三度とも「弟子ではない」と否定した。
・鶏が鳴いた時、イエス様が振りむいてペテロを見つめられたとルカは記している(ルカ 22 章 61 節)。ペテロは「外に出て行って、激しく泣いた」。
3)イエス様はペテロをどう扱われたか?
・イエス様が死んで復活されたあと、ティベリア湖畔にいる弟子たちにご自分を現わされた時の次第をヨハネは記している。ペテロは「私は漁に行く」と言い、他の者も従ったが、何も捕れなかった。夜明けにイエス様は岸辺に立たれて、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられ、その通りにすると網を引き上げられないほどの大漁になった。
・岸辺で朝食を用意されていたイエス様は食事の後にペテロに問われた。「あなたはわたしを愛するか?」苦し紛れに「はい」と答えるペテ私たちは主の前にどう生きるか?はペテロは心を痛めて「あなたを愛しています」と告白する。イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返された。
・傷心のペテロをイエス様は責められなかった。そうではなくて、「わたしの羊を飼いなさい」とペテロを前に向けて押し出された。ペテロに心の傷跡は残るが、イエス様の大きな愛に包まれて立ち直り、弟子として死に至るまで強く歩み抜いた。
結)私たちは主の前にどう生きるか?
・後年ペテロは「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ 3章 15節)と手紙に書く人になった。
序)「福音」とは待ち望んでいた良い報せ
・「福音(ユーアンゲリオン:良い知らせ)」はただの情報ではない。福音が届いたところでは世界が変わり、宴や祭りが開かれることになる。それゆえ「福音」には動詞形「福音する」がある。
1)貧しい人に「福音する」のが油注がれた者の使命
・ルカ 4 章 18 節は、油注がれた者(メシア)であるイエス様の使命を語る。
・ルカはこのユーアンゲリゾーを多用し、イエス様の働きと使徒たちの働きを同じ言葉で語る。(参考:使徒 5:42)
・聖霊という「油注がれた者」である私たちも、同じ使命に立っている。
・「貧しい人(プトーコイ)」は経済的困窮者を意味するが、当時の文脈ではそれ以上の内容をもつ。捕囚され、奴隷になっている者という意味。
⇒バビロン捕囚から物理的には帰還していたも、未だに帝国の奴隷であり、神に赦されていないと人々は感じながら生きていた。だから福音は「捕囚の終わり」としての解放を告げるものだった。
2)「貧しい人に福音する」の中身
・「捕らわれ人には解放を」…社会全体が刑務所状態だったユダヤ社会において「解放」=「赦し」とは、帝国の奴隷でも罪の奴隷でもない生き方へと人々を招く。罪の因果にし配される世界は断ち切られた!
・「目の見えない人」…文字通りの意味ももち、イエス様の働きは実際に多くの目の見えない人を癒した。そこには霊的な盲目状態からの癒しの象徴がこめられている。「福音する」ことによって神様がわかるようになる。
・「虐げられている人を自由の身とし」…「虐待された人」は世界の認識が歪んでしまう。安心安全を感じられないし、存在価値を否定されているので、どうにかして存在価値を見出さなくてはいけないともがく。けれども、そこで用いる方法は、決して満足できない方法ばかり。「福音する」とはそういう人を「自由の中に」一緒に連れて行くこと。
・「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」という祝いの時の別称。ヨベルは、一切の負債が帳消しになり、失敗のせいで失われたものが自分の手に返ってくる時。ヨベルの特別な犠牲の血により、この解放が 50 年に一度起こるのが旧約聖書の定め。
⇒イエス様の十字架の血が、本当のヨベルをもたらした。永遠の解放が私たちに与えられている。私たちの人生、いのちはもはや誰にも奪われない。
・ヨベルの祝いに続いて「仮庵の祭り」が続く。それは神の国の完成を意味する。今、私たちはヨベルから仮庵の祭りの間を生きている。
結)神の民こそ「福音する/される」必要がある
・私たちが福音を喜ぶとき、その喜びの輪が地域へと広がる。
序)「うめき」か「ぼやき」か
・人間は日々、内面において成長することができる。しかし停滞することもある。自分の人生を引き受けると現状打破を試みる「うめき」が、外部要因のせいにしていると「ぼやき」が多くなる。
・望ましくない出来事に直面するときも、一旦は落ち込むことがあっても成長することができる。
1)死に吞み込まれないために
・「もう齢なので(成長はしなくてもいい)」と言ってしまうなら、死を前にして、心が死に吞み込まれてしまっている。
・福音は、死を突破して生きる道を告げる。主イエスを信じる者は、主イエスと同じいのちを与えられ、よみがえりを待つ。今のいのち(肉体)がそのまま継続するわけではないが、連続性ももっている。
・よみがえりの希望は、愛する家族との再会の希望にとどまらず、今日を生きる私たちを成長に向けて励ますモチベーションである。
2)成長は自動的には起こらない
・Ⅱコリント 4:16「外なる人」=この身体のこと。「内なる人は日々新しくされている」とパウロは証しする。しかし、これは「クリスチャンなら誰でも」ではない。パウロは「あなたがたはどうか」と発破をかけている。
・「地上の住まいである幕屋(=テント)」=この身体のこと。このいのちの後に与えられる「よみがえりの身体」は「建物」と表現される。
・よみがえりの身体において罪からの解放は一斉に与えられるが、個性(成長の差)はなくならない。
3)成長のための努力(うめき)には報いがある
・Ⅱコリント 5:10「善であれ悪であれ…報いを受ける」とある。「悪」と訳されているが、積極的な悪ではなく「善」に至らない「普通」の意味。現状維持レベルのこと。パウロは私たちの成長の度合いに従って報いがあり、それが「よみがえりの身体」に反映されると教えている。
・「神が下さる『建物』」という表現には「建築中」のニュアンスがある。
・パウロが語るのは、肉体が朽ちて、衰えていくことに頓着しないで、その苦しさの中で、それをも成長の糧にして生きていくことである。
・「裸の状態」とは赤ん坊の姿でヨブ 1:21 を乗り越えた表現。内面の成長という宝は、次の世に持っていける。
結)死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために
・よみがえりの希望を、成長の力に変えて人生をまっとうするとき、神のいのちが証しされる。
・成長は人との比較ではない。自分の人生をどう生きるかが問われる。
序)心に賛美の火を
・勢いよく火をあげる焚火、赤々と熱を帯びる炭火、どちらにも魅力がある。自分の心にある主への賛美の熱はどんなだろうか。
1)主をほめたたえよ(1 節~4 節):にぎやかに、ほめ歌え
・「ハレルヤ」は「ハレル(ほめ歌う)」と「ヤー(主:ヤーハウェ)」が組み合わされた言葉
・詩篇 135篇は、過越の祭りの際に歌われた歌の一つだったと言われている。
・2 節では、特に「主の庭の中にいる人々」に向かって呼びかけられ、普段から主に使える者へのねぎらいの思いがこめられている。
・主をほめたたえることは、麗しく好ましいとなので、呼びかけられる。
・主はヤコブ(イスラエル)をご自分の宝として選ばれたから。
2)思い巡らす(5 節~18 節)
・麗しい主を知っている(=体験として、腹落ちして)「私」
・空を見上げ、その不思議さに感動しながら、礼拝する。(現在)
・8 節~イスラエルの具体的な歴史(出エジプト)を回顧する。(過去)
・人の手によって作り出された神々と、エジプトの真ん中にしるしと奇跡を送られた主との対比が鮮やかに描き出される。
・13 節~詩人の心は「未来」に向かう。これから先、子どもたち、孫たち、さらに先までも、いつくしみあわれみ導いてくださるという確信へ
3)主を祝福せよ(19 節~21 節)」しずかに、ほめ讃えよ
・19 節の「ほめたたえよ」は始まり「ほめたたえよ(ハーラル praise)」とは違う「バーラク bless」という言葉。
→静かに祈り心をもって賛美するイメージが多少強くなる。沈黙をも伴う賛美への招き
・主の大庭に集うすべての人々から、神殿の中庭に視点が移ったのち、主を恐れるすべての者たちへと、賛美の呼びかけが広げられる。
結)主への賛美心を携えて
・焚火のように賛美できる日も、賛美が消え入りそうになる日もある。
・私たちの心の火は消えることはないが、他の火と触れることで、再び赤々と燃えだす。共に集まる礼拝において、主の偉大さに触れ、主への賛美に触れて、再び熱くしていただく。この恵みに感謝して歩もう。
序)メッセージタイトルの悩み
・今回のタイトルに至るまで、いろいろなアイデアが出ては消えた。
1)「ざわつく弟子たち」
・エルサレムにはイエス様を敵視する人たちがおり、イエス様の不吉な発言もあって、弟子たちは「驚きと恐れ」の中にあった。
・「人の子」という言い回しは単に「人間」を指すことも「救い主」を指すこともできる曖昧な用語であり、受難、復活、昇天に関わる発言をイエス様は「わたし」を主語にして話されなかった。それで「人の子の受難」は弟子たちにとって仲間の誰かが犠牲になることを予期させた。
・「よみがえる」という動詞は「起き上がる」という意味が中心なので、死者の復活を連想することは簡単ではなかった。
・そういう中でヤコブとヨハネが神の国の No.2,3 の座を願い出て、さらに弟子たちは炎上する。彼らは自分が犠牲になることを逃れられる確約がほしかったのかもしれない。
2)「かみ合わない神の国」
・「杯(苦杯)」や「バプテスマ(大水に押し流され水没すること)」は、大きな苦しみを経験することを指す。イエス様としては、十字架(殉教)のことを意味していたが、ヤコブとヨハネが考えていたのは「仲間の死を乗り越えること」だった可能性が高い。
・事実、ヤコブとヨハネは最初の殉教者(ヤコブ)と兄弟を失う最初の者になる。しかし彼ら自身はそのことを微塵も理解していない。
・弟子たちの考える神の国は「誰が支配するか」に関心がある。イエスの弟子である自分たちならうまくできるというのが彼らの前提。
・イエス様の考える神の国は「どのように支配するのか」に関心があり「支配する」ことの意味を塗り替えることが目指されている。
・「横柄なふるまい」「権力をふるう」という動作に善悪の是非はない。
・イエス様は上下関係の上に立ち、思い通りに事を運ぶために強制力を発動するというシステムそのものを解体しようとされる。それが「仕える者」「しもべ」としての神の国の(革命的な)あり方である。
・民主的に決めるとしても、強制力を発動するなら神の国は遠ざかる。
3)「神の国は縁の下に」
・「そうであってはなりません」→「そうはなりません」、「仕える者になりなさい」→「仕える者になるだろう」というニュアンスである。
・イエス様は弟子たちに、神の国のあり方を強制するのではなく、自らやって見せ影響を与える。(これは「十のことば」も同じ。)
・イエス様は天におられると同時に、縁の下から支えてくださっている。
序)聖書と「食」のモチーフ
・聖書では約 1000 回、「食べる」という意味の動詞が使われている。
・聖書の「食べること」は「生きること」や「いのち」の象徴。
・聖餐式も教会において大切な意味がある。聖餐式の意味と希望を思いめぐらす。
1)教会で食べること:聖餐
・「わたしを覚えてこれを行いなさい」という主の命令に基づいて聖餐式が行われている。
・ルカ 22章では、イエス様は弟子たちを「使徒」と呼び、食卓が宣教の出発点であることが意識された。
・聖餐の言葉の前に「過越の食事」があり、聖餐は過越と深く結びついた意味を持つ。
2)過越の食事から聖餐式へ
・過越の食事はイスラエルの救いを記憶するためであり、イエス様はそれを弟子たちと共にすることを切に願った。
・十字架と復活によって過越の約束は成就し、新しい契約の食事「聖餐」へと更新された。
・聖餐はイエス様の救いの成就を覚える時である。当たり前ではなく、イエス様がともに食卓に着いておられることを覚えて。
3)聖餐から神の国の食卓へ
・イエス様の再臨によって神の国は完成し、私たちはイエス様とともに食卓を囲む。聖餐はその完成の希望を示す食事である。
・イエス様は私たちに神の国の王権を委ねてくださるという約束があり、神の国の食卓にはすべての民が招かれている。
・弟子たちや私たちの弱さにもかかわらず、イエス様は受け入れてくださり、食卓と王権を約束してくださっている。
・「食卓に着く者」ではなく「給仕する者」として生きることが、神の国の食卓に招かれた者の歩みである。
結)神の国の食卓を待ち望み、給仕する者として歩む
・聖餐を通して思い起こすのは、過去の十字架の贖いだけではなく、神の国の食卓にイエス様とともにつく希望。
・今ここで私たちに与えられている使命は、隣人に仕える「給仕する者」として生きること。
・神の国の食卓の栄光を望み見つつ、今週も「給仕する者」として、主と共に歩んでいきたい。
序)「旅」の比喩のポイント
・私たちの人生は「旅」であり私たちは「旅人・寄留者」であるが、それは「天国への旅」ではない。
・アブラハムは相続地を「所有者」としてではなく「旅人」として生きた。「はるか遠く(へブル 11:13)」は場所ではなく時間的な距離である。
・「天の〇〇」という表現は「人の手では届かない高み」を意味する。
1)旅を忘れやすい私たち
・「神の国はこの地上に実現する」ことだけが主張され「旅」が欠落すると、自分たちが「神の国を建てる」ことができるという錯覚に陥る。
・金持ちの青年は、土地をもち、そこで律法を行うことを「握りしめた」結果、旅を見失った信仰に陥っていた。
2)「神の国に入る」とはどういう意味か
・「神の国」=「天国」なら「入る」の意味はわかりやすいが、そうではない。「神の国に入る」とは「神の御心を実現していく状態に入る」こと。
・「針の穴」という名前の門がエルサレムにあったという解釈は事実無根。
・「神の国に入る」とは「神の国状態に至る」と言い換えることができる。
・「神の国を相続する(受け継ぐ)」というのは、神の国状態からもはや外れることがない状態になること(=永遠のいのち)である。
3)「神の国状態に至る」難しさ
・「富(財産とは違う言葉が使われている)」をもつと、富を守ることに心が向きやすく、神に信頼し、御心を受け止めることが妨げられやすい。
・「神の国が回復され、そこに入る人が正しい状態(義)に戻される」ことを弟子たちは「救い」と考えた。だから金持ちはその筆頭と見なされていた。しかしイエス様は弟子たち(当時の一般的期待)をひっくり返す。
・難しいが不可能ではないことに注意。イエス様のポイントは「神によって」可能になるということにある。
・ペテロが弟子の代表として自分たちが「手放してきたもの」を並べて「前のめり」に喜びを表現するが、イエス様の応答は謎めいている。
・「捨てる」と訳された言葉は「手放す(握りしめない)」の意味。積極的な遺棄ではない。これは旅人の姿勢。
・「手放した」弟子たちに百倍(誇張表現)が約束される。しかし「迫害とともに」である。そして「受けたもの」を再び「握る」可能性はある。エルサレム教会は A.D.70 年のエルサレム陥落ですべてを失う。
結)「究極の一歩手前の真剣さ」で生きる訓練への招き
・神に従い、その祝福を味わいながら、なお身軽な旅人であること!
序)「天国止まりの福音」ではわからないこと
・「何をしたら」という問いかけは正しい問いなのか。
・「持っている物をすべて売り払って」というのは普遍的か。
1)この男性はなぜ一人で走って来たのか?
・「永遠のいのちを受け継ぐには?」=「神の国を受け継ぐには?」であり、「天国に行くにはどうしたらいいか」ではない。
・「受け継ぐ」という言葉は土地所有に関する堅い言葉。(マタイ 5:5 参照)
・当時の成人男性は走らないから、よほどの緊急事態である。一定の資産家なのに同行者なしで、一人で来るということにも違和感がある。
→彼が所有していた土地(畑)に何かトラブルが起こり、土地を手放さなくてはいけない危機的状況が迫っていたと考えると説明できる。
・約束の地を所有し守っていくことは、信仰的な重要性をもっており、神の国の到来に貢献することだと考えられた。
→この男性の求めは「御国の到来にどうしたら用いられるか」であり、目下抱えているピンチを乗り切る方法を求めてイエスのもとに来たのである。
2)耳を疑うイエス様のことば
・約束の地で「十のことば」を実行するなら、神の国は現実になると旧約聖書は語る。それゆえ男性の問いとイエスの答えは当たり前のやりとり。
・「守ってきました」との自負が問題視されることもあるが、イエス様は彼を「いつくしんで(アガペー)」見ている。
・彼が守ろうと必死になっているものを手放すようにイエス様は言われた。
・「天に宝を持つ」とは「御国の到来に貢献できる」という意味。
→イエス様は「土地を守ることなしに、神の国に貢献することはできない」という信念を手放しても、御国に貢献できることを教えておられる。
・土地を守ることで、貧しい人たちを長期的に養える。土地を売ったら短期的に養えても続かない。しかしもっと長期に考えれば神様は土地を返してくださるお方である。土地は神のものである。
・「わたしについて来なさい」とは弟子としての正式な招き。手放した後の生活をイエス様が責任をもつと語っている。
3)神の国を受け継ぐ旅
・17 節「道に出ていかれると」は「旅に出ようとされると」と訳せる。この動詞の主語はイエス様だけ。十字架において、すべてを父の手に委ねて、いのちを投げ出し、神の国を受け継ぐ旅へとイエス様は踏み出す。そこにこの男性も招かれた。必要なのは「良い神」への信頼のみ。
結)「こうでなければ」を手放せば
・信仰人生は「旅」である。危機をチャンスに、大胆に、柔軟に従おう。
序)10 章までのマルコの福音書の流れ
・8 章 31 節から「受難予告」が始まり 10 章 45 節で結ばれるサンドイッチ構造であり、中心主題は「すべてを立て直す」ことで、そのために逆三角形の世界を目指すことが教えられ、受難が必須だと語られている。
1)出来事の背景にあること~「試そうとして」の意味~
・「ユダヤ地方とヨルダンの川向こう」とは、バプテスマのヨハネの活動場所で、ヘロデ・アンティパスが治めている領域。このヘロデは妻へロディアを離婚させて結婚していた。この経緯(6 章 17 節参照)が背景。
・この場所でパリサイ人たちが「離婚」の是非をめぐって論戦を仕掛ける。どちらを選んでも追い詰められるがイエスは知恵深く対応する。この物語の結論は 12 節ではなく 16 節(9 章のパターンと同じ)であることに注意。
2)イエスの教えの主題
・この箇所は「離婚について」ではなく「姦淫について」のイエスの教えである。パリサイ人たちの口車でミスリードされないように!
・9 節「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」は離婚の禁止ではなく、婚姻関係に第三者が入り込むことの禁止。「引き離す」は包括的な禁止命令ではなく、今すぐ中断せよという文法。
・議論の争点になる申命記 24 章は離婚を前提にしている。離婚は悲しいことであり、避ける努力をすべきだが起こり得ることである。
・「あなたがたの心が頑な」とは離婚当事者よりもパリサイ人たちを責めている。彼らの思考法が「頑なさ」の現れである。
・イエス様の御言葉引用は、創世記 1:27 と 2:24 だが大事な部分を敢えて引用していない。「男と女は神のかたち(=神の国のしるし)」であり、結婚・家庭生活において御国は特に現わされるもの。それゆえ姦淫は罪。
3)頑なさを諭されて
・この議論の中に、子どもたちが連れて来られるが、弟子たちによって排除される。知識を増し加えた大人が、知識の乏しい子どもをイエス様から遠ざけ、△を志向する世界にイエス様は怒りを発する。
・学びによって身に着ける力は「身勝手な都合」を実現する手段ではなく、次世代を祝福する御国のために用いるよう主イエスは教えられる。
・「子どものように」とは頑なな大人との相対的対比で語られている。
結)家族関係が△か▽か
・すべての家族に傷がある。互いの尊厳を守りながら、傷を分かち合い、祈り合い、癒されていくことが子どもたち(未来)のために必要である。
・主イエスが引用した創世記 2:24 はエペソ 5:31~32 でキリストと教会に適用される。ここに希望がある。子どものように主イエスに近づこう。
序)ヨハネの黙示録にある「28」
・イエス様を象徴する「子羊」が 28 回使われる。
・28=4(世界)×7(完全)で全世界を満たすという象徴数。
1)22 章の美しい光景の意味
・「まもなく彼方の流れの傍で」(教会福音讃美歌 336「川辺を歩めば」)で歌われるが、天国(あの世)の描写ではない。
・「もはや、のろわれるものが何もない」とは、以前には「のろわれるものがあった」ことを示唆する。この光景は地上の贖われた姿である。
・「いのちの水の川」は「神と子羊の御座(単数)」から出るゆえに聖霊の象徴である。一つの御座は神の国の中心を象徴し、ここに神、子羊、いのちの水(聖霊)という三者が関与する、三位一体が表現されている。
2)いのちの水で生かされる礼拝
・黙示録は、礼拝の濁り(偶像礼拝、教えの混乱)を問題にしている。いのちを奪う礼拝ではなく、いのちを与える礼拝に回復することが、世界の回復につながる。謙虚に礼拝の回復を続けていくことが重要。
・現代の教会に入り込んでいるのは「天国止まりの福音」。これが先鋭化するとグノーシス主義の現代版になる。これは異教との混交やカルトの温床になるし、教会の存在意義も曖昧になり、聖書理解を歪める。
・いのちの水は「都の大通り」を流れるとは、聖霊の恵みが公に開かれたものであることを示す。神との交わりをすべての人に開く努力が必要。
3)いのちの水からいのちの樹へ
・「いのちの樹」は聖霊によって生かされる人間の象徴である。詩篇 92:12
・神様から離れた人間は「草」に象徴される(イザヤ 40:6-8)。聖霊によって生かされるなら他者に永遠のいのちを与える(創世記 3:22)ことができるようになる。葉による癒しは、正気に戻すことである。
・黙示録の主題は教会共同体(22:16)であり、聖書は人間を個人と同時に共同体として「ひとり」と数えるゆえに、この樹は教会の象徴。
・この幻の下敷きはエゼキエル 47:12 で果樹は多様であることがわかる。
結)たんぽぽの樹を育もう
・3 節後半から動詞は未来形になり、神の国の完成の約束が描かれる。逆に言うと 1 節~3 節は現在形であり、私たちが関われる部分である。
序)健全な人生には個人と共同体のバランスが必要
・お金を媒介にせずとも助け合える共同体が子どもたちの育ちには必要
・野球というスポーツには、個人と共同体の両面が表され、私たちの人生の比喩となる真実が含まれている。
1)教会の礼拝は個人と共同体が共存する
・「私」という一人称で歌い、祈ることが周りに生きる「多くの者」へと影響を与える。
・礼拝は講演会ではない。賛美や祈り、信仰告白のパートにおいては、礼拝者が舞台の上にいて、神様が観客席にいる。
・「新しい歌」とは、歌う側の信仰が刷新され、同じ賛美をより深いレベルで歌うことができるようになることを指す。自分の人生を背負って歌う賛美の中に神は力強い臨在を現される。
2)詩人の証しから問いかけられること
・詩篇 40 篇 1 節の「切に主を待ち望んだ」が全体に響き渡る主題。
・私は今、ここまでの切実な求めをもって神様に向き合っているか。
・「待ち望む」とはただの受動的な態度ではなく、助けを求めて叫ぶことを含む。必ず助けが来ることを信じて、上を見上げて叫ぶ。
・私は今、どこにいるのか。滅びの穴、泥沼か。それとも巌の上か。
・足元に揺らぎがないと感じる時は、切実な思いをもって感謝と賛美をささげていく。それが次の危機への備えになる。
3)感謝と嘆きが繰り返される世界で
・人生において、危機と平安、感謝(歌)と嘆きが交互に訪れる。
・順調な時に、賛美と感謝をもって、歌いながら主の恵みとまことを心と共同体に刻んでいくことが、次のピンチを乗り切る力になる。
・危機に陥ると視野が狭くなるので、神様の数えきれないみわざを見失い、自分の罪の多さに目を奪われて絶望しそうになる。だからこそ平安の時に歌う歌が重要になる。感謝と賛美に支えられるからこそ、希望をもって嘆くことが可能になる。
結)歌って嘆いて近づこう
・私たちは歌と嘆きを繰り返す中で、主に近づいていく恵みをいただく。
・神に近づくなら、神に期待して大いなる挑戦ができるようになる。
序)「氷点」が示す「なくてはならぬもの」④
「おれにとって、なくてはならぬものとはなんだろう」(「氷点」階段)三浦綾子著「氷点」の第四の自殺者が示す「なくてはならぬもの」→将来への希望「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ 29:11)
1)人生の希望
「もし…療養している最中に、誰かが私に次のように預言したとしたらどうであったろう。「あなたの病気は治ります。そして、三十歳を過ぎてから、一人の男性が現れます。…五年目には、あなたはその人と結婚することでしょう。…それから五年後、一千枚の長編小説を書き、その作品が入選して、一千万円の懸賞金をもらうことでしょう。そして少なくとも七十歳までは生き、七十冊近い本を出すことになるでしょう」と。私はこれを聞いて腹を抱えて笑うか、くだらぬ冗談として聞き流したことであろう。 」(「明日のあなたへ」神の領分)
「神の書かれるシナリオと、あなたの書かれるシナリオとは異なるのです。」(同)
「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」(エペソ 3:20,21)
2)死後の希望
「母を失った信夫はどんな生涯を送ることだろう。…でも、いよいよとなれば、信夫のことは神さまにおまかせするより仕方がないかもしれない。…今は辛くても、きっとこのことも、結果としてはよいことであったという日が来る。神が生きておられる以上、信夫のことも、神が守って下さるにちがいない」(「塩狩峠」母)
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ記 2:20)
「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(Ⅱサムエル 7:12)
3)永遠の希望
「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがれる みはやすけし…わだしが死んで、一人とぼとぼ歩いていくんだども、なんも淋しくないのね。イエスさまの手さつかまって、イエスさまと一緒に、天の国さ行くからね。」(「母」山路越えて)
「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ 4:16,17)
「うれしかったなあ。多喜二に会える、多喜二に会える。うれしかったなあ。」(「母」山路越えて)
結)私達の確信と祈り
「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」(詩篇 138:8)
序)
・ヨナ書は短い物語ですが、予想外の展開と人間らしい主人公ヨナの姿が心を惹きつけます。嵐の海、暗く冷たい魚の腹の中――そんな極限の中で、ヨナは何を思ったのでしょうか。
1)
・神様の命令を聞いたヨナは、正反対の方向に逃げてしまいました。大嵐に巻き込まれ、海へ投げ込まれ、ついには大きな魚に飲み込まれる――そこからが神様との対話の始まりでした。
2)
・ヨナは放蕩息子の兄と似ています。『自分は正しい』という思いに縛られ、赦しや喜びよりも、自分の正義を守ろうとしました。その固い心は、やがて彼を孤独へと向かわせます。
・私たちも、自分の正義を強く握りしめる時があります。その結果、神様の導きに耳を閉ざし、周りとの関係を失い、気づけば暗く冷たい“魚の腹”のような孤独に沈んでしまうこともあるのです。
3)
・ヨナのような最善ではない祈りが、私たちの普段の祈りかもしれません。でもたとえそうであったとしても、神は傍に立って聞いてくださいます。
・それは、イエス様はヨナの話を引用され、この時のヨナの姿をご自分の十字架の死と重ね合わされたからです。イエス様は私たちの孤独や言い訳をすべて背負い、十字架の死と“よみ”にまで降られたからです。
結)
・放蕩息子の兄は、父に宥められた後で祝宴に参加したでしょうか?ヨナは、ヨナ書で書かれている話の後、どうしたと想像しますか?
・教会は、赦しと喜びのパーティーが広がる場所です。今は納得できなくても、この交わりの中で私たちの祈りは少しずつ変えられていきます。
序)誰が何を「思い起こすため」なのか
・詩篇 70 篇は 71 篇の導入として語られていると考えることができる。70 篇の表題には「記念のために」ということばがあり、「思い起こさせるために」ともヘブル語で訳すことができる。それでは、「誰が何を思い起こすために」この詩篇 70 篇は書かれたのか。
1)神への叫び
・「神よ」「主よ」という呼びかけの違いは、ここでは、この世界のすべてを支配する全能者としての「神」という名と、私たちを助けてくださる方である個人的な関係としての「主」という名前で呼び分けている。
・詩篇71:5.17をみると、若い頃を思い出していることから、いい大人だったのではと考えられる。そして、いい大人だった詩人は切迫した緊張状態の中、恐怖を感じ焦りを経験し、全能者でありわたしたちを憐んで助けてくださる主に助けを必死に求めた。
2)神に信頼する共同体
・3 節には詩人のいのちを探し、滅びを求めている敵たちについて書かれ、4 節では 3 節までの敵と神を信頼する共同体が対比されている。
・1~3 節までは「神様・私・敵」だけ見えていたが、4 節には「あなたを慕い求める人たち」とあり、神に信頼する共同体が自分には与えられていることを思い起こした。
3)神を知ることは、自分を知ること
・詩人は、主権者である神を賛美する中で、神の前に出たとき自分がどれだけ小さい者なのか自分の小ささ貧しさに気づいた。
・宗教改革者のカルヴァン「神を知るということは自分を知ることである。」⇒神とはどういう方か見えたとき、私たちは自分がいかに小さく、助けを必要とする存在なのかを知る。真の自分を知るとき神の主権がどのようなものかも知ることになる。
結)苦しみの中なぜ喜ぶことができるのか
・神の主権の中で、神の共同体が与えられていることを思い起こすとき、苦しみの中でも私たちは喜びと希望を見出すことができる。
序)感謝と嘆きに挟まれて
・個人と共同体の歩みの交差点である礼拝で、人生を背負って歌う感謝の歌(新しい歌)が嘆きの日々を乗り越えていく力になる。
・感謝と嘆きに挟まれて「巻物の書」「みおしえ」を聞くのが礼拝。
1)「いけにえや穀物のささげ物」の位置づけ
・旧約の礼拝は「ささげ物」中心で、新約は「みことば」中心という表現は不適当である。みことばを聞くことは、いけにえやささげ物で交換・代替されるものではなかった。(Ⅰサムエル 15:22 参照)
・旧約時代、いけにえなしに神に近づくことはできなかった。いけにえは自分が聖なる神の前に近づき難い者だという自覚の表現である。(詩篇51:17 参照)神に近づいて、神に聞くことが求められている。
・新約において神に近づくためのいけにえは不要。なぜなら、イエス様が完全ないけにえとして永遠にささげられたから。むしろ、いけにえを用意してはいけなくなった。イエス様を信じるとは、聖なる神に近づく基準を満たしていないことを知りつつ、なお大胆に神に近づくこと。
2)神が求められること=神のニーズ
・「いけにえ(レビ 3:1)」「穀物のささげ物(同 2:1))」「全焼のささげ物(同 1:3)」「罪のきよめのささげ物(同 4:3)」は、神に近づくための「道」であり、旧約時代の人間のためのもの。
・神には物質的なニーズはない。神のニーズは人格関係的なものである。神に愛された人が神を愛し、共に生き、栄光を分かち合いたい。
・私たちが神に聞き従う時、神は満たされる(私たちは聖霊に満たされる)。それが可能になるように「耳を掘って(開いて)」くださる。
・「耳が開かれる」とき御言葉が「自分のためのことば」として聞ける。これを神学のことばでは「聖霊の照明」と呼んでいる。
・「耳が開かれる」とき「みこころを行うことを喜びとする」態度が生まれる。週ごとの礼拝で、みおしえが「内臓」に刻まれていく。
結)「みおしえ」がもたらす神の国
・「みおしえ」=トーラー(=「十のことば」がその核心)であり、神の国を創造することばである。ダビデ王家から、教会という神の王族へ。
・旧約時代、祭司は毎日礼拝し、王族は週ごとの礼拝が理想とされ、民は年に三度の礼拝に招かれた。私たちが継承しているのは王族の礼拝。
序)律法は、神の国を生み出すことばである
・律法は、堕落した世界にもう一度、神の国を生み出すための「ことば」としてモーセを通して与えられ、イエス様によって体現され、完成した(マタイ 5:17)ものであり、その中核に「十のことば」がある。
1)「十誡」か「十のことば」か
・文語訳聖書から十誡という訳語が用いられ、口語訳、共同訳に引き継がれているが、仏教用語を借用した可能性が高い。
・仏教の十戒は、出家した人がこれを守ることで悟りを開き、よりよい来世に至るためのもの。聖書の十誡がと同じ機能をもつと考えてしまうと「行いによる救い」になるし、そこでいう「救い」も来世的になる。
・聖書の関心は、来世ではなく現世にある。「いのちに入る」=「神の国に入る」という福音書の表現は、申命記 4:1 に出処がある。約束の地で律法を実行して、幸せになることを「いのちに入る」と言っている。
・「十(エセル)」には「共同体を形づくる」という語義があり、それが「十のことば」の所以。戒めの数がぴったり 10 かどうかも関係ない。
2)新約時代の律法の学び方
・「十のことば」を根本原則として旧約聖書には多くの「掟と定め(ルールと制度)」がある。これは当時のイスラエルが約束の地で実行することが前提になっている。新約では、約束の地が全世界に広がっている。
・マタイの福音書 28 章 18~20 節は、申命記を普遍的に言い直している。
・特定の時代と文化の中で生まれた律法を、別の時代と文化で実行するには本質と目的を理解して、ルールや制度に隠された知恵を見出し実行する必要がある。本質は愛(ガラテヤ 5:14)で、目的は自由(ヤコブ 1:25)
・旧約においては、贖いの血は動物だったので効力が弱く、イスラエル限定であり、儀式を繰り返す必要があった。しかしイエス様の血は効力が最大であるので全世界に神の国は広がり、儀式はもはや不要になった。
3)私たちは律法を行うことができるのか
・5 節の「見なさい」は、神に逆らう古い世代は滅び、神様が新しい世代を起こし、彼らが約束の地に入るという事実。律法の前に、滅ぶべきものは滅び、そこに新しいいのちが始まる。
・これが私たちの内側で起こる変化の比喩である。生まれながらの努力では律法は行えないが、キリストと共に生きることにより行える。
結)「律法を守る」とは
・「守る(シャマール)」は観察し、見張り、見守るという意味である。
・御言葉を理解し、自分の心を見張り、新しい思いを見守り育てるなら、私たちは「十のことば」を体現し、神の国を創造することばとなる。
序)言葉を理解する基本と例外
・言葉は文脈の中で理解する。諺(ことわざ)の類は少し例外であるが、社会の文脈の中で意味を成す。
1)マルコ 9 章後半の大きな文脈
・33 節で「誰が一番偉いか」という議論があり「誰でも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者に」と諭された。
・38 節でヨハネは要らない派閥意識を持ち出して叱られる。
・42節は「誰が一番偉いか(△)」にこだわり続ける態度の問題性が話題
・「誰が一番偉いか」という議論を放っておくと平和が壊される。
2)「小さい者たちをつまずかせる」の意味
・42 節は 41 節との対比である。「つまずかせる」とは「誰が一番偉いか」という△の生き方に人を巻き込むこと。
・「小さい者」と言われ「子ども」と言われていない。これは「偉い」の対義語。イエス様を信じて▽に生きようとしている者を指す。
・成長や競争自体が否定されているわけではない。強さは仕えるために。
・「大きな石臼を~」はギリシア語の文法の中で最も可能性の低い条件文であり、比較対象は「ゲヘナに投げ込まれる」より良いと言っている。
・石臼は、船の安定のために船底に置かれていた錘のこと。
3)「ゲヘナに投げ込まれる」の意味
・「手(3:5)」「足(2:11)」「目(8:25)」はマルコの福音書の中でイエス様が救われ、癒された部位である。それは肉体的癒しと共に、霊的意味をもっていた。このイエス様の救いの結果が、△レースを促進することになるなら捨ててしまえという強烈な皮肉になっている。
・「ゲヘナ」とは①エルサレム南西部にある谷「ヒノムの谷」のこと②そこでエルサレムのごみの焼却処理がされていた③ごみ処理場になる前は「子どもを火にくぐらせる」非人道的な宗教儀式の場であった(Ⅱ歴代33:6)④これがバビロン捕囚を招き、エルサレム陥落の際、戦死者がこの谷に投げ込まれた→「ゲヘナに投げ込まれる」とは、人の尊厳が奪われ、モノ同然に焼き捨てられる戦時下に起こる最悪の状態を指す。
結)ゲヘナではなく平和をもたらすことは可能である!
・「火によって塩気を」の「火」はゲヘナからの連想だが the に相当する定冠詞がないのでゲヘナの火ではない。諺のようなもので、具体的には「イエス様の言葉(熱い心から出る言葉)」の意味。塩気は、悔い改め(方向転換)によって▽に向かう奉仕の生き方。
・「ゲヘナ」を「地獄」と訳す翻訳がある。戦争犠牲者がごみ処理場に投げ込まれる世界はまさに地獄。死後の霊的な刑罰の場の意味ではない。
序)「すべてを立て直す福音」から「伝道」を考え直す
・イエス様を信じると義と認められる(神との関係の正常化)のは「逆三角形」を生きるためのどんな境遇にも揺らがない土台を得ること。
・この土台から来る霊的力を現実化することで、隣人のためにリスク(十字架)を負える人格になることがキリスト信仰者の成長目標であり、御言葉と祈り、教会の交わりによって達成される。
・世界の「立て直し」に取り組んでいるのはキリスト信仰者だけではない。そういう人たちをどう考えたらよいか。
1)叱られるヨハネ~ポイント稼ぎは止めなくてはいけない~
・38 節以降も、弟子の中で「誰が一番偉いか」の議論の中にある。まだヨハネはイエスの道を悟っていない。弟子にならずに悪霊を追放する人を制止したことで「ポイント」がもらえると考えたが見当違いだった。
・「あなたの名によって」は「名を唱えて」ではない。まるでイエス様のように悪霊を追放しているという意味。「悪霊追放」は神の国のしるしであった。神の力はイエスの弟子であるかどうかに関係なく及ぶ。
・イエスの弟子(クリスチャン)でなくても「立て直し」に生きている人をイエス様は「味方」だと認めておられる。
2)「信仰」の軸と「立て直し」の軸で考える~整理のために~
・イエス様の発言からすると「弟子」「弟子でない」という二分法ではなく「立て直し」に向かっているか否か(△か▽か)という軸を加えた四分法で考える必要がある。
・伝道を進めるためには、弟子である者が▽志向に生きていないといけない。
・家族伝道を考える場合にも、言葉の前に「立て直し」や家族の潤い(箴言 11:25)のために生きることが求められる。
3)救いはなくても「報い」がある
・言葉の伝道ではなく、立て直しに一生懸命であるなら、その人に「一杯の水(最高のおもてなしの一つ)」を与える人には報いがある(中身は不明だが、お委ねしよう)とイエス様は断言されている。
・私たちがイエス様の生き方を受肉させ、隣人が同じものを求めて来たなら、言葉でイエス様を伝えよう。
結)他人を手段にするのではなく、自らが手段になるように
・与えられた救いを最大限活用し、隣人の祝福になることを目指そう。
序)ゼカリヤ書の時代背景
・バビロン捕囚からの帰還後、神殿再建の中断によって、民の信仰が冷えゆく時代。ゼカリヤは回復と希望の幻を通して、神の民の再生を語る。
・3 章の幻は大祭司ヨシュアが主によって「脱がされ、着せられ、かぶらされる」出来事。
1)ゼカリヤの幻:ヨシュアが脱がされ、着せられ、かぶらされる
・法廷の場で、ヨシュアは告発者サタンに責められるが、主がサタンをとがめ、ヨシュアを弁護する。
・火から取り出された燃えさし=神に選ばれ、さばきから救われた者。
・汚れた服(背き)を脱がされ、大祭司としての礼服(礼拝の務め)を着せられ、ターバンをかぶらせられる。
2)私たちが脱がされ、着せられ、かぶらせられること
・イザヤ 61 章、エペソ 4 章とも響きあう「衣を脱ぎ、衣を着る」救いのしるし。
・キリストによって罪が脱がされ、義と聖の新しい衣が着せられる。
・動詞は「中動態」=自らの意志によって脱ぎ、着る。「アオリスト」=主イエスによる一度限りの決定的な救い。
・キリスト者は、主の愛に主体的に応答し、繰り返し思い出しながら「キリストを着続ける」。
・逆風の中でも、キリストという衣は私たちを守り、温めてくれる。
3)私たちに栄冠がかぶらせられること
・ヨシュアがかぶったターバン=大祭司の冠。これは私たちにも与えられている。
・Ⅱテモテ 4:8、黙示録 2:10「義の栄冠」「いのちの冠」=主の前に立つ特権としての印。
・終末だけでなく、主の日である今日にも与えられている。
・告発者サタンの声に押しつぶされそうになる日常にも、キリストの十字架の救いが働いている。
・今ここで礼拝をささげる私たちは、すでに主の栄冠をいただいた者。
結)脱がされ、着せられ、かぶらせられた者として生きる
・私たちは、「自分だけが救われるため」ではなく、人々を神に立ち返らせるために衣を着せられている。
・私たちもまた、新しい神殿再建の働き人。礼拝を整え、人々が主に応答できるように仕えていく。
・主の恵みに応答し、主の前に出る特権に生きる者として、今週も証ししていきたい。
序)イエスの道を悟れない弟子たち
・「すべてを立て直す」神の計画は、人間の救いを中心とし、受難によって達成される。イエスの受難だけでなく、弟子の受難も伴う。
・主イエスの受難の予告は 3 回記されているが、もっと繰り返し教えられていた。しかし弟子たちは理解できなかった。
1)神の立て直しを拒否する「人々」
・弟子たちにとって、神の立て直しを拒否するのはローマ帝国を筆頭にした異邦人だと考えていたが、イエスより強いとは思えなかった。
・2 回目の受難予告では「人々の手に渡される」とある。この中に弟子たち自身も入ってくる。それは彼らの中に、イエスを引き渡す原因になる心→「一番偉くなりたい」があったから。これこそ世界を歪めるもの。
・「偉い」=「大きい」=「すごい」:これは評価や承認に関わること
・問題は、評価や承認ではなく「比較(結果的に「一番」を目指すこと)」
・比較評価を求める「比較地獄」が、世界を歪め、人を不幸にしている。
・比較地獄を象徴化すると△になる。頂点は「神の座」であり、ピラミッドやバベルの塔(偽りの神殿)は、この象徴を具象化している。
・弟子たちは、△でしか世界を考えられなかった。教会も同じ過ちに陥ることがあり得る。真の神殿はフラットであり、壁も階段もない。
2)イエス様の知恵ある教え
・「腰を下ろす」のは、正式な教えを行う時のラビ(教師)の所作
・「偉い」→「先頭(一番)」と言い換える。切磋琢磨すること(向上心)は悪いことではない。「先頭」という場合、上下ではなく前後になる。
・何が「前」で「後ろ」なのかという軸を主イエスはひっくり返す。「先頭」が「後になる」とはどちらを前にするかは神が決めるということ。どれだけの人に仕えたか(後ろに回れたか)が「前」を決める。
・フラットを目指すため▽を志向するのがイエス流。
3)子どもを「もてなす」ことの意味
・「受け入れる」という言葉は「もてなす」「接待する」という意味。
・△の世界では、自分の上にいる人を「受け入れる」が、主イエスはピラミッドの底辺にいる「子どもたち(見返りのない存在)」を接待するよう教える。これも▽を目指すこと。「皆に仕える」ことの初めの一歩が「子どもひとり」を受け入れることである。
・アダムから人類が始まったなら、一人の子どもは未来の人類の長。子どもをもてなすことは、未来の人類をもてなすこと=神を受け入れること
結)立て直しの道しるべ
・▽の生き方が弟子の道。その道しるべが「子どもを受け入れること」