5月15日は沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された「本土復帰の日」です。沖縄の歴史と文化を振り返り、平和な未来を考える日として、沖縄県民にとって特別な意味を持つ日です。1952年のサンフランシスコ講和条約で沖縄は本土から切り離され、米軍の統治下におかれました。その後、沖縄県民の長年の努力と運動を経て、1972年(昭和47年)5月15日沖縄の施政権が米国から日本に移され、沖縄は本土に復帰しました。令和7年5月15日を持つて沖縄の本土復帰からすでに53年が経ちました。しかしながら、現在の沖縄が置かれている状況は、非常に難しい問題を多く抱えています。沖縄戦から今後の世界はどうあるべきかを、少しでも考えていただければ幸いです。#沖縄戦 #沖縄の戦い #菊水作戦 #航空総攻撃 #太平洋戦争 #戦後80年 #本土復帰の日
戦後80周年企画沖縄戦(沖縄の戦い)第1話は菊水4~6号作戦 第4次~7次航空総攻撃までをお送りします
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戦後80周年企画沖縄戦(沖縄の戦い)第1話は菊水1~3号作戦 第1次~3次航空総攻撃までをお送りします#沖縄戦 #沖縄の戦い #菊水作戦 #航空総攻撃 #太平洋戦争 #戦後80年
海軍第27航空戦隊司令官・市丸少将は、
遺書としてアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトに宛てた
『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、
これをハワイ生まれの日系二世、三上弘文兵曹に英訳させ、
日本語、英語、各一通を作り、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して
これを村上治重大尉に渡しました
村上大尉は最後の突撃の際に、これを懐中に抱いて出撃し戦死
『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、
7月11日、アメリカで新聞に掲載されます
それは、日米戦争の責任の一端はアメリカにあるとし、
ファシズムの打倒を掲げる連合国の、大義名分の矛盾を突くものでした
「卿等(けいら)ノ善戦ニヨリ、
克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、
如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」
ルーズベルトは4月12日に死去したため、
『ルーズベルトニ与フル書』は、本人が目にすることはありませんでした
なお、公式な戦死日は、訣別の電報が打電された3月17日とされていますが、
市丸少将の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されていません
栗林兵団長らと出撃した、三月二十六日の戦闘では生き残り、
他の生き残り兵40余名と共に、後日再突撃し戦死したと言われています
市丸少将が所有していた軍刀は米兵が拾い、
ニュージャージー州の骨董店に並べられていましたが、
市丸少将の遺品であることが判明し、NHKのテレビ番組を通じ、遺族の元へ戻っています
昭和二十年三月一日は、硫黄島における戦闘で、最も奇妙な状況が生まれた1日でした米軍側の資料、モリソン米海軍戦史から、その状況を再現してみました米海軍駆逐艦「デリー」は、硫黄島北西海域で、日本の潜水艦をいったん捕捉したあと、それを見失った僚艦の代わりに、午前二時十五分、日本の潜水艦を必死に探し求めていました午前2時45分、1機の雷撃機が硫黄島の最北端にある北ノ岬方向から、超低空で飛来し、駆逐艦「デリー」に向け1,000m手前から魚雷を投下しましたそれより少し前、この雷撃機は米側のレーダーに捕捉されていたので、警戒していたため艦長はその魚雷を確認し、何とか回避することに成功しますこの雷撃機は父島から飛来したのではと言われていますが、明確な記録は残っていません
太平洋戦争中に日本海軍が編成した爆装航空機による体当たり攻撃部隊を神風特別攻撃隊と称し、昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃しました当時の米国報道では、飛行機で目標物に操縦者もろとも突入する攻撃を神風攻撃(kamikaze attack)と呼んでいました最近ではカミカゼを、向こう見ず、自殺的、無鉄砲、無謀、という意味に使われたりもします
第2話 第2御盾攻撃隊
台湾沖航空戦で大きく損耗した海軍航空隊は、台湾・沖縄方面に兵力を集中するべく、2月初旬、小笠原方面は基本的に支援しない方針を固めますこの決定が後に辛酸を極める沖縄戦や、地獄絵図と化す原爆投下へつながるとは、この時はだれも想像できなかったでしょう
第1話 海軍摺鉢山砲台誤発射事件
1941年12月8日 珠湾攻撃に参加した航空機搭乗員たちが 後日その本音を語りました世界に永遠の平和を・・・
YouTubeのフォロワーが伸びない悩み
Podcastのアップロード方法思案中
Podcastが今 No.71
昨夜気付いたこと
1970年代が一番良い時代だったこと
自分もだけど
たぶん近年では日本が一番平和だった時代かもしれない
ボクのPodcastも70番代は楽しくいこうと思う
前回は第一カートランドでの思い出 今回は八日市カートランドの思い出です
話をしだすとふといろんなことを次々思い出しました
八日市カートランドってスケートリンクの跡だったみたい
今はコストコができてるようです
政治活動と関係ないようなことを言っているが
大いに関係する話だ
手取りが増えたら何やってもいいのか?
信頼できない男に政治を任せるわけにはいかない
女性軽視もはなはだしい
連合の芳野氏はもっとはっきり言うべきだ
No.68は車中ですが早朝撮影です
忘れかけていた嫌な出来事がまた蒸し返される
こいつをみな山に捨てに行こう!
また明日の夜から普通に戻ります
人知れず頑張った男たち
せめてボクの頭に蘇った記憶だけでも話しておこう
トヨタスピードランド https://ameblo.jp/team-regolith/entry-11920159738.html
このロングストレートでは亜久里君のパリラSSSよりボクがチューニングしたヤマハの方が速かった
Wikipediaで初めて知った鈴木亜久里の生い立ち(抜粋)
父・正士(1936-2011)は神戸生まれで愛媛県新居浜市、千葉県市川市で育ち、習志野市の東邦大学付属東邦高等学校卒業後、日本大学芸術学部で演劇を学び、日大応援団長も務めたのち、ホンダ航空で整備に携わった。レーサーの浮谷東次郎とも親交があり、浮谷から教わったレーシングカートの普及に携わることになる。1973年にカートショップ「ビック」を設立し、日本自動車連盟のカート委員も務めた。また、生沢徹や本田博俊も日本大学の同窓生であり、学生結婚で生まれた亜久里は、博俊の父である本田宗一郎に可愛がられた。
カート時代
1978年、1981年に全日本カート選手権A2クラスのチャンピオンに輝く。
とあったので、ボクが一戦交えたのは1978年だと思う
ヤマハとカートの歩みより抜粋
1978
RC100A(KT100A)でヤマハ初のロータリーバルブエンジン搭載発売。
JKGPにA・セナ出場(6位)。
この年のJKGP(ジャパンカートグランプリ)にエイトン・センナ・ダ・シルバの名でセナが出場していた
ボクも出場権は持っていたのだか遠いので行かなかった
今から考えると残念なことをした
ちなみに亜久里君とセナは同い年だったようだ
前々回のミッションカートでお話したように
二輪に移行する前に短期間ですがレーシングカートに乗ってました
その時期に全日本選手権(豊田スピードランド)へ出場したときの思い出です
2位でもよかったのに、その時の私にはそれは許せない事でした
若かったというか、先の計算ができないバカでした
調べてみたら亜久里君は7つ、利男君は2つ下でした 年男君のヨーロッパ帰りとはF3だったようです
「とよの山遊び」とよさんのカレンダーが届きました
12月中旬ぐらいって思っていたのでビックリ
予想通り写真が最高です
来年はこのカレンダーのように最高の1年になってほしい
※「とよの山遊び」のとよさん制作2025年壁掛け型カレンダーの開封動画
https://www.youtube.com/watch?v=9x4usuubP7I
そしてレース昔話は
YRSが2輪に移行した理由を話します
鈴鹿1000kmから何年か過ぎての出来事
星野さんにとっては記憶に残ることもないチープな出来事
でもボクにとっては大切な思い出
星野さんが「花輪社長が直接メンテすることなんてめったにないよ!」っておっしゃってました
ルマン商会の花輪社長
とっても優しい良い方でした
鈴鹿1000kmは1966年より開催されていて、私が出場した時代では日本の自動車レース最大のビッグイベントでした
スタート直後の混乱に乗じて前に出た私は日産大森のチェリーX1Rを130Rでインからかわし最終たちあがりまでポジションをキープ
一瞬だけでも星野さんの前に出れたのは私にとって勲章のような忘れられない思い出です