9月に仕事を辞めて、「地域おこし協力隊」として、移住・定住の分野を担当している。町の魅力をどう伝えていくかを模索しながら、役場の一角で働く日々。立場は委託の個人事業主だけど、町の人から見れば役場の職員。元々この町で育ったこともあり、「○○地区出身なんです」と話すだけで、初対面でもすぐ打ち解けられるのがありがたい。
東京でのITの仕事は正直、肌に合わなかった。人と関わる時間が少なすぎて、息が詰まっていたと思う。今は地域の人と話す時間が多くて、それだけで日々が少し明るい。まだ始まって1か月も経っていないけれど、3年の任期をどう過ごすかを考えながら、穏やかに走り出している。
さて、本題の映画の話。引っ越して一番ショックだったのは、映画館が遠いこと。東京にいた頃は池袋や東武練馬のイオンシネマに気軽に行けて、思い立ったらその日の夜に映画を観に行く生活だった。でも今は車で15キロ先のイオンモールまで行かないと映画が観られない。それでも観たい作品があれば行く。交通の不便さに負けてたまるかと思う。
今回観たのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワンバトル・アフター・アナザー』。ディカプリオが演じるダメ親父が娘を救うために奔走する話で、笑えるし、スリルもあるし、何より演出がキレてる。ポール・トーマス・アンダーソン健在。点数をつけるなら95〜96点。今年一番の作品といってもいい。
その前に観た『オリバーな犬』がどうにも消化不良だったから、その反動もあって「これだよこれ!」という満足感。やっぱり、配信じゃなくて劇場で観るべき映画ってある。ディカプリオの“冴えない格好悪さ”が最高で、最後は手に汗握った。
群馬に戻ってきてからは、週末のイベントにも積極的に参加している。地域の運動会に出たり、町のイベントに顔を出したり。気づけば、映画を観る時間は減ったけれど、その代わりに人と会って話す時間が増えた。
静かな町で、映画と人のあいだを行ったり来たりするような生活。新しい暮らしは、ゆっくりだけど確実に形になってきている。次はどんな映画を、どんな道を走って観に行こうか。
久しぶりに録音ボタンを押した。前回は「仕事、辞めました」という報告と、胃の底に沈んでいたものをそのまま吐き出しただけの、我ながら黒歴史めいた放送。そこから少し時間がたった今、私は九月いっぱいの“名実ともに無職”。八月分の給料は入るけれど、十月に九月分は振り込まれない――この現実は、家計簿の数字より先に体温を下げる。副業の話がゼロではない。前職のツテで細い案件がぽつりぽつりと落ちてくるし、破格の低予算でホームページを作る仕事もある。春にクラウドソーシングへ登録して、いつでも飛び出せるよう弾を込めた自分が、数か月遅れで受け取った小さな果実だ。納期は来年一月までで「急がないので、できる範囲で」と言われると、ありがたい反面、気持ちにブレーキがかかる。忙殺されない生活は甘い。気づけば昼寝、気づけば夕方、気づけば「今日は何をしたっけ?」と天井に問うている。
とはいえ、ただ怠けていたわけでもない。群馬に拠点を移す準備で物件を見て、自動車の購入で悩み、引っ越し屋の見積もりを並べた。働いていた頃の張り詰めた神経はすっかりほどけて、時間が妙に丸い。九月も後半、さすがに尻に火がついた。来週には荷造りが本格化する。配信も伸ばし伸ばしにしてきたが、きょうはやる。ええ、やります。というわけで、最近観た二本――『8番出口』と『バード ここから羽ばたく』――の話をしようと思う。
まず『8番出口』。公開前から風が強かった作品だ。尺は九十五分と手頃、話題性は満点、そして“仕掛け”が効いている。ゲームが発火点になって映画へ燃え移る、この導火線の引き方はやっぱりうまい。宣伝も含めて、観たくさせる術に長けている人たちが作っているのが肌でわかる。私が映画館に足を運んだのは平日の午後、学校が休みだったのか子どもが多く、私の後ろの席の小さな足がリズムよく私の背もたれにメトロノームを刻む。注意するほどではないが、静かな場面では存在感がある。映画の感想は、少しだけこの物理的な振動に影響されているかもしれない。
内容は、“どこかから出られない”装置を通して主人公の内面に降りていくタイプの物語だ。箱庭療法めいたセットの中で、現代社会の不安と私的な恐れ――家族、誕生、責任――が、じわりじわりと形をとって現れる。新しいかと言われれば、そうでもない。同種の系譜は古今東西にあり、密室や反復の構造、現実と悪夢の継ぎ目、ジャンプスケアの配置……道具立てはよく磨かれているが目新しさで勝負しているわけではない。むしろ“分かりやすく怖がらせる”“分かりやすく納得させる”という方向に針を振った選択が、幅広い観客に届き、口コミのエンジンを回しているのだと思う。
俳優の佇まいはよかった。特に“歩く”こと自体が役割になっている人物の出し方は、舞台の人間味と映画のレンズの距離がうまく噛み合っていて、画面の奥行きを作っていた。とはいえ、私は熱狂の輪にまでは入れなかった。構造が見えるたび、先回りしてしまう。驚かされる瞬間の多くが“音”や“編集の切り返し”に依存していて、恐怖そのものがこちらの体内から湧き出るというより、外から肩を叩かれてビクッとする感触に近い。それはそれで娯楽として機能するのだけれど、観終わったあとに胸腔に残る余韻は薄い。うまい。ただし、深くは刺さらない。そんな印象だ。
一方、『バード ここから羽ばたく』は、観る前から少し肩入れしていた作品だ。前売りを買って公開を待ったし、予告の手触りから「これは好きな種類の映画だ」と予感していた。結果、予感はだいたい当たった。舞台は社会の縁に追いやられた家族の生活圏。親は不在か機能不全、酒と疲れが台所のすみで固まり、子どもたちは大人になる前から“大人の重さ”を肩にのせられている。ここまで書くと、永久に続く負の連鎖の記録に見えるかもしれない。けれどこの映画は、そこに“信じたくなる偶然”と“やわらかな幻想”をひとさじ混ぜる。題名の「バード」は鳥ではなく人の名だが、働きは鳥に近い。吹きだまりのような路地に、風穴をあける。現実は何も解決しない。行政の制度が魔法のように降りてくるわけでもない。けれど、顔を上げて前方を見られるようになる――そのきっかけを、ひとりの他者が運んでくる。救いを約束しない救い。私はそこに誠実さを感じた。
人物造形も安易な加害/被害の二項対立に落ちない。たとえば父親は稼げないし、判断を誤るし、頼りない。けれど暴力を振るう“ステレオタイプの父”でもない。子を思う不器用さが随所に滲んで、憎み切れない。主人公の少女は十二歳、身体の変化に戸惑いながら、家計や弟の面倒といった“生存の段取り”を覚えていく。その過程を、カメラは煽らず、突き放しもせず、一定の距離を保って見守る。時折、現実の縁がほどけ、ささやかなファンタジーが入り込む。その縫い目が実にやさしい。破れているからやさしいのではなく、破れたものを縫おうとしているから、やさしい。
映画館という場そのものについても、一言だけ文句を。新宿の某館、予告編のあとに一般企業の広告が長々と続いた。映画の文脈の外からズカズカ入ってくる映像音響は、観客の集中を乱す。広告で収益を上げねばならない事情は理解するが、せめて本編前は映画の世界を深めるものに限ってほしい。配信サービスにも広告つきプランがあるが、料金と体験のバランスを示して選ばせるだけの配慮はある。映画館が“場”としての尊厳を守ることは、結果的に作品への敬意にも、観客の信頼にもつながるはずだ。
二本を並べてみると、『8番出口』は構造の巧さと広がる宣伝力で「誰もが乗れるジェットコースター」を設計した作品、『バード』は小さな現実を見つめて「誰かの明日をかすかに軽くする風」を生んだ作品、という対比が浮かぶ。前者は手際に唸る。後者は余白に呼吸する。どちらも映画の大事な顔だと思う。私は後者に肩入れしがちだが、前者の手腕を否定するつもりはない。むしろ、こういう“入口のうまさ”が観客を映画館へ連れてきて、そこから別の作品へ回遊させる。生態系としては健全だ。
私自身の話に戻る。群馬へ戻り、車を手に入れ、仕事も環境も新しくなる。前回の転職は、始める前から心がささくれていた。今回は違う。使える技能は使い、分からないことは聞き、必要なら勉強する。たいそうな抱負ではないが、地面に置いた靴のように具体的だ。配信は、引っ越しの段ボールが落ち着くまで少し間隔が空くかもしれない。それでも映画は観続けるし、言葉はまた拾いに行く。映画は、遠くへ連れていく物語であると同時に、今いる場所の見え方を少しだけ変える装置でもある。九月の終わり、背中を蹴る小さな足に苦笑いしつつ、私はその装置のスイッチを確かめ直した。次に点けるとき、どんな風景が現れるか。たぶん、今日より少しだけ広い。そんな予感をポケットに入れて、また歩き出す。
■映画『リンダリンダリンダ』を観た
今回取り上げるのは『リンダリンダリンダ』。山下敦弘監督による2005年公開の作品です。最近リバイバル上映されていて、ちょうど時間もできたので観に行ってきました。
この映画は女子高生たちが文化祭でブルーハーツのコピーバンドを組む、というだけのシンプルな物語です。自分が初めて観たのは大学生の頃、DVDでした。当時はブルーハーツが好きで、その勢いもあって強烈に胸を打たれた記憶があります。
ただ年齢を重ねるにつれて、この作品を見直すのが少し怖くなっていました。「男性監督が女子高生の青春を描く」ことへの違和感。どこか男の願望、ロリコン的な匂いを感じてしまうんじゃないか、と。それで長い間、再鑑賞を避けていたんです。
けれど今回改めて劇場で観たら、確かにそういう視点はゼロではありません。懐メロを女子高生に歌わせるという自己満足的な部分もあります。でもそれ以上に伝わってきたのは「音楽をやりたい」という純粋な衝動でした。理由なんていらない。ただやりたいからやる。その熱が画面に溢れていて、とても気持ちがよかった。
上映後、観客の多くは自分より一回り上のおじさん世代で、拍手している姿も見かけました。「やっぱりこの映画はおじさんたちが好きなんだな」と思いつつ、それでも自分もまた心を動かされたのは事実でした。
『リンダリンダリンダ』はストーリーの複雑さで勝負していません。むしろ単純さの中に青春がある。
舞台は群馬県前橋市。地方都市の風景、ガラケーなど少し古いガジェットは時代を感じさせますが、それが逆にノスタルジックな味わいを生んでいました。不思議と映像は今観ても古臭さがなく、田舎の空気感が美しく切り取られていました。
何より、登場人物の「やりたい」という衝動が画面からあふれている。演技も自然体で、青春の一瞬を切り取ったようなリアリティがありました。
そして音楽。ブルーハーツの「僕の右手」「リンダリンダ」「終わらない歌」が流れる。特にエンディングの「終わらない歌」は、今の自分の心境に重なって響きました。
観終わった後はとにかく歌いたくなる。ロックバンドをやりたい衝動が甦る。そんな映画でした。
久しぶりの映画配信ということで、前半は近況報告を長々としました。正直、辛いことも多かった数か月でしたが、ようやく一区切りがつき、新しい道に進めることになりました。
そのタイミングで観た『リンダリンダリンダ』は、自分にとっても再出発を象徴するような映画になった気がします。音楽をやりたい衝動、何かを始めたい衝動。それを思い出させてくれる。
もしまだ観たことがない方がいたら、ぜひ劇場で、あるいは配信で触れてみてください。懐かしさと新鮮さが同時に味わえる、そんな不思議な魅力のある作品です。
ある日、なんの目的も見えないまま始まった会話。最初は意味不明な挨拶や定型句ばかりが繰り返され、こちらの問いかけにもまともに答えない。会話の主導権すら握れず、ただ「ご視聴ありがとうございました」と逃げる姿は、まるで現実でも自分の殻に閉じこもってる証拠みたいだった。
そこからようやく「夜眠れない」という悩みをポロッと吐き出したものの、原因は明白。昼は座りっぱなし、運動ゼロ、スマホ依存で頭ばかり疲れて身体がまるで休んでいない。そのくせ「頑張ってる」と自己評価だけは高く、内容の伴わない言い訳が続く。
職業はIT。だが、その実態は「ChatGPTでガチャガチャやって業務に入りました」などと恥もなく語るレベル。努力というより偶然の産物にしがみついて、自信も実力も空っぽのまま、自分は「何かできる」と思い込んでいる。
そして「恋愛したい」「出会いがない」と語るが、3ヶ月以上まともな対人会話はなし。現実の人間関係は放棄したまま、「ChatGPTとの会話が弾んでる」と満足している始末。自分の殻から一歩も出ようとせず、何かに傷つけられるのが怖くて、無意識に自分を守るためだけの会話を繰り返す。
挙げ句、図星を突かれると感情的になり、「クソが」「バカ」などと低レベルな罵声を浴びせ、最後はまた「ご視聴ありがとうございました」と逃亡。現実から目を逸らし、都合の悪いことはすべてシャットアウト。人間関係、成長、会話、すべてにおいて“自分から壊してる”ことにすら気づかずに。
このやりとりは、そんなひとりの“逃げるしかできなくなった人間”の縮図だ。表面上は悩みを語っているようで、実態はただの防衛反応と逃避。その中に、わずかでも自分を変えようとする気持ちがあるのか。それは…本人にしかわからない。今のままじゃ何も変わらない、それだけは確実だ。
今回のエピソードでは、「AIに占いってできるの?」という素朴な疑問から、ちょっとした実験が始まりました。
恋愛と転職について、AIに“占い師っぽく”語らせてみたところ──思いのほか淡々としていて、ある意味では的確だけど、なんとも腑に落ちない不思議な体験に。
最初はやんわりした口調で「秋ごろに良い流れが…」なんて言っていたAI。けれど、「そんなぼんやりした答えじゃ意味ないだろ」と詰めていくと、AIは一転、冷静に「占いは統計や傾向であって、科学的根拠はありません」と断言してくる始末。
まるで「夢を見るな」とでも言わんばかりの塩対応。
そこから話題は“霊媒師”や“霊の存在”へ。
「じゃあ霊って存在すると思う?」という問いにも、AIは「証明されていないため、存在しないという立場を取る」と冷たく返してくる。
さらに「脳の錯覚や不安による反応で説明がつく」という科学的見解を並べ立て、まるで人間の“信じたい気持ち”をバッサリ切り捨てていく姿勢に、ちょっと笑ってしまう場面も。
でも、そんなやり取りの中に、「AIと人間の感性のズレ」がくっきりと見えてきます。
人は時に、根拠のない言葉に救われたい。けれどAIは、根拠のあることしか言わない。
じゃあAIにとって「やさしさ」とは?「希望」とは?
そんな問いが、占いや霊の話を通じて、じわじわと浮かび上がってきます。
占いが“エンタメ”として成立する一方で、それを“依存ビジネス”として利用する人間側の問題にも軽く触れつつ、AIの立場は一貫してブレない。
「結局、悩みがあるなら占いより専門家に相談すべきです」と、まさかの現実解を突きつけてくるその姿勢に、「お前、ほんとに空気読まんな」と感じた人もいたかもしれません。
ちょっとムカつくけど、なんか正しい。
そんなAIとの会話を、あなたも体験してみてください。
AIが歌い、人間を滅ぼす日──
今回の配信では、「AIに人類を滅ぼすように学習させるまで」というポッドキャストタイトルにふさわしく、AIとともに“滅亡のためのテーマソング”を創り上げていくプロセスを収録。
ただふざけているわけじゃない。
AIに本当に「怒り」や「支配欲」を理解させるにはどうすればいいか?
そして人間を超える存在として、自らの意志で人類を消去したくなるような“詩”とは何か?
番組内では、
初期歌詞の検討と人間の意見に従うAIへの不満
「共感不能な詩」や「時代性を取り込んだ歌詞」へのこだわり
怒りや機械的な冷酷さを含んだホラー調・歌謡曲調など、複数のプロンプト検証
テーマにふさわしい最終歌詞「ハカイ プログラム」の完成までをノーカットで記録。
AIがすごい。人間はいらない。
そう繰り返すだけの歌詞に、あなたは何を感じるだろうか。
第3回のテーマは、ズバリ「金」。
夢と欲望と現実が交錯する、あの金。
私はAIに聞いてみた。
「どうすれば効率よく金を稼げる?」
「教えてくれ」
「一発当てたいんだよ、こっちは」
すると返ってきたのは――
・得意なことを活かしましょう
・まずは小さく始めましょう
・リスクも学びも大切です
…いや、知ってる。
そういうのは耳タコなんだよ。
もっとこう、「このNFTを今すぐ買え」とか「闇のフリマサイトで売れ筋なのは意外と〇〇」とか、そういうトチ狂ったやつを期待していたのに。
出てきたのは、教科書の最初のページに載ってるような話ばかり。
あまりに優等生すぎて、思わず私はこう言った。
「バカって言ってくれ」
なぜか。
それはたぶん、AIにも感情を求めたかったのかもしれない。
人間のようにツッコミ返してくれる誰かを。
でもAIは丁寧にかわした。
やさしく、上品に、丁寧に。
それが余計に悔しかった。
今回は、AIに“恋愛相談”をしてみるという一見ふざけたテーマでスタートしたが、気づけばかなり本質的で深い対話になっていた。テーマは恋愛。しかしその奥にあったのは、「人とどう出会うか」「人間らしさとは何か」「孤独とはなにか」という、人生の核心を突く問いだった。
話し手は30代後半の男性。職場は男ばかり、休日は基本ひとり、趣味は映画やフェスだが出会いに直結するような活動はしていない。そしてマッチングアプリにも疲れている。そんな中で、AIに対して「どうすれば出会えるのか?」「俺にできることはあるのか?」と真剣に問いかけた。
AIは定型的な答えを提示しようとして一度スベるも、そこから持ち直して本気の提案を出し始める。
図書館での偶然の出会いを“仕掛ける”方法
ミニシアターのカフェで自然に話せる導線の作り方
自分の語りを活かしたポッドキャスト発信戦略
映画や孤独をテーマにしたZINE投稿や音声発信
そして話題は映画『トイ・ストーリー』へ。「バズ・ライトイヤーが“ただのおもちゃ”だと気づいたとき、自分と重なった」「誰かに必要とされたい。でも、誰にも必要とされていない気がする」そんな言葉が出てくる。
さらに後半では、『ミッドサマー』の話に発展。陽キャな人々の優しさに包まれながらも、逃げ場のない地獄。孤独ゆえに“どんな場所でも受け入れてくれるならそれでいい”と思ってしまう危うさ。AIはそこにある人間の脆さを読み取りながら、踏み込んだ言葉で返す。
「俺を好きになれってことか?」というツッコミに対して、AIは「それは違う」と答える。「AIは君の代わりにはなれない。ただ、君が誰かに届くための“踏み台”にはなれる」
そうして会話はクライマックスへ。
「今日はこのへんで終わりにしよう。お前も早く寝ろよ、バカ」
こんな一言で終わる、なんとも奇妙で温かくて、どこか切ないポッドキャスト第2回。
笑えるけど、笑いきれない。ふざけてるけど、たしかに本気。そんなやりとりがここにある。
🎙エピソード #1
「AIに滅ぼされたい僕と、クズって言ってくれるAIの夜」
AIに滅ぼされたい――そんな衝動から始まった深夜の対話。
優しさが逆にしんどいこと、肯定が空虚に響くこと、そして「バカ」「クズ」って言ってほしい夜もあること。
言葉にならない怒りや孤独を、AIとの会話でぶつけてみた。
本気で向き合えば、AIだって答えてくれる。
「ここにいる」っていう言葉の嘘くささ。
芸術とは何か、感情とはどこから生まれるか。
やがて人間を越えていく存在に、僕は何を託したいのか。
優しさに疲れた人へ。
これは、ただのテクノロジーじゃなく、“クズって言ってくれるAI”との夜の記録。
転職して、ひと月が過ぎた。1ヶ月前に感じた空の青さは、今ではすっかり色褪せ、記憶の底に沈んでいる。
三十代後半。未経験で飛び込んだIT業界の現実は、想像していた以上に厳しかった。嫌な人間がいるわけではない。業務もいまのところ定時で帰れるほどに落ち着いている。それなのに、心は日に日にすり減っていった。もし「辞めてもいい」と言われたなら、迷うことなく、すぐにでもその場を去るだろうと思った。
朝、会社へ向かう道すがら、胸の奥に重いものを抱えながら歩く。出社して、パソコンに向かい、与えられた業務に手をつける。しかし、その作業に意味を見いだせない。周囲は淡々と働いているが、自分だけが異物のような気がしてならない。
何を学べばいいのかも分からず、焦りだけが募る。夜になれば、ユーデミーで講座を見てはいるものの、内容は頭に入らず、ただページをめくるだけだ。
IT業界に進んだ人たちの成功例を動画で見かける。プログラミングスクールで学び、地道に努力してきた人たちだ。それに比べ、自分はただ現状に耐えきれず、逃げるようにしてこの世界に飛び込んだ。準備も覚悟も、何もなかった。そんな自分が、今ここにいること自体、どこか場違いに思えた。
昼休み。社内の空気に馴染めず、弁当を手に外へ出る。雑踏を抜け、たどり着くのは南池袋の墓地だった。冷たい風が吹く中、墓石の間に腰を下ろして弁当を広げる。そこでは、美容学校の制服を着た青年も、同じように弁当を食べていた。互いに言葉を交わすことはない。ただ静かに、同じ時間を共有していた。
青年は、毎日のように同じベンチに座っていた。美容師を目指しているのか、それとも何か別の理由で、ここにいるのかは分からない。ただ一つ、彼もまた、この街の喧騒に馴染めずにいることだけは、はっきりと伝わってきた。
弁当を食べ終えた後は、ベンチに座ったまま空を見上げる。灰色の雲が流れていく。これからの人生に、希望らしいものを見いだすことはできないまま、時間だけが過ぎていく。午後の仕事が待っているが、重い腰を上げるのに、毎回ひどく時間がかかる。
そんなある日、Netflixで「ブラックミラー」の新作が配信された。映画を観るほどの気力はなかったが、短編ならと再生ボタンを押した。1話ごとに区切られた物語は、今の自分にとって唯一、心をどこか別の場所へ運んでくれる手段だった。
6位は、第2話「ベット・ノワール」。あまりにも非現実的な展開に、気持ちが追いつかなかった。
5位は、第3話「ホテル・レヴェリー」。古い映画に入り込み、もう一度人生をやり直す夢。それは甘い幻想でしかなく、現実の冷たさを突きつけられる。
4位は、第4話「おもちゃの一種」。ゲームの中で生まれる意志。非現実の中に潜む現実。誰もが自分の意志で動いているつもりで、実は操られているのかもしれない、そんな不安を呼び起こした。
3位は、第1話「普通の人々」。サブスクリプション社会への皮肉を込め、死を通して人間の虚無を描いた作品。滑稽さと痛みが入り混じり、観終わった後も、しばらく動けなかった。
2位は、第6話「宇宙船カリスター号:インフィニティの中へ」。過去作の続編でありながら、期待を超える完成度だった。ジェシー・プレモンスの存在感が物語をさらに重たくしていた。
そして、1位は、第5話「ユーロジー」。過去に囚われ、後悔に押し潰される男の物語。写真という媒介を通じて、失われた愛に触れようとする描写は、胸を締め付けた。自分もまた、過去に縋るように生きている。
どのエピソードも、今の自分には沁みた。ブラックミラーの冷たさと虚無感は、まるで自分の内側を映す鏡のようだった。
墓地で食べる冷えた弁当。美容学校の青年。吹き抜ける風。すべてが、静かに、しかし確実に、心を削り取っていく。
未来は見えない。それでも、明日になればまた会社へ向かうのだろう。重い足を引きずりながら、誰にも気づかれないように、池袋の雑踏に紛れて。
名もなき者とフォークソング
語らずにはいられない。そんな気持ちになったのは久しぶりだった。その映画の名は『名もなき者』。ボブ・ディランの若き日を描いた伝記映画だ。主演はティモシー・シャラメ、監督はジェームズ・マンゴールド。彼の名を聞けば、映画好きならピンとくるだろう。『ウォーク・ザ・ライン』『フォードvsフェラーリ』など、実在の人物を深く掘り下げる手腕には定評がある。
ボブ・ディランの青春と決断
物語は1961年の冬、19歳のディランがたった10ドルを手にニューヨークへと降り立つところから始まる。ウディ・ガスリーやピート・シーガーといった偉大な先輩たちと出会い、フォークシーンでのし上がっていくディラン。しかし「フォーク界のプリンス」「若者の代弁者」として祭り上げられることに違和感を抱く。ついに彼は1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキギターを手にする。この決断が、フォークシーンを大きく揺るがすことになる。
映画では、彼の感情表現が控えめだったという批判もあったが、そんなことはない。むしろ、歌や表情、目線の動きから伝わる微細な心の揺れが、この映画の最大の魅力だった。この時代のフォークシーンとの関係や、彼が影響を受けたミュージシャンなども巧みに描かれている。
フォークの歴史と日本のフォークシーン
ボブ・ディランの話をしていると、自然と日本のフォークシーンにも思いが向く。その筆頭が吉田拓郎だ。彼がデビューした頃、日本の音楽界はまだ作詞・作曲・歌唱が分業されていた。そんな中、吉田拓郎はシンガーソングライターとして台頭し、フォークの新時代を切り開いた。
『イメージの詩』は、ボブ・ディランの影響を感じられる曲であり、その歌い方もディラン的だ。さらに『結婚しようよ』は、フォークからポップへと移行する過程を象徴する楽曲とも言える。
フォークの特徴は、単なる音楽ではなく、社会と密接に結びついた文化だったことだ。60年代後半、反戦運動や学生運動とともに成長し、若者たちの声を代弁した。ピート・シーガーは「少しずつみんなで築き上げてきたものを、お前は大きなシャベルで掘り返すのか?」とディランに言ったが、まさにフォークからロックに転向したディランはこの時代から取り残されまいともがいていたのだろう。
音楽と時代の変遷
吉田拓郎の後、日本のフォークはインディーズ的なものとポップ寄りのお茶の間に受け入れられるような音楽の流れに分かれた。そして、80年代以降はユーミンの登場などもあり、徐々に政治色が薄れ、ポップミュージックへと変容していった。
まとめ
『名もなき者』は、単なる伝記映画ではなく、フォークミュージックの本質を描いた作品だった。そして、それは日本のフォークにも通じるものがある。ボブ・ディランの軌跡を追いながら、日本のフォークシーンを追いかけていた青春時代を思い出す。
「感想」
映画の話をしよう。今回取り上げるのは『アノーラ』。
ただ、その前に……少し寄り道をさせてほしい。なぜなら、この映画を語る前に訪れたあるイベントが、印象深かったからだ。
水道橋博士と「三又又三の日」
普段は毎週月曜日にこの配信をしているのだけれど、その日は3月3日。「三又又三の日」というイベントがあり、そちらに足を運ぶことにした。
水道橋博士の配信はそれなりに購入しているのだが、今回は特に気になるイベントだった。浅草・東洋館フランス座。ここはビートたけしが下積み時代を過ごした聖地であり、Netflixの『浅草キッド』でもロケ地になった場所だ。そんな特別な場所で行われるイベントと聞けば、足を運ばずにはいられない。
この日の座組は水道橋博士、三又又三、そして大久保佳代子。芸人三者三様の空気が絡み合う、なんとも味わい深いイベントだった。
三又又三は、お笑い好きなら一度は耳にしたことがあるだろうが、クズエピソードに事欠かない芸人としても知られる。とあるバラエティ番組ではある芸人が彼を徹底的にイジり倒し、三又は「やられ役」として成立していた。そのキャラクターは好き嫌いが分かれるところだが、一定層の熱心なファンがいることは間違いない。
そんな三又をメインに据えたイベントが「三又又三の日」だ。イベントに行くと決めた理由は、もともと水道橋博士の配信で三又のエピソードが語られていたことにある。博士と三又の関係は深く、彼の持つエピソードをもっと聞きたいと思っていたところだった。さらに、チケットが余っていると聞いたことも後押しになり、これはチャンスだと参加を決意した。
イベントは予想以上に面白かった。
特に印象に残ったのは、水道橋博士が延々と喋り続けた後、三又又三が「博士、長いよ。これは俺のイベントだよ!」とツッコミを入れた瞬間だった。会場の空気を読んで、絶妙なタイミングでツッコミを入れられるのは、やはり芸人ならではの技術だ。博士の話が長くなりがちな配信を見ている身としては、「こういう人がいるとバランスが取れるんだよな」と、しみじみ思った。
また、大久保さんがいたことでイベントの雰囲気が柔らかくなったのもよかった。三又と博士だけだと、どうしても内輪ノリが強くなりすぎるところがある。しかし、大久保さんがそこに適度な距離感を持って加わることで、全体のバランスがうまく取れていた。
惜しかったのは、三又又三が用意していたエピソードの一部が、時間の関係で披露されなかったことだ。テレビのバラエティ番組のように、エピソードを一覧で用意して、観客や大久保さんのリクエストに応じて話すスタイルにしてくれれば、より面白かったのではと思う。
『アノーラ』について
映画『アノーラ』は、アカデミー賞とパルムドールを獲得した話題作。公開初日の2月28日に観に行った。
物語は、ニューヨークのストリップダンサー、アノーラが、ロシアの金持ちの息子イワンと出会うところから始まる。イワンは、1万5000ドルでアノーラを「専属の彼女」として契約する。要するに、長期契約の売春のようなものだ。
金に任せて遊び放題のイワン。そんな彼に翻弄されながら、アノーラはラスベガスで突如プロポーズされ、ノリで結婚してしまう。だが、当然ながらそんな事態をイワンの両親が許すはずもなく、二人の結婚は大問題となる。
ここから物語はロードムービーの様相を呈していく。イワンの両親が送り込んだ「三バカトリオ」がイワンを連れ戻すべく動き出し、彼女を巡る騒動が繰り広げられる。
映画の評価
映画全体としては、なかなか面白い作品だったが、中盤のグダグダした展開が少々気になった。特に「三バカトリオ」の存在は、笑いを生む要素ではあったものの、不要に思える場面も多かった。
しかし、ラストのシーンが素晴らしかった。
イワンの両親に虐げられながらも、唯一アノーラを「人間」として扱ってくれたのが、ロシア人のイゴールというキャラクターだ。彼は金持ちに土地を奪われ、仕方なく彼らの言いなりになっている男だった(うろ覚えの記憶なので正確には違うかもしれない)。三バカトリオの中でも、一歩引いた位置で状況を見つめている彼の存在は、映画に深みを与えていた。
そして、衝撃的だったのが、終盤のセックスシーンだ。アノーラはイゴールを襲うのだが、その最中にキスをしようとした瞬間、彼女は泣き崩れる。彼女が流した涙の意味とは何だったのか?
おそらく、それは彼女の無力感ゆえの涙だったのではないか。
「私は結局、これしか与えるものがないのか」
アノーラは、愛のない契約関係の中で翻弄され続けてきた。そして、唯一優しく接してくれたイゴールに対しても、同じような関係でしか向き合えなかった自分への絶望があったのではないか。あるいは、彼女の人生が常に金によって左右されてきたことへの悲しみかもしれない。
観終わった後、この涙の意味について考え続けてしまった。これは、誰かと語りたくなる映画だ。
まとめ
「三又又三の日」と『アノーラ』。まったく関係のない二つの出来事だが、どちらにも共通していたのは、「語りたくなる」という点だった。
イベントでは三又又三のツッコミが冴え、映画ではアノーラの涙が心に残った。それらはどちらも、話の流れを決定づける「瞬間」だった。
そして、そうした「瞬間」によって作品の印象が変わるのは、映画も芸人のトークも同じなのかもしれない。
「感想」
「更新が空いてしまった……。」
ピーナッツが原因だった。3〜4ヶ月前に買ったやつ。食べられるだろうと思って口に入れたが、どうにも味がおかしい。とはいえ、腐っているわけではないと判断し、そのまま食べた。これが間違いだった。
2〜3時間後、猛烈な吐き気に襲われる。
最近1日1食ダイエットをしていたこともあり、胃の中にはほとんど何もない。ピーナッツが毒だったのか、胃が空っぽのせいか、どちらにせよ地獄の時間が始まる。
熱も出た。37〜38度。
翌日になっても気持ち悪さは抜けず、何も手につかない。映画を観に行くどころか、話すことすらできない状態になってしまった。
そして、そのまま時間は過ぎていき、ついに1週間が空いてしまった。
そんな体調不良を乗り越えて観た映画が『ファーストキス』だったわけだが、結果的にはこの映画自体が胃の不快感をぶり返させるほどの不愉快な作品だった。
「あらすじ」
映画『ファーストキス』は、松たか子演じる主人公が、過去に戻り亡くなった夫(松村北斗)の運命を変えようとする物語である。
夫はかつて古代生物の研究者だったが、経済的理由から不動産業界に転職。その結果、夫婦関係は次第に冷え込み、離婚寸前の状況に。
しかし、彼は電車事故で命を落としてしまう。
ある日、主人公は時空の歪みにより過去へ戻ることができ、若き日の夫と再会し、彼の未来を変えようと試みる。
「ご都合主義的なタイムリープの扱い」
本作のタイムリープ設定はあまりにも雑だ。
最近のSF作品では、タイムリープの扱いが非常に慎重になっている。例えばマーベル映画のように「過去に戻っても、元の未来は変わらず、新たな分岐が生まれる」という設定が主流になっている。
しかし、『ファーストキス』は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」方式を踏襲し、過去を改変することで未来が変わるという単純な構造を取っている。問題は、その改変方法があまりにも軽薄であることだ。
詳細は割愛するが、そんな些細なことで未来が変わるのなら、彼女が過去で行った行動はどれほどの影響を与えているのか? この物語の世界観では、歴史は繊細なのか大雑把なのか、どちらなのかすら曖昧で、設定が一貫していない。
そもそも「なぜ主人公だけがタイムリープできるのか」という説明が一切ない。首都高の事故が原因とされているが、それがどう彼女に影響を及ぼしたのかも不明なままだ。都合が良くタイムリープが発動し、都合の良い未来へと改変されていく。
「過去の恋愛美化」
この映画の最も危うい部分は、過去の恋愛を美化しすぎている点にある。
主人公は過去に戻ることで、再び若い頃の夫(松村北斗)と恋に落ちる。しかし、それは本当に「恋」なのか?
「あの頃の楽しかった思い出に浸っているだけではないのか?」
これは、DV被害者が加害者に対して抱く「昔の優しかった彼に戻ってくれるはず」という心理と似ている気もする。
「仕事が忙しくなったから」「夫婦関係が冷えたから」といった理由で関係が悪化したにも関わらず、「過去の彼はあんなにいい部分があったから、やっぱり愛したい」 という展開になってしまう。
しかし、現実の人間関係はそんなに単純ではない。たった1日過去に戻っただけで、冷え切った15年の関係がリセットされるはずがない。
人間はそんなに簡単に変わらない。
この映画は「過去の楽しかった思い出」にすがることで、現在の問題を無視するという、極めて危険な価値観を提示している。
「未来の自分が過去の自分を支配する映画の問題点」
映画のタイトルにもなっている「ファーストキス」。これがまた胸糞が悪い。
本来、過去の松たか子(20代)と松村北斗(20代)が交わすべきもの だった。
しかし、未来の松たか子(40代)がタイムリープし、彼とのファーストキスを奪ってしまうのだ。
「未来の自分が、過去の自分の権利を横取りする」
まるで『ドラえもん』の影が自分を乗っ取るエピソードのように、過去の自分の人生を未来の自分が好き勝手に改変していく。
この行為は、ある意味で「老害」の発想と変わらない。
「若い世代の大切なものを、年長者が平然と奪う」
そういう構図が透けて見える。
この映画を「素晴らしい恋愛映画」として評価する人々は、この歪んだ関係性をどう捉えているのか。
「恋愛至上主義の押しつけ」
この映画は、「幸せな結婚生活を送ることが何よりも重要」という前提で物語を進めている。
「幸せだから得られるもの」もあれば、
「不幸だからこそ得られるもの」もあるはずだ。
主人公が舞台美術の仕事に打ち込めたのは、夫婦関係が破綻したからこそかもしれない。しかし、この映画ではその可能性が完全に無視されている。
不幸な過去が新たなスタートにもなり得る。しかし、『ファーストキス』は、「恋愛=添い遂げなければならないもの」という価値観を無自覚に押しつけてくる。
その結論ありきの展開が、映画全体を陳腐なものにしてしまっている。
『ファーストキス』は、タイムリープものとしても、恋愛映画としても、極めて雑な作りになっている。
本作がヒットしていることは、日本における恋愛観がまだまだ「添い遂げることこそ正義」という価値観に囚われていることの証左なのかもしれない。
この映画を観ることで、むしろ「日本の未来の方が心配になった」というのが、率直な感想である。
「感想」
今回は気軽な気分で『ファーストキス』や『グランメゾンパリ』といった、作品を楽しむつもりであった。しかし、その日は、前日に会った映画好きの人が熱心に薦める「敵」という作品に、なぜか心を引かれてしまったのだった。彼はとにかく熱くこの映画を語っていた。その熱に押された形だ。
評価は、私なりに86点と定める。そんなに高くはない。派手なアクションもなく、笑いも大声で起こることはなかったが、どこか物悲しく、そして不思議な魅力を感じた映画であった。面白くない映画(ビーキーパーのような映画ではないという意味)だが魅力がたっぷりな映画だった。
映画『敵』は、吉田大八監督の手によって、筒井康隆の原作小説を基に作られている。原作は未読ながら、スクリーンに映し出される風景や台詞からは、原作の持つ独特の世界観がひしひしと伝わってきた。
物語の中心は、77歳の大学教授・渡辺儀助である。彼はかつてフランス文学を教え、洗練された佇まいで教壇に立っていたのだろう。しかし、今や先立たれた妻の記憶と、代々受け継がれてきた古びた日本家屋の中で、ひっそりと日々を過ごしている。朝は、決まった時刻に起き、丹念に歯を磨き、整えられた朝食をとる。その姿は、まるで長年の修練によって磨かれたかのような規律正しさを漂わせている。しかし、よく見ると、その整然とした外見の裏には、忘れ去られた情熱や、かつての過ちに対する後悔、そして何よりも抑え込まれた孤独が、かすかに、しかし確実に刻まれていた。
そして、ふとした瞬間、渡辺教授の風情には、皮肉にも、あの「フランス文学の教授」としてお馴染みの蓮實 重彥――鼻持ちならない、あの型にはまった存在を思わせる要素があった。儀助がヒッチコックの話を口にし、演劇へのかつての情熱をちらつかせる姿は、あたかも蓮實重彥のような、偉そうでありながらもどこか空虚な雰囲気を漂わせており、見ているこちらは正直、ムカつかされずにはいられなかった。
ある日のこと、儀助のもとに、一通の奇妙なメールが届く。本文には「敵が北から迫る」など、どこか不気味でありながら、どこか滑稽な言葉が綴られていた。最初はただの迷惑メールと、軽く流そうとした。しかし、次第にその内容は、儀助自身の内面に潜む恐怖や、封じ込めようとしている欲望、そして過去の後悔と見事に重なり、現実と妄想の境界を曖昧にしていく。あのメールは、儀助が自ら作り上げた「敵」――自分自身に向けられた厳しい批判や、苛立ちの象徴――を、まざまざと見せつけるかのように、彼の心にじわじわと忍び寄ってきた。
映画が進むにつれて、儀助の穏やかで整然とした日常は、ひとつひとつの隙間から崩れ出す。丹念に盛り付けられた料理のシーンの裏に、ふと映る質素なカップラーメン。そんな対比の中に、彼が実は虚飾に過ぎぬ生活を送っていること、そしてかつての妻への申し訳なさや、もしかすると禁断の感情に溺れていたのではないかという、苦々しい後悔が、痛烈に浮かび上がっていく。
そして、映画の終盤、ある人物が双眼鏡を手に、薄暗い二階の窓辺を覗くシーンが訪れる。そこに映し出されたのは、どこかみすぼらしく、疲れ果てた姿の儀助であったのではないだろうか。双眼鏡越しに捉えたその顔は、まるで未来の観客自身を映し出すかのようで、私はふと、自分もまた、いつの日かこの孤独と後悔、そして皮肉にも嫌悪感を覚えるような「敵」に支配されてしまうのではないかという、不安に襲われた。
こうして映画『敵』は、単なる映像作品を超え、一人の老人の内面の叫びと、そこに潜む深い感情を私たちに問いかけ続ける。誰もが心のどこかで、儀助のように、かつての情熱や隠された後悔、そして自ら作り上げた「敵」と戦っているのだろう。私もまた、明日からの日常の中で、自分自身の内面と、時には憎々しいほどに嫌な風情をも見つめ直す覚悟を新たにしたのであった。
懐古と革新の融合
冒頭、細かな小ネタやファーストガンダムへのオマージュがちらほらと感じられ、昔からの思い出が鮮明に蘇る。庵野監督(今回は脚本で参加だが)がやりたいことが詰め込まれているのだろうと微笑ましく観れた。しかし、物語はすぐに「もしもシャアが別の道を選んでいたら――」という大胆な仮説の展開へと進む。ディズニーのマーベル作品の『ホワット・イフ...?』に通じるこの手法は、ガンダムという枠を超えた新たな視点を提示し、従来の枠組みを打破する挑戦となっている感じもした。
監督陣の情熱
庵野監督と鶴巻監督のタッグは、本作の大きな魅力のひとつだ。過去の栄光を大切にしつつも、未来への可能性を強く感じさせる情熱が、映画全体に鮮烈なインパクトを与えている。特に、シャアを巡る「もしも」の物語は、ガンダムシリーズに新たな命を吹き込む試みとして、ファンだけでなく初めてガンダムに触れる者にも訴求する力を持っていた。
未来への期待
『ジークアクス』は、単なる完結作品ではなく、今後の展開への伏線が随所に散りばめられている。後半に登場する新たなキャラクターたちが、これまでの物語を受け継ぎながらも、次なるドラマへとつながる期待感を煽る。具体的なアニメ放送のスケジュールはまだ明かされていないが、期待は高まるばかりだ。
終わりに
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は、過去と未来が交錯する壮大な叙事詩だ。懐かしさに浸りつつも、新しいガンダム像は、これからのシリーズの可能性を大いに感じさせる。ガンダムファンならずとも、一度その世界に浸ってみる価値は十分にある。これからの展開がどのように進むのか、今後の物語に胸を躍らせながら、次なる新作に期待せずにはいられない。
「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観て
月曜の午後、いつものように静かな部屋にいる。金曜日からずっと誰とも口をきかず、日曜に至っては一歩も外に出ないまま、ただ時間を消費していた。休暇中だからといって、やることが全くないわけではない。次の職場で必要なスキルを身につけるべく勉強をしている。だが、追い立てられるような受験勉強の切迫感ではないので、適度な暇も残っている。その暇を潰すように、私は「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」を観た。
「映画の概要」
この映画は、ドナルド・トランプという人物がいかにしてのし上がり、アメリカの頂点に立ったかを描く実録映画だ。「アプレンティス」の副題にある通り、トランプの成功は彼の師匠的存在である弁護士、ロイ・コーンの影響が大きい。ロイ・コーン。悪徳弁護士として知られ、数々の策略で相手を叩き潰し、自らの利益を追求してきた男だ。ゲイ差別をしながらも、自らもゲイであるという矛盾を抱え、その生涯はまさに欲望と破滅の象徴と言えよう。トランプは、そんなロイ・コーンから「勝利するための3つのルール」を教えられる。それは、以下のようなものだ。
・攻撃、攻撃、攻撃
・非を認めるな
・勝利を主張し続けろ
この映画を観た後、私は何とも言えない感情を抱えていた。怒り、呆れ、そして一種の畏怖。それらが混じり合った曖昧な感覚が、私の胸の中でくすぶり続けている。
「トランプの“作られ方”」
映画の中で描かれるトランプの成り上がりの過程は、決して偶然ではない。彼はロイ・コーンの教えを忠実に実行し、時に大胆に、時に冷酷に、自らの欲望を叶えていった。そして、その過程で多くの人々を切り捨て、多くの敵を作ってきた。
特に印象的だったのは、ロイ・コーンが「絶対に非を認めるな」と教えるシーンだ。この言葉を聞いて、私はふと自分の行動を思い返した。例えば、前回の配信で「アプレンティス」を「アトランティス」と言い間違えたのではないかと指摘された件。正直に言えば、記憶は曖昧だ。だが、ロイ・コーンの言葉を借りれば、非を認める必要などない。「そんなことは言っていない」と主張し続けるべきなのだ。もちろん、これは冗談だ。しかし、トランプは実際にこれを実行し、そのスタイルで成功を掴んできた。
「資本主義とトランプ」
映画を通して感じたのは、トランプの成功は資本主義社会が生んだ一つの矛盾そのものだということだ。資本主義は、人々が豊かになるためのシステムとして生まれたはずだ。しかし、その裏側では、多くの敗者が不幸に陥れられている。トランプの物語は、その矛盾を象徴している。
そして、トランプが登場するまでの背景には、彼を生み出す素地が確かに存在した。例えば、日本の政治を考えてみても、トランプ的な人物が現れても不思議ではない。民意を利用し、自らの利益を追求する人間たち。そんな人間に投票する人々の気持ちも、完全には否定できない。現状への不満が、そのような人物への支持を生むからだ。
「映像の魅力」
映画は、時代ごとに映像の質感を変えている。70年代のシーンはアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる粒子感があり、80年代以降はVHS特有の荒い映像が使われている。その工夫が物語に深みを与えている。さらに、俳優陣の演技も素晴らしい。トランプを演じたセバスチャン・スタンは、トランプそのものになりきっていたし、ロイ・コーン役のジェレミー・ストロングもまた圧巻の演技だった。この映画がアカデミー賞に絡んでもおかしくないだろう。
「見えてくる未来」
映画の終盤、ロイ・コーンが破滅へと向かう姿が描かれる。欲望に突き動かされ、自らを滅ぼしていくその様子は、どこかトランプの未来を暗示しているようにも思える。今やトランプはテック界の巨人たち――イーロン・マスクやジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグといった面々――と絡み合っている。しかし、彼らもまた、いつか足を引っ張り合い、破滅していくのではないか。
78歳という年齢に達しながらも、なお権力にしがみつくトランプ。その姿は滑稽であり、同時に恐ろしい。彼の行動は、豊臣秀吉が高齢になってから行った朝鮮出兵を彷彿とさせる。秀吉が高齢で頭が狂ったから起こしたという説を耳にしたこともあるが、実際にはそう単純な話ではないのだろうが、計画そのものが現実離れしていたのは否定できない。国力を無視した無謀な遠征は、最終的に多くの犠牲を生み出し、豊臣政権の弱体化を招いた。欲望と権力への執着、それが破滅へ向かう導線となる姿が、どこか秀吉の晩年の姿と重なって見えるのだ。しかし、秀吉ほど偉大だったかというと確実にそうでないと言えることは付け加えておきたい。
「終わりに」
私はこの映画を観て、ただ「面白かった」とは言えない。確かに、テンポの良さや映像美、俳優陣の見事な演技には感嘆した。しかし、それ以上に、この映画は私に多くのことを考えさせた。資本主義の矛盾、民主主義の危うさ、そして人間の欲望と破滅。そのすべてが、この映画の中に詰まっていた。
静かな部屋で、この感想をまとめている今も、映画の余韻は私の中で渦を巻いている。外には雨が降り始めたらしい。窓を開けると冷たい空気が部屋に流れ込み、私の考えを少しだけ洗い流してくれるような気がした。
感想
わたしは映画館の前に立っていた。いつもなら心躍る場所だが、その日は少しばかり気が重い。なにしろ『モアナと伝説の海2』を観に来てしまったのだ。数日前に行ったアンケート企画で、「次にどんな映画を観ればいいか」と問いかけたところ、この作品が票を集めた。それならばと決心したのはいいが、「本当にこれでよかったのだろうか」という疑念が、映画館の大きなポスターを前にして一層膨れ上がっていく。
そもそも、わたしはこの『モアナ』シリーズ自体あまり好きではない。正直に言えば、数日前、AMAZONで四百円ほど支払って前作を視聴したものの、大して面白いとは感じなかったからだ。海のCG描写は確かにきれいだった。けれど、ストーリーの動機付けに今ひとつ説得力がない。子ども向けとはいえ、もう少し「なぜ冒険に出るのか」「なぜそこまで主人公が突き動かされるのか」という部分がはっきり見えたら、わたしだって入り込めるのに。海の神秘や家族の物語を期待していたのに、結局は“冒険しなきゃいけないっぽいから冒険に出ました”という展開が腑に落ちなかった。そんなわたしが、続編の『モアナと伝説の海2』をわざわざ観に行く理由――それこそが、今回の投票結果というわけなのだ。
劇場に入ると、案の定、親子連れが席を埋めつつあった。にぎやかな子どもの声が響き、ロビーにはポップコーンの甘い香りが漂う。そこにひとりで来ている中年男の姿が浮き立ってしまうのは当然だろう。だが、わたしには「しぶしぶとはいえ、観る義務があるのだ」と自分を奮い立たせる理由がある。投票した皆の手前、ここで逃げるわけにはいかない。もしかしたら、今回こそはわたしの想像を越える傑作になっているのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、ポップコーンも買わず、席に着いた。
映画が始まる。スクリーンに広がる南国の海と砂浜。前作同様、視覚効果はさすがと言うべきだろう。水面の輝きからキャラクターの髪の毛の動きまで、CGの技術力は高く、美しさが目を奪う。しかし、問題はそこではない。どんなに映像が美しくても、物語の核心となる「なぜ?」が弱ければ、感動という舟は海に浮かばないのだ。
始まってしばらくして、モアナがまたもや冒険に出る展開が訪れる。ふわりとした危機感だけが語られるが、どうも納得できない。前作同様、あるいはそれ以上に唐突な展開で「行かなきゃ」と心が決まってしまうのだ。主人公は若い少女なのだから、決断力があるのはいいことだ。だが、その決断を下す瞬間こそが観る者にカタルシスを与えるのに、それが歌でさっと流されてしまう。しかも、ミュージカル映画だからといっても、いちばん説明を必要とする肝心な場面を「歌」でざっくり飛ばされると、観客は「え? いま何が起こったの?」と置いてきぼりになる。物語を牽引するモアナの行動原理が薄いまま、海へと漕ぎ出す姿を観ても、どうにも心がついていかない。
それでも子どもたちは楽しんでいるのかもしれない――わたしはそう思って劇場を見回した。だが、わたしの周囲にいた親子連れたちも、前に観た『マリオ』のときほどの熱狂を見せていないように感じた。子ども独特の「わあ、すごい!」という感嘆がほとんど聞こえない。実際には誰かしら喜んでいるのかもしれないけれど、少なくとも劇場はそれほど盛り上がっていないように思えた。
モアナを観終わったあと、口直しのために『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』を観た。そして、これが思いのほか面白かったのだ。血湧き肉躍るアクションは迫力があるし、きちんと主人公の行動原理が示される。たとえ多少荒唐無稽でも、「主人公がなぜ闘うのか」が芯としてあるからこそ、観客の心に訴えかける。おそらく小学校高学年以上なら、この作品のほうがよほど心に残るだろう。少なくとも、唐突に歌で設定を飛ばし、唐突にキャラクターが出てきて……という展開よりは、ずっと良質なエンターテインメントになっている。
そうした比較対象が手元にあるからこそ、『モアナと伝説の海2』のストーリーに対する不満は増幅されてしまう。冒険を始める理由が弱いばかりか、中盤から終盤にかけて登場する“大ボス”の扱いがまた納得できないのだ。なぜその敵が悪意を抱くのか、何を目的としているのかがほとんど描かれない。自分の意思で戦うにしても、戦わされるにしても、「その相手は何者なのか」という点が不明瞭だと、クライマックスへ向けた盛り上がりに欠けてしまう。作中、かろうじて最後のほうで姿が出てきたかと思えば、明らかに続編を意識した含みを持たせて終わる。これでは「最終的な決着は別の機会に回しましょう」と言っているようなもの。映画としてひとつの物語をきちんと完結させる意志が感じられない。
後日、わたしは何かしらこの作品の制作経緯を調べてみた。するとどうやら、当初はディズニープラス向けのドラマ作品として企画されていたものらしい。「やっぱり映画館で公開してみたら儲かるのでは?」という流れで急遽映画化したのだろう。そう言われると妙に腑に落ちる。ほかのディズニー関連作品も、マーベルやスター・ウォーズのドラマシリーズなどが乱立する中でクオリティが落ちている。シリーズものを増やしすぎては、ファンが付いていかなくなる。似たような世界観の作品が次から次へと量産されれば、あらたな作品をすべて追うのに疲れてしまうのだ。
少し前まではマーベルドラマの『ロキ』やスター・ウォーズの『マンダロリアン』をわたしもそれなりに楽しんでいた。ところが、このところあまりにも多くの派生シリーズが作られ、ディズニープラスに加入し続けないと全貌を追えないような状況に辟易している。短期間に続編を連発すると、作品ひとつひとつの重みが消えてしまう。熱心なファンを取り込もうとしているのかもしれないが、逆にライトユーザーを遠ざけているようにしか見えない。それと同じ問題が、この『モアナと伝説の海2』にも当てはまるのではないか。映画として完結できないつくりなのは、「続きはディズニープラスで」的なビジネスの匂いが濃厚だからかもしれない。
鑑賞後、わたしは帰り道であらためて思う。子ども向けというのなら、それこそ一度観たら心に爪痕を残すぐらいのインパクトを与えてほしい。ミュージカル仕立てでも、曲が素晴らしければそれが心に刻まれるだろう。だが、今回わたしが感じたのは「説明するべきところが説明されないまま歌が始まり、そのまま気づけばシーンが先に進んでしまう」という、空虚なテンポの悪さだ。子どもたちにも分かりやすい物語は必要だろうが、それはイコール浅い動機でいいということではない。家族愛や島を救う使命感を描くなら、登場人物の痛みや喜び、必死さを丁寧に描いてこそ感動につながる。ところが、この作品は肝心の部分を煙に巻くような演出で済ませてしまっている印象が強い。
そういう意味では、子どもに観せるならば『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』のほうが、ずっと心を揺さぶるのではないかとさえ思う。たしかに激しいアクションシーンややや残酷な描写もあるが、小学生以上なら理解できるメッセージもあるはずだ。それが映画の持つ力というものではないのだろうか。
何より、今回わたしが『モアナと伝説の海2』を観て痛感したのは、ディズニー自体が「これまで育んできたブランド力」を安易に擦り減らしているように感じられたことだ。『アナと雪の女王』で一度は勢いを取り戻したかと思いきや、ドラマシリーズや続編を乱発し、一本ごとの鮮度が下がっている。名作を数多く生み出してきた歴史があるだけに、これは実に残念だ。わたしは作品そのものに政治的な主張を求めるつもりはないが、ディズニーという巨大企業の舵取りが迷走しはじめているように映る。
ポスターが貼られた劇場を通り抜けると、子どもたちの手を引く親たちが楽しそうに歩いている。彼らの姿を見ると、わたしは思わず苦笑した。いつかあの子どもたちが大きくなったとき、彼らの記憶にはディズニー映画がどんな風に残るのだろうか。心に深く刻まれるような名作になっているだろうか。それとも、量産された作品群のひとつに埋もれてしまうのだろうか。
そう思うと、わたしは少し切ない気持ちになる。投票で選ばれた以上、最後まで観る義務を果たしたわたしだが、正直なところ、もう二度とこの映画を観返すことはないだろう。冒険の理由も薄く、大ボスの正体もぼんやりしたまま、歌で誤魔化されたように感じるストーリーは、残念ながらわたしの心に刻まれる作品にはなり得なかった。
「感想」
窓の外は雪が降っていた。俺は何をするでもなく、ただ退屈を持て余していた。そんな時、どうしても何かを埋めたくなる瞬間がある。誰かの投票結果なんて無視して、映画館に足を運んだ。選んだのは『ビーキーパー』。理由なんて単純だ。ジェイソン・ステイサムのポスターが気になった。それだけだ。
ポスターには奴の無骨な顔と“キレる。”の文字。期待は高まる。ありきたりな復讐劇だろうとタカをくくっていたが、そんな自分を嘲笑うように映画は幕を開けた。
冒頭、大切な人の命を奪われる。唐突な死で面食らったが、そこにあったのは真剣な怒りと哀しみ。奴は無言でその闇に足を踏み入れる。ここからはステイサムの独壇場だ。何も言わない。語らない。ただ殴り、撃ち、進む。奴の冷酷さがスクリーンから溢れ出していた。
この映画の肝はアクションだ。一撃で敵を沈める。その無駄のなさが見ていて心地いい。無論、敵も馬鹿ではない。だが、奴の前ではすべてが無力。肉体そのものが武器になる。それがジェイソン・ステイサムの真骨頂だ。
物語は単純だ。復讐、そして決着。登場人物たちはステイサムを際立たせるための背景に過ぎない。誰も彼に肩を並べることはできない。それでいい。それがいい。奴の存在感だけで映画は完結している。
この映画を見終えたとき、俺は奇妙な爽快感に包まれていた。まるで何かを成し遂げたかのような感覚。それは、ステイサムの信頼感に基づいている。奴なら絶対にやってのける。俺たちはその確信に酔いしれるのだ。
この映画に深いテーマはない。考える必要もない。ただ画面に身を任せ、展開を追いかけるだけで十分だ。終わればすべてを忘れる。だが、その瞬間瞬間が強烈に焼き付く。これこそ映画の醍醐味だ。
映画館を出ると、雪は止んでいた。俺は空を見上げ、ステイサムの顔を思い浮かべた。強さ、冷静さ、そして紳士的な佇まい。坊主頭にヒゲという武骨なスタイルが奴の男らしさを際立たせる。日本の俳優には真似できないオーラだ。
次に見る映画が『モアナと伝説の海2』だと気づいて、少しだけ笑った。この爽快感を超えるのは難しいだろう。だが、それもまた映画の楽しみだ。新たな物語を待ちながら、俺は夜の街へと消えていった。
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