
海軍第27航空戦隊司令官・市丸少将は、
遺書としてアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトに宛てた
『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、
これをハワイ生まれの日系二世、三上弘文兵曹に英訳させ、
日本語、英語、各一通を作り、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して
これを村上治重大尉に渡しました
村上大尉は最後の突撃の際に、これを懐中に抱いて出撃し戦死
『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、
7月11日、アメリカで新聞に掲載されます
それは、日米戦争の責任の一端はアメリカにあるとし、
ファシズムの打倒を掲げる連合国の、大義名分の矛盾を突くものでした
「卿等(けいら)ノ善戦ニヨリ、
克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、
如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」
ルーズベルトは4月12日に死去したため、
『ルーズベルトニ与フル書』は、本人が目にすることはありませんでした
なお、公式な戦死日は、訣別の電報が打電された3月17日とされていますが、
市丸少将の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されていません
栗林兵団長らと出撃した、三月二十六日の戦闘では生き残り、
他の生き残り兵40余名と共に、後日再突撃し戦死したと言われています
市丸少将が所有していた軍刀は米兵が拾い、
ニュージャージー州の骨董店に並べられていましたが、
市丸少将の遺品であることが判明し、NHKのテレビ番組を通じ、遺族の元へ戻っています