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オーディオドラマ「五の線3」
闇と鮒
100 episodes
1 week ago
【一話からお聴きになるには】 http://gonosen3.seesaa.net/index-2.html からどうぞ。 「五の線」の人間関係性による事件。それは鍋島の死によって幕を閉じた。 それから間もなくして都心で不可解な事件が多発する。 物語の舞台は「五の線2」の物語から6年後の日本。 ある日、金沢犀川沿いで爆発事件が発生する。ホームレスが自爆テロを行ったようだとSNSを介して人々に伝わる。しかしそれはデマだった。事件の数時間前に現場を通りかかったのは椎名賢明(しいな まさあき)。彼のパ
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【一話からお聴きになるには】 http://gonosen3.seesaa.net/index-2.html からどうぞ。 「五の線」の人間関係性による事件。それは鍋島の死によって幕を閉じた。 それから間もなくして都心で不可解な事件が多発する。 物語の舞台は「五の線2」の物語から6年後の日本。 ある日、金沢犀川沿いで爆発事件が発生する。ホームレスが自爆テロを行ったようだとSNSを介して人々に伝わる。しかしそれはデマだった。事件の数時間前に現場を通りかかったのは椎名賢明(しいな まさあき)。彼のパ
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Episodes (20/100)
オーディオドラマ「五の線3」
206.2 第195話「生者の義務」【後編】
3-195-2.mp3 大型のモニター群には、浅野川流域の濁流、金沢駅東口の冠水、そして各部隊の無線通話ログが並んでいた。 警報の断続音のなかで、状況監視班のオペレーターたちは端末に次々と入力を走らせていた。 その中央――防衛班長・佐藤陸将補が、報告書類を片手に首を上げる。 「金沢駅周辺、第14普通科連隊・川島一佐からの現地報告。人民軍の指揮系統は既に崩壊。武装集団の戦力も散発的。現在、戦術目標の終了とともに、音楽堂地下に取り残された民間人の救助支援へ転進中とのことです」 参謀幕僚の一人が補足した。 「特殊作戦群の黒木群長も、現場指揮下にある部隊の一部を南側へスライド。戦線は実質的に収束と見て差し支えありません」 佐藤が頷いたそのとき―― 通信士の一人が振り返った。 「官邸より直通回線、入ります!」 オペレーターが切り替えた回線の先、壁の大型モニターに官邸地下の危機対策室が映し出され、櫻井官房長官が正面を見据えていた。 「防衛省、陸幕聞こえるか。こちら官邸、災害対策本部。もはや軍事状況よりも、金沢市民の安全確保が優先される局面に入ったと判断する。救助支援のため、必要な部隊を即時動員せよ。国は、今、命を守ることに全力を尽くす」 一拍の静寂。 佐藤は小さくうなずいた。 「――了解。第14普通科連隊、及び現地展開中の部隊へ指令を下ろします」 画面が切れた後、彼は部下たちに短く命じた。 「川島一佐の現地判断、正式に認可。災対法第83条に基づき、災害派遣任務への移行を即時実施。記録は後追いでいい。責任は俺が持つ」 情報幕僚が端末を叩き、即座に指令電文の入力にかかる。 佐藤は端末越しに金沢の航空映像を見ながら、唇の端を一瞬だけきつく結んだ。 「これが“戦後”というやつか……兵隊が、人を撃つ手を止めて、人を運ぶ手に替える。俺たちは、そこまで来た」 【官邸】 官邸地下の情報対策室。 モニターには金沢駅周辺の航空偵察映像と、災害対策本部からの情報が同時に流れていた。 浅野川の堤防決壊。駅周辺の浸水進行。もてなしドーム北側の冠水。状況は悪化の一途を辿っていた。 「……救出部隊を即時展開させます。自衛隊だけでは足りないわ。警察と消防の責任も示さねばならないわ。」 櫻井官房長官が静かに言った。決断は一瞬だった。 即座に上杉情報官が手元のタブレットに指を滑らせる。警察庁の指揮回線が確立され、次の瞬間には公安局の百目鬼理事官が接続先に表示された。 「百目鬼。現地はどうだ」 「……浸水進行中。現場機動隊は駅東口周辺の治安維持を継続中。音楽堂地下に駅からの避難民数百人が取り残されています。」 「救出に入れ。自衛隊は軍事対応で手一杯だ。ここは警察と消防が連携してやる局面だ。」 「……了解。すぐに公安特課主導で現場救出作戦に入ります。」 通信が切れた。 --- 県警本部。 百目鬼が、無言で片倉の肩に手を置いた。 県警警備部公安課出身、そして現・特高班長。金沢入りして以来、百目鬼の右腕として作戦全体を実質的に差配してきた。 「……マルトクから現場に伝達だ。音楽堂地下に避難民が取り残されている。対象、数百。今すぐ救出に入る。」 百目鬼の言葉に、片倉は一度だけうなずき、無言のまま無線に手を伸ばす。その表情に迷いはなかった。 「機動隊、第一班は音楽堂正面から地下へ。第二班は外周の水位と安全ルートを確保。救助は消防隊と連携、搬送は一部自衛隊に預ける。」 周囲の隊員たちが迷うことなく動き始めた。誰一人、片倉の判断に疑義を挟む者はいなかった。 一拍の間。 「現場指揮は……俺が執る」 言い終えると同時に、片倉はヘッドセットを外し、指揮卓の椅子から立ち上がった。 百目鬼が、彼の背に声をかける。 「頼んだぞ、片倉。お前にしか任せられん」 片倉は振り返らないまま、低く答えた。 背筋を伸ばしたその背中には、長年、公安現場で修羅場をくぐった者の気迫がにじんでいた。 【金沢駅東口・市道を走行中の機動隊車両内】 暴風雨がフロントガラスを横殴りに叩きつけていた。車内の空調は切られて久しく、窓の内側には曇りが生じている。運転席を含め、誰一人として口を開こうとしない。バックミラーには、もてなしドームの崩れた骨格と、沈みかけた駅東口広場が映っていた。 その沈黙を破ったのは、突如鳴り響いた無線だった。 「機動隊、第一班は音楽堂正面から地下へ。第二班は外周の水位と安全ルートを確保。救助は消防隊と連携、搬送は一部自衛隊に預ける。」 言葉が終わるのを待たずに、車内の空気が固まった。 「……は……?」 助手席の機動隊班長が、一拍遅れて振り返った。眉をひそめ、疑念を隠さなかった。 「撤収命令が出てたはずだ……この車両だって、民間人搬送が目的だったろ」 その言葉を遮るように、後部座席から久美子が身を乗り出す。 「お願いです、引き返してください!」 班長が驚いたように彼女を見た。 「音楽堂に残ってる人たちは、私たちと同じです。あの人たちが置いていかれる理由なんて、どこにもない……」 一瞬の沈黙。隣で森が、静かに補った。 「そこには高齢の人も、ベビーカーの母親もいるはずよ。この洪水の中あそこに取り残されたら……手遅れになるわ。」 言葉は熱を帯びていたが、感情に溺れすぎてはいなかった。冷静さの中に、誇りと責任が混じっていた。 助手席の班長は、短く息を吐いた。そしてフロントガラス越しに、崩れかけた駅ビルの外壁を見つめた。 無線機を取り、声を張る。 「反転だ! 目的地を音楽堂地下避難所に変更。展開準備開始!」 タイヤが濡れたアスファルトを巻き上げ、水飛沫がルーフを叩く。ブレーキとハンドルが一斉に旋回し、車列は反転した。雨のベールの向こう――暗く沈みかけた駅前広場へ、再び戻っていく。 【石川県立音楽堂 地下避難エリア】 停電によって暗闇に包まれた空間。スマートフォンの微かな光だけが頼りだった。 「もう、電波入らん……っ。」 若い女性が不安げにスマホを掲げ、誰かが叫ぶ。 「どこかに……出口はないんですか!?」 「誰か来て……!」 子どもの泣き声が響き、駅員が必死に声を張り上げていた。 「落ち着いてください! ここは安全です……外と連絡は……」 その声も、すでに嗄れていた。 足元の水位は膝下に迫り、壁からは濁流がじわじわと染み出していた。浮き始めたゴミ、異臭、崩れた天井の破片。混乱の淵にある400人。 【久美子・森 現場到着】 機動隊車両が音楽堂前で停車。泥水がタイヤの半ばまで達していた。 「着いたぞ、ここで降りる!」 班長が声を上げると、後部ドアが開き、久美子と森が濁流の中に飛び出した。 「こっちです!中の構造、ある程度把握してます!」 久美子は自分のスマホに保存していた音楽堂の構造図を取り出し、森とともに非常階段へ向かう。 階段は既に浸水が始まっており、森が一歩踏み出した瞬間―― 「うわっ!」 コンクリの破片に足を取られ、体を大きく傾ける。久美子が咄嗟に腕を掴み、なんとか踏みとどまらせた。 そのとき、後方からヘルメット姿の消防隊員が駆け寄る。 「警察ですか?こちら消防第六救助隊!地下の水位、あと30センチで限界です!」 久美子が振り返り、深くうなずく。 「わかりました……すぐ中の状況を確認して、搬送体制を整えます!」 「機動隊は二手に分かれろ!一班は地下の避難民誘導、もう一班は外周ルートの確保と自衛隊との連携だ!」 即座に班長は指示を出した。 久美子は民間人として、その状況判断力と情報提供の正確さで、間接的に現場対応を支えていた。 --- 【地上:音楽堂南側広場】 豪雨が音楽堂南側広場を容赦なく叩きつけていた。 広場の一角には、警察・消防・自衛隊が混在しながらも秩序だった動きを見せている。濁った水が足首のあたりまで迫る中、自衛隊のゴムボートが次々と準備され、建物の柱にロープが括りつけられていた。 「こちら第14普通科連隊・副連隊長の川島一佐。」 川島一佐は、防水ケースに入った作戦地図を確認しながら、通信装置に指をかけた。 戦闘の最前線はもはや制圧済み。プリマコフ狙撃以降、人民軍の動きは明らかに鈍っていた。 (……もはや掃討戦。ここから先は、どれだけ早く“日常”に戻せるかだ) 彼は無線を開いた。 「百目鬼理事官からの要請を受け、音楽堂前へ援護部隊を派遣中。災対法第83条に基づき、臨時の災害派遣任務とする。第3小隊の一部が現場に到達済み、搬送支援の準備に入る。」 無駄な言葉はなかった。 上空には自衛隊のUH-60JAヘリコプターがホバリングし、そのサーチライトが暴風雨の中で建物の周辺を照らし出していた。 地上では、県警公安特課と消防隊員、そして自衛隊の陸曹たちが連携を取り合いながら、音楽堂内部から避難民を搬出するルートを構築していた。 「高齢者が多く、ストレッチャー搬送が必要です!」 小隊指揮官が川島に叫ぶ。 「了解。警察・消防との連携を最優先にしろ。民間人の救助が最優先だ」 川島はそう返しながら、視線を音楽堂の入り口に向けた。 そこでは機動隊と公安特課の隊員たちが次々と民間人を誘導しており、顔には疲労と緊張の色が濃く浮かんでいた。 水位はなおも上昇していた。雨は止まない。もはや現場の時間は、分単位ではなく秒単位で削られつつあった。 ---
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1 week ago
15 minutes

オーディオドラマ「五の線3」
206.1 第195話「生者の義務」【前編】
3-195-1.mp3 豪雨は容赦なく降り続き、金沢駅東口広場はまるで沈みゆく盆地のように水が溜まり始めていた。もてなしドームの残骸が打ち捨てられ、プリマコフ中佐率いる人民軍部隊は、破壊されたオフィスビルの軒下に展開していた。 黒木為朝特殊作戦群群長は、防弾ベストの上から無線を握った。濡れた戦闘服から水が滴る。冷たい雨は、もはや兵士たちの動きすら鈍らせていた。 「――群長、プリマコフ中佐の位置確認」 「距離420。座標は東口広場、赤い瓦礫の残骸横」 「狙撃可能距離、風速計算済み」 「……射撃許可を」 黒木は双眼鏡の奥で、カーキ色のレインパーカー姿の男を確認した。頭に軍帽を被り、周囲の隊員たちに無言の指示を送り続けるその男。その背筋の張り、無駄のない動き……プリマコフ本人だ。 「……プリマコフ中佐、間違いない」 黒木は呼吸を整え、冷徹な声で命じた。 「“狛犬1”、撃て」 ** 約400m離れた位置。駅東口の旧市街地側にある9階建てオフィスビルの屋上。冷たい雨が照準スコープのレンズに当たるのを、スナイパーは親指の甲で静かに拭った。 【特殊作戦群・狙撃手:コールサイン“狛犬1”】 静かに息を吐く。照準の十字線がプリマコフの胸部にぴたりと重なる。プリマコフが次の指示を出そうと歩みを進めた、まさにその瞬間―― 「……Fire」 ズドン。 周囲の雷鳴と区別もつかぬ轟音が夜空を切り裂いた。.338ラプアマグナムの弾頭が高初速で発射され、一直線に標的へ。 プリマコフの胸部に着弾。中佐は一歩、二歩とふらつき……信じられぬという表情を浮かべたまま膝をつき、崩れ落ちた。 カーキ色の外套が、雨に濡れた御影石の上に無惨に広がる。 「……目標沈黙」 狛犬1の無感情な報告が無線に乗った。 ** 同じころ。駅東側、離れた旧ビジネスホテルの屋上。こちらも黒木と同じく事前展開していた、卯辰一郎がその一部始終を高倍率スコープで見届けていた。元・自衛隊特務部隊の戦闘教官。その経験豊富な視線が、プリマコフの最期を確かに捉えた。 「……完璧だ」 卯辰は低く唸った。着弾のタイミング、風速と降雨の影響、標的の移動予測すら織り込んだその射撃。 (今の自衛隊狙撃手はここまで到達しているのか……黒木、お前の部隊、育てたな) 彼は一瞬だけわずかに口元を緩めた。だがすぐに戦場の現実に意識を戻す。 (あとはプリマコフ部隊がどう動くか……この雨、この地形、そしてこの混乱。戦はまだ終わっていない) 卯辰はスコープ越しに広場全体を注視し続けた。重たい雨音だけが、鼓膜を塞ぐように降り注いでいた。 金沢駅東口 広場 プリマコフ中佐が倒れた瞬間、その場の空気が凍り付いた。 もてなしドームの残骸の向こう、散開していたツヴァイスタン兵たちが一斉に動きを止める。 中佐の指揮下という絶対命令系統を失った部隊は、瞬時に連携の糸を失った。 「――目標沈黙。」 特殊作戦群の狙撃班が無線で報告する。 「よくやった」 黒木群長は静かに応じた。だが、次の瞬間、その表情がわずかに曇る。 「……?」 遠くから轟く、低い地鳴りのような異音。 地上の誰もがそれを聞き取り、微かに顔を上げた。 ゴォォォォォ―― 駅ビルの北側。曲がりくねった浅野川の上流方向から、膨大な水流の奔流音が押し寄せてきた。 直後、警報サイレンと同時に市防災無線が全域に響く。 《【緊急安全確保】浅野川流域で大規模堤防決壊!周辺地域は即時避難!大至急、高台もしくは建物高層階へ退避せよ!》 黒木の耳にもそのアナウンスが届いた。 「……浅野川、決壊……?」 その呟きは、冷静な群長の声とは思えないほど低く重かった。 次の瞬間、駅東口側のビルの谷間から、泥水と瓦礫が混ざり合った濁流が轟音を立てて迫ってくるのが目に映った。 プリマコフ中佐の部隊も気づいた。 装備を抱え、蜘蛛の子を散らすように撤退行動に移ろうとしたが、すでに遅い。 第一波の濁流が音もなく広場を呑み込む。 倒壊した車両や標識を押し流しながら、冷たい激流が容赦なく進軍していく。 ドォォン……ッ! 駅ビル1階のガラスが外圧に耐えきれず割れる音が聞こえた。 「全隊!緊急撤収!高所退避!」 黒木は咄嗟に無線で指示を飛ばした。 --- 一方、隣接する金沢駅東口・商業ビル内部―― 天井からの雨漏りがポツ、ポツと、既に水浸しの床に音を落としていた。濁流の接近に気づいた吉川と黒田は、崩れた壁の隙間から外を確認していた。 「……なんだ……?」 吉川が低く呟く。 黒田が目を細める。 「水……?」 次の瞬間、道路の奥から迫り来る濁流に気づき、黒田が息を呑む。 「……あれは……浅野川だ……氾濫してる!」 吉川は即座に判断を下し、無言で身を引いた。 振り返ると、椎名――いや、仁川征爾が、座り込んだままの姿勢で周囲をじっと見据えていた。 ただの虚脱ではなかった。 彼の目は確かに濁っていたが、同時に何かを考えている眼でもあった。 (……プリマコフが……俺を消しに来ている。) 椎名はそう悟っていた。 アルミヤプラボスディアの残党を追ってきたのではない。証拠隠滅。いや、もっと明確な“遮断”のための来訪だ。 この現場に残された「証人」。それが自分である。 (プリマコフにとって、俺の存在は“リスク”だ。あいつはそれを排除するために動いている。) 頭は冷静に回っていた。 足元に押し寄せる濁流、斥候部隊の侵入、階下での制圧戦。 だが、自分はまだ殺されていない。今のところ。 少なくとも、目の前にいるこの日本の男たち――吉川と黒田には、自分を殺す意志はないようだった。 (使える。) そう判断した。 (今は彼らに“守られながら”、移動すべきだ。プリマコフが仕掛けた掃討部隊の網を抜けるには、盾がいる。) その瞬間、外で重く乾いた銃声が鳴り響いた。 ──ズドン 銃声は単発だった。間違いない。ライフル、それも大口径。 「……ライフルだ。」 吉川が言った。 その声に、辺りが一瞬だけ静寂に包まれた。 激しい雨の音だけが響く。射撃も怒号も消えていた。 椎名は感じ取った。 (……誰かが死んだ。……いや、“指揮官格”が、死んだ。) 誰なのかはわからない。だが、戦況の空気が変わったことは明らかだった。 明瞭な命令系統が、一瞬で失われたような感触。 沈黙の中にある、奇妙な空白。 次の瞬間―― 「……音が……おかしい」 黒田が呟いた。 地下から響くような、重く、低く、湿った音。 ──ゴゴゴゴ…… それは徐々に大きくなり、やがて耳に届く轟音となって押し寄せてきた。 「……来るぞ!」 吉川が叫ぶより早く、椎名は床を蹴った。 だがその身体に、突如、硬直が走った。 濁流の音。 泥と瓦礫が混ざった奔流の音。 その響きが、彼の意識を過去へと引きずり戻す。 ──あれは……あの音だ。 目の前がぐらりと揺れた。 26年前。土石流が彼の家族と村を飲み込んだ、あの夜。 黒い泥が母の背を押し流し、声が消え、家が崩れ、手の中の弟の掌が冷たくなった。 すべてを一瞬で奪った、災厄の記憶。 (……そうだ。あのとき、死んだんだ。俺は。) 意識が現実と乖離しはじめる。 眼前の濁流が、過去の土石流と重なる。 (今、流されれば……あの時に戻れる。全部終わる。ツヴァイスタンも、日本も、仁川征爾も……) 楽になれる。 この戦いも、この使命も、この仮面も。 泥に飲まれてしまえば、すべてが無になる。 (……そう思ってたはずだ。) だが、脳裏にいくつかの顔が浮かぶ。 ──アナスタシア。 ──下間兄弟。 ──朽木。 ──父と母。 彼らは、彼を必要とした。あるいは、かつて、そうであった。 (俺を待ってた人間が、いた。) 椎名の中で、現実と幻影が交錯する。 (……なのに、今ここで、また逃げるのか?) 肩の震えが止まらない。 そのとき、黒田が叫んだ。 「椎名!立て!逃げるぞ!」 返答はない。 だが椎名の手が、かすかに黒田の腕を掴んだ。 本能ではなく、明確な意志として。 迷いの末に選ばれた、わずかな「再生」への接続。 「……行くぞ、黒田!」 吉川の号令とともに、椎名は身を起こす。 重い体。鉛のような精神。 それでも、足を前に出した。 彼はまだ完全に戻っていなかった。 だが、壊れた中でなお“動くこと”を選びはじめていた。 3人は濁流の中を抜け、破壊されたビルの外縁へ向かって走った。 その背後で、もはや崩壊寸前の建物が、悲鳴のような金属音を響かせていた。
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1 week ago
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オーディオドラマ「五の線3」
205.1 第194話「豪雨接敵」【前編】
3-194-1.mp3 静寂が包む一角で、椎名は唐突に顔をこわばらせた。 瞳はどこか遠くを見ていた。濡れたビルの廃材も、崩れかけた天井も目に入っていない。いや、見えているのに、意識はそこにはなかった。 その視線の先にあったのは、己の掌に収まる黒い端末。突如、ビリビリと震え、けたたましい電子音を響かせる。 ──テロテロリーンテロテロリーン── 反射的に全員が動いた。椎名は身を強ばらせ、吉川は銃口を構え直し、黒田は一歩下がって壁に手をついた。コンクリ片に当たる雨音の中にあっても、その電子音は異様なほど鮮烈だった。 「……エリアメールだ。」 吉川がポケットからスマートフォンを取り出し、画面を一瞥する。 《【避難指示】金沢市全域/浅野川一部氾濫/山間部で土砂災害発生の恐れあり/至急安全な場所へ避難を》 吉川が顔をしかめた。 「“避難指示”か…ここは駅の商業ビル。水が来たって、地上階が多少浸かる程度だ。大したことない。」 言いながら、彼は黒田を振り返った。 だが黒田は、答えなかった。スマートフォンの通知を目で追っていたその表情が、徐々に変わっていくのを吉川は見た。 「……黒田?」 「……浅野川が氾濫……?」 黒田は呟くように言った。口の中で何かを計算するように。 「山で土砂災害……。」 「そりゃその災害もおこるだろう。さっきからずっとこの調子で降ってるんだから。」 「違う……山間で土砂災害……浅野川の氾濫……今の雨量……この流域……。」 黒田の声がかすかに震えた。 「仁川征爾は、26年前の土石流で消えた…。」 「なに…。」 吉川が目を瞬いた。椎名――いや、仁川征爾。その名前に続く“災害”の記憶。 黒田は椎名を見た。 その目が、どこかを見ているようで、見ていなかった。氷のように沈着だったその瞳が、今は曇っていた。 震えている。焦点が定まらない。 吉川が思わず銃を持ち直す。だが、黒田はそれを制するように、静かに首を横に振った。 「……見て吉川さん。あの目。あれは……さっきまでの目じゃない…。」 椎名は黙ってエリアメールの画面を見ていた。 「土砂災害」 この四文字が、彼の心に突き刺さっていた。 「だぶん……記憶が、戻ってる……。」 黒田は呟く。 「吉川さんが今、引き金を引いたら――きっと、あいつはこのまま死ぬ。テロリストでもなく、計画者でもない。ただの……置いていかれた人間のまま。」 吉川は息を飲んだ。椎名が、あの椎名が、動けなくなっている。震える指。濡れた額。濁った視線。 それは、幾千の合理と殺意を積み上げてきた男の姿ではなかった。 ただの、記憶に囚われた一人の生き残りだった。 黒田がポツリと呟いた。 「……あいつは、16歳の仁川征爾だ…。」 ──ダダダダッ! 短機関銃の連続射撃音。 商業ビル内の沈黙は、外の世界の激変によって打ち破られた。 爆音が、突如、耳元に押し寄せる。 銃声。炸裂音。怒号。 鋼鉄が弾かれる甲高い音。窓ガラスの割れる音が重なり、わずかな風が吹き込んだ。 「……始まったか」 吉川が呟く。彼は即座に無線の音量を上げた。 『こちら第14普通科連隊、北側外周にて国籍不明部隊と接触。交戦中。繰り返す、国籍不明部隊と交戦中!』 『特殊作戦群より報告。金沢駅構内にてアルミヤプラボスディア残存勢力と接敵。制圧中。複数名確保、1名死亡。現在、国籍不明部隊の介入により交戦範囲拡大中』 無線の向こうからも銃撃音が混じる。まさに戦場だった。 *** 金沢駅東口前広場。 夜の帳が降りた闇に浮かぶヘッドライトと閃光。 舗装道路に独特の低く唸るようなエンジン音とタイヤのきしみが響くとともに装甲兵員輸送車(APC)が突入してきた。 制式化されたパターンのカモフラージュ。旗章なし。国籍不明。しかし現場の将官級は知っていた。 ツヴァイスタン人民共和国人民軍、プリマコフ中佐の部隊。“偽装された介入軍”だった。 「正面で受けろ! 突入はさせるな!」 川島一佐の怒声が飛ぶ。普通科連隊の陣形が即座に再編される。 96式装輪装甲車の後方に隠れる形で、隊員たちが防弾楯(バリスティックシールド)とともに展開。 セミオートライフルの銃口が黒影の列に向けられる。 ──ドオオン! プリマコフ部隊側のAPCから発射された榴弾が広場のアスファルトをえぐる。 土砂と火花、コンクリ片が吹き飛び、隊員たちがとっさに身を伏せた。 「火器使用確認! 国籍不明部隊は明確な敵対行動!」 特殊作戦群は即座に判断を下した。黒木為朝群長は、双眼鏡越しに戦場を睨みつける。 「……やれ。全面制圧だ」
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3 weeks ago
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オーディオドラマ「五の線3」
205.2 第194話「豪雨接敵」【後編】
3-194-2.mp3 金沢駅構内。 アルミヤプラボスディア残党は特殊作戦群によってすでに追い詰められていた。 黒い戦闘服に身を包んだ特殊作戦群の隊員が、サイレンサー付き短機関銃を携え、柱の陰から一人、また一人と狙撃していく。音は小さい。しかし命の消える音だった。 「クリア!」 報告が飛び交う。 その瞬間、ガラスの破片とともに複数の閃光弾(フラッシュバン)が投げ込まれた。プリマコフ部隊だ。 「伏せろ!!」 轟音と閃光。一瞬視界が白く染まり、耳鳴りが世界を支配する。 その中から突入してきたのは、フルフェイスヘルメットと装甲ベストに身を包んだ異形の兵士たち。 その動きは正規軍のそれ。 隊列を崩さず、制圧射撃と突入が同時に行われる。人間ではなく機械が襲ってきたかのような規律と動きだった。 黒木の双眼鏡の奥で、プリマコフ部隊はわずかな合図だけで即座に散開した。 進行線の遮蔽、制圧火力の配置、後続隊の安全な前進ルート確保。どれも理詰めの都市戦教本を忠実になぞるような連携だった。 黒木は息を潜めながら、無意識に呟いた。 「……ソマリアで見た米軍の動きすら彷彿とさせる……」 そこにはツヴァイスタン人民軍らしからぬ洗練された浸透展開があった。自衛隊特殊作戦群の群長としての職業的警戒と、戦士としての淡い賞賛がその言葉に滲んでいた。 黒木の頬に汗が伝う。だが、特殊作戦群は怯まない。即座に反撃体勢へ。 「全隊、散開! 機動分隊は右翼へ。火線確保、交錯厳禁!」 夜の金沢駅構内が銃火と閃光、硝煙と怒号の混じる“戦場”へと変わっていく。民間人の姿はない。 そこには破壊と死しかなかった。 *** 金沢駅東口外周では第14普通科連隊が陣地戦を展開していた。 APC(装甲兵員輸送車)の砲塔が低く旋回し、敵兵の陣地に榴弾を撃ち込む。隊員たちは濁流に削られた歩道やコンクリ片の壁を遮蔽に、小隊単位で斜めのラインを保ちつつ前進していた。 突如、プリマコフ側からRPGの発射音が響いた。 ――シュッ 飛来したロケット弾がAPCの脇をかすめ、爆煙と熱波が周囲を包んだ。 その爆風はなおも強く降り続ける大雨のカーテンを切り裂き、一瞬だけ地形の輪郭を浮かび上がらせた。 破壊されたビルの上階、椎名たちのいる商業ビルからも視認できた。 黒田は咄嗟に頭をすくめ、吉川は無言で双眼鏡を覗き込んだ。 椎名は依然として呆然と携帯画面を握り続けていた。 「RPG確認! 対戦車火器! 自衛、急げ!」 絶叫に近い無線が飛ぶ。だが隊員たちの動きは冷静だった。即座にジャベリン(対戦車誘導弾)の発射準備。狙いを定め、発射。 ──ズオッ! 炎の尾を引いて飛び、敵APCが爆発炎上。黒煙が吹き上がり、戦場全体を黒く包み込んだ。 *** 「群長、プリマコフ本人を確認。駅前交差点中央の車両上」 「狙撃班は?」 「展開済みです」 黒木は無線を握り、短く命じた。 「狙え。」 *** --- プリマコフは無線機の送信ボタンを押したまま、唇を薄く歪めた。 広場で展開する自衛隊の動きは読めていた。彼は迷わなかった。 「――掃討班、駅構内へ。目標は証人の排除。念のための掃討だ」 «Группа зачистки, войти в здание вокзала. Цель — ликвидация свидетеля. Провести зачистку на всякий случай.» 「了解、中佐」 «Понял, полковник.» すぐさま駅構内へ向け、ビルとコンテナ残骸を縫うように灰緑の迷彩服の小部隊が浸透していく。不規則な隊形は遮蔽と射線確保を両立させる理想的な展開。暗闇と雨のカーテンが、彼らの動きを完璧に隠していた。 --- 薄闇に紛れていた敵影が、突然動き出した。 「――2個分隊。約16名。通常の小隊展開ではない。だが統率は極めて高い。」 黒木の無線耳機が、冷静なオペレーターの報告で震えた。 「接敵。北東側ビル群より展開開始。……遮蔽物確保。都市戦訓練済みの動きです」 黒木は短く吐息を漏らす。 「やはり……来たか。」   プリマコフ中佐率いる本隊は、金沢駅東口広場に面したオフィスビルの外壁を背に素早く散開した。 もてなしドームの破壊され尽くされたガラス張りの屋根が爆風で軋み、兵たちの影が張り出した屋根の下に滑り込む。遮蔽物――壊れた車両、倒れた標識、瓦礫。一瞬のうちに戦闘態勢にはいった。 ビル群に降りしきる雨音。だが隊員たちは、濡れたアスファルトの滑りも計算した上で正確な軌道を描いて進んだ。 「ブラックホーク並の連携……」 黒木は思わず呟いた。NATO標準のCQB(近接戦闘)を身につけた者の動き。ツヴァイスタン正規軍にここまでの技能部隊がいるはずがない。つまり――選抜された過激派分遣隊だ。 ** 同時刻音楽堂前広場。 冷たい豪雨が、音もなく地面を叩き続けていた。プリマコフ中佐の命令を受けた偵察分隊の隊員たちは、無言のまま広場の外縁へと散開。照準器の赤いドットが、破壊された駅隣接ビルの黒い外壁にそっと浮かんだ。 ビルの影、瓦礫の中。吉川は黒田の身体を無理やり引き寄せ、自身も瞬時に膝をついて伏せた。 ──パンッ、パンッ! AK系の乾いた発射音。7.62mm弾が彼らの頭上を掠め、崩れかけたコンクリ片を木っ端微塵に砕く。弾痕から水飛沫が爆発する。雨脚は強くなるばかりだった。 「……見つかった!」 吉川が低く呻いた。商業ビルの内部にいた彼らの位置が、音楽堂前の偵察兵によって偶然補足されたのだ。 「動くな、黒田……!」 「な、なんで撃たれてんだ……?」 黒田は恐怖に目を見開き、地面に張り付く。 吉川は冷静に戦況を読んでいた。 (ビル内部に人影――特殊部隊なら“敵性の可能性あり”で即座に撃つ。偶然だが完全に巻き込まれた) (本隊じゃない。接敵は10人以下。先行偵察分隊だ。狙撃兵は……1名。あとは制圧用の突撃兵が3、4名。連携も悪くない……。) 「お前は絶対に顔を出すな。……俺とこいつで切り抜ける」 黒田は震える手で頷くしかなかった。 大粒の雨が銃器にも瓦礫にも容赦なく叩きつける。 吉川は耳元で聞こえる「ザー……ッ」という滝のような降雨音に苛立ちすら覚えた。 ** そのとき。瓦礫の影で気配を殺していた椎名の背中が、不自然に強張る。 視線の先はスマートフォン。画面には土砂災害警報の文字。指先がわずかに震えた。 「……椎名?」 吉川が怪訝な声を漏らした。だが次の瞬間、鋭く乾いた金属的な発射音が耳を撃ち抜いた。 ──パシュッ 「スナイパー!」 吉川が叫ぶ。破壊されたビルの鉄骨柱に命中した7.62×54Rの弾頭が火花を散らせた。 プリマコフ側の狙撃班が支援射撃に入ったのだ。椎名の頭部すれすれの場所に冷たい弾丸の風が通り抜けた。一瞬、椎名の顔が引き攣り、崩れた壁の裏に倒れ込む。 「くそっ……!」 吉川は黒田を抱えるようにして、さらにビル内奥へと滑り込んだ。その瞬間にも空からは無慈悲な豪雨が降り注ぎ続けていた。 ** プリマコフ分隊は前進を開始する。音楽堂前広場 から 商業ビル側への突撃移動だ。 銃口を構え、隊員同士がアイコンタクトで連携。雨の中、ブーツが水溜りを無言で叩き続ける。 「来る……!」 吉川は息を詰めた。 (時間がない。このままではここは包囲される……!) そのとき――椎名の眼光がわずかに鋭く変わった。濡れた床を這うように移動し、視線を戦場の影へと定める。 (……あれはプリマコフの2個分隊。恐らく“掃討部隊”だ。目的は証人の排除……俺か?) 静かに、だが確実に椎名の中の“別の人格”が目覚めつつあった。
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3 weeks ago
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オーディオドラマ「五の線3」
204 第193話「名を呼ぶ者達」
3-193.mp3 バックヤードの暗がりに身を潜めていた椎名の耳に、かすかな破裂音が届いた。 ──パンッ。 静寂を切り裂く、たった一発の乾いた銃声だった。 (……今のは) 椎名は天井に打ちつける雨音と混じる微細な音を聞き逃さなかった。通常の撃ち合いなら連続した発砲音があるはず。しかし、これは単発。それも**明らかに“遅れた一発”**だった。 (……接近戦……?) 一瞬、脳裏に浮かんだのは二人の男の影。勇二とヤドルチェンコ。どちらも死線を渡ってきた戦士。どちらも容易には死なぬ男たち。 椎名の表情がわずかに動く。 (……ナイフか) 経験上、直感がそう告げていた。あの一発は刃の間合いに入り、もみ合いの末、ナイフの切り込みを受けながら撃ち返した者の銃声だった。ヤドルチェンコ。あの男なら、胸を裂かれてなお最後の一弾を敵に向けて放つこともあり得る。勇二の狙いもヤドルチェンコの心臓。ヤドルチェンコの狙いも勇二の急所。互いに譲る気も生き残る気もなく、互いを道連れにする。その凄絶な一瞬が、音となって椎名の耳に届いた。 「……相打ちか」 椎名は静かに呟いた。口元にわずかに浮かびかけた冷笑は、すぐに消えた。ビルの中は機動隊の影すら消え、ひたすらに雨水が崩れた天井からぽたり、ぽたりと床に落ちる音だけが支配していた。まるで死の余韻に包まれたような、静寂。 その中で、遠くから新たな銃撃音が響いてきた。 ──ダダダダッ 一線の乱射。重火器の反響。次の戦いが始まった。 椎名は立ち上がり、そっと呟く。 「ベネシュか……」 濡れたコンクリ片の上に雨が跳ねる。崩れかけた天井から水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音を背に、椎名は立ち上がった。 床に転がる破片を踏まぬよう、慎重に足を進めていたときだった。 不意に、廊下の奥の暗がりから動く影。 椎名も反射的に腰のホルスターに手を伸ばした。 銃口を向けた先、現れたのは吉川。そしてその背後から、やや遅れて黒田。 瞬間、吉川も銃を構え、椎名と互いに照準を重ね合う。 黒田はワンテンポ遅れて銃を抜いた。その構えは、どこかぎこちない。 (……自衛隊か?) 迷彩服に身を包んだ二人の姿を目にした椎名はそう思った。 だが、次の瞬間には判断を終えていた。──まず奥の男を撃つ。それが最適解だ。 銃口を黒田に向けかけた刹那、その黒田がぽつりと呟いた。 「仁川征爾。」 その名を聞いた瞬間、椎名の表情に微かな揺らぎが走る。引き金にかけていた指が、わずかに止まる。 「仁川征爾。俺はあんたを待つ人の言葉を伝えに来た。」 吉川は横目で黒田を見た。何を言い出すのかという一瞬の躊躇の後、銃口を保ったまま、判断を委ねるように動かずにいた。 「……何のことだ。」 椎名が言った。 「瀬嶺村の朽木さんだ。」 椎名の眉が僅かに跳ねた。 「瀬嶺……? くち……き……」 目の奥に、明らかな動揺が浮かぶ。 「俺は朽木さんに言われたんだ。あんたが生きてたら、親父さんのカメラであんたを撮って送ってくれって。もし死んでたら、そのカメラを墓前に供えてくれって。」 椎名の脳裏に、記憶の断片が甦る。 ──金沢で生活を始めた頃。県警本部の一室。定例の聴取に、椎名と富樫が対面していた。富樫は黙って、手元の段ボールをゆっくり開け、中から革巻きの古びたカメラを丁寧に取り出した。 「このカメラ、見覚えあるか。」 革張りのグリップ。真鍮とクロムの質感。椎名は息を呑んだ。 「ニッカ……III。」 「お前の親父の形見や。」 「……どうしてこれを?」 「瀬嶺村の朽木さん、知っとるか?」 椎名は頷いた。 「廃村になったはずだ……」 「ほうや。ほやけどあのじいさん、今でも仁川家を手入れしとる。あんたの帰りを信じてな。」 「俺は……26年前に行方不明になったんですよ。」 「それでも信じとる。信じてとるんや、あんたが生きとるっちゅうことを。」 富樫は静かにカメラを見つめた。 「このカメラは、朽木さんがある男に託したもんや。仁川征爾が生きとったら、このカメラでそいつの写真を撮って送ってくれって。死んどったら、墓に供えてくれってな。」 「……なんでそんな……」 「あの災害を経て、生き残って家に戻らんのは理由があるんやろ。ほんなら無理に征爾には会わん方が良い。ほやけど、姿だけでも見たい…。だから写真だけでいいってな。」 富樫はカメラを差し出した。 「ワシの前におるのは椎名賢明。仁川征爾は死んだ。このカメラは、お前に渡す。」 ──記憶、途切れる。 雨の音が、現実へ引き戻す。椎名は銃口をゆっくりと下ろした。 「まさか……こんな形で……生きているなんて……」 黒田が呟いた。椎名は言葉を発しない。 「……なんで生きてたんだ……」 問いは投げかけられるが、返答はない。 「……こんなだったら、死んでりゃ良かったんだ。」 沈黙。 「死んでたら、相馬は……死ななかった……」 言葉の重さに、黒田の声が細くなる。 「お前が死んでたら……誰も死ななかった……」 消え入りそうな声。 「こんなんじゃ、朽木さんに“征爾、生きてたよ”って……言えるわけねぇだろ……」 吉川は横目で椎名を見た。最初に感じた、尋常でない空気。感情という概念を棄てたかのような男。撃つべきだと、身体の芯が命じていた。 だが今、目の前にいるのは違う。 感情を持ち、過去に囚われている――人間だった。 吉川はゆっくりと、わずかに指先の力を緩めた。しかし、照準はまだ、外していなかった。 爆発音とともに、吹き飛んだ瓦礫の山が火花を散らし、空気を裂いた。金沢駅構内。 ──ヤドルチェンコの亡骸が、血の海の中に沈んでいた。黒い手袋をしたベネシュが、その傍らに立ち、彼の瞳を一瞥すると無言で踵を返す。 周囲には、まるで赤子の手をひねるように蹴散らされたウ・ダバの死体が転がっていた。彼らが正規戦を知らぬ烏合の衆であったとはいえ、瞬く間の制圧だった。トゥマンの機動力と火力が、局所戦でいかに猛威を振るうかが如実に示された現場だった。 その瞬間だった。 「……隊長、見てください。」 部下のひとりが、低く告げる。ベネシュが顔を上げた。 暗がりの向こう、四方八方から忍び寄る気配。 ──防弾装備に身を包み、サイレンサー付きの短機関銃を携えた黒影。 「特殊作戦群……一個小隊か。」 「そのようです。」 ベネシュは眉をわずかに吊り上げた。 配置は完璧だった。出口、通路、コンコース、柱の死角。すべてが塞がれている。 敵ながら、あっぱれ。 「数では五分……。」 ベネシュは一度、仁川に撤退を進言した際、このような状況に置かれることを予期していた。だがそれを承知で残った──敗戦濃厚な戦場に留まり続ける理由は、ビジネスとしての信頼醸成と共に、戦士としての矜持だった。 「前へ出る。」 ベネシュは拳を固め、包囲陣の一点を見定める。 「突破する。援護は──要らん。」 一瞬の沈黙。 部下たちは目を見開いたが、次の瞬間には理解し、位置を変え、彼の進路に視界を与えた。 ベネシュが疾走する。 ──動きはまさに歴戦の獣。 包囲の一点に火線が集まる。その中央に、わずかに生じた“動揺の一瞬”。 特殊作戦群のひとりが、反応の遅れを見せた。 「……抜かれた!」 その一瞬がすべてだった。 ベネシュは滑り込み、低い姿勢のまま制圧射撃を浴びせ、二名を倒し、一瞬の突破に成功した。 ──だが。 その先に現れたのは、林立する銃口だった。 第14普通科連隊。 「構えッ……!」 ベネシュは一瞬、口元にわずかな笑みを浮かべた。 「……やれやれ、これで終幕ってわけか。。」 両脇に銃を構えた兵士たちが包囲を完成させる。 爆ぜる雷鳴が一閃、闇を切り裂いた。 それと同時に、重装甲車両がエンジンを唸らせて通過していった。 第14普通科連隊がベネシュを包囲してから、わずか三分後。 駅北側の旧市街方面から、国籍不明の兵員が突如出現した。 制式化されたカモフラージュパターン。だがどこの軍属とも判別し難い。 ──展開の速さ、遮蔽を意識した進軍ルート、統一された装備。それは紛れもなく、正規軍の動きだった。 「偽装してるが……あれはツヴァイスタン人民軍、正規の山岳猟兵か……」 第14普通科連隊の情報将校が、双眼鏡を下ろして呟いた。 構成人数、およそ一個中隊。ベネシュを包囲していた自衛隊部隊に向け、広場を横断するように弧を描いて進行してくる。 「旗章なし。だが発砲なし……交戦意思の確認も取れていない。」 黒木特殊作戦群群長の横で、無線手が周波数スキャンを続けていた。 そのときだった。広場の中央部で、放置されたSUV車両の上に一人の男が立った。 カーキ色のレインパーカー姿。帽章も階級章もない。背は高く、肩幅は広く、双眼鏡越しにもその目が冷たいのが分かった。 「……あれがプリマコフ中佐。」 黒木の声は低く、張り詰めていた。 すでに情報は櫻井官房長官の指示で共有されていた。 金沢駅構内で民間人を殺害されたツヴァイスタン国籍者(※正確にはアルミヤプラボスディア)を名目に、彼ら“保護”のための部隊が侵入してくる可能性――その主導者が、ツヴァイスタン軍政派の中核であるプリマコフだという事実も。 「発砲の有無に関わらず、これは明確な主権侵害だ」 通信手の背後で、特殊作戦群の群長・黒木為朝が呟いた。 戦場には、既に自衛隊・警察双方の戦力が展開している。にも関わらず、ツヴァイスタン人民軍が部隊単位で介入してきたという事実は、法的にも外交的にも「宣戦布告に近い」。 黒木が部隊無線を握る。 「特殊作戦群、対ゲリラ接触警戒配置。実弾装填済み、第一接敵目標は北東側ビル群」 「了解。群長、許可は?」 「……すでに出ている。櫻井官房長官より“武力制圧を前提とした交渉開始”の大臣承認が下りている」 「……!」 その報告に、空気が一段緊張を増す。 櫻井官房長官はこの時点で、すべてを見通していた。 エレナ・ペトロワが差し出す経済協力と拉致被害者返還カードは、確かに外交上の得点だった。だがその陰で、ツヴァイスタン軍政派がこの好機を潰す動きを見せることも、すでに織り込み済み。ならば――あえてそれを“受け止め”、日本国の正規軍と法執行機関が「排除」することに意味がある。 米国も、中国も、そしてロシアすら見ている。この小さな都市で行われる“即応対応”が、国家の信用を測る天秤となる。 「火線制圧準備……射線交錯区域、すべてマーキング完了」 「奴らの狙いは、駅内部のトゥマンか、あるいはウ・ダバの残党……あるいは、椎名か」 黒木の頭に浮かんだのは、内調の上杉だった。 「敵勢の突入兆候が見られた時点で、完全制圧に移行する。判断は現場指揮官に委任されている」 官邸の意思はすでに固まっていた。そのための役目が、彼らに託されている。 ──金沢駅構内、臨界点に達しようとしていた。
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1 month ago
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オーディオドラマ「五の線3」
203.2 第192話「命令線」【後編】
3-192-2.mp3 その頃、金沢市郊外に設置された第14普通科連隊臨時戦術指揮所。 川島一佐は通信卓の前で、剛直な男の顔をモニター越しに見つめていた。 「黒木群長。機動隊の撤収は完了したとの確認が取れた。」 画面の向こう、黒木為朝1等陸佐――特殊作戦群群長は、短くうなずいた。 口元には無駄な言葉が浮かばない。端的な一礼だけが彼の返答だった。 川島とは防衛大学校時代の同期。互いの才覚と癖を知り尽くしている間柄だった。 だからこそ、今、言葉少なに交わされるやり取りの裏にある“意図”も読み取れる。 「……分かってる、黒木。」 川島が小さく漏らした。 「この投入がただの戦術判断でないことくらい」 黒木もわかっていた。 形式上は陸上総隊の指揮下。 しかしこの作戦において、彼ら特殊作戦群が動く理由は、現場の必要性ではなかった。 命令は、もっと上――政治そのものから降りてきていた。 まるで、戦場を使った一種の“映像”を撮るかのように。 「我々は陸上総隊の指揮下にある……建前としては。だが。」 黒木は画面越しに静かに視線を送る。 その目に、わずかに陰が差した。 「今回はデモンストレーションだ。俺たちがどう動くかで、米国の出方が決まる」 「成功すれば、“同盟”は残る。失敗すれば、“責任”が残る」 川島の言葉に、黒木は無言でうなずく。 「10分後、一個中隊が金沢駅に到着する。」 「待たん。」 黒木が言った。 川島は目を細める。 黒木は静かに言った。 「来る。」 それだけを言い残し、黒木は通信を切断した。 モニターが無音に沈んだそのわずか2分後。 川島のもとに、走ってきた連絡兵が叫ぶ。 「副連隊長! 金沢駅南口で発砲! アルミヤプラボスディアと推定される武装勢力との交戦が開始されました!」 川島は小さく息を吐き、モニターを見つめ直した。 (……待たなかったか) 永田町、首相官邸地下の控室。 テレビモニターには『国営報道チャンネル第1』のニュース番組『ニュースフロント630』のトップ項目が映し出されていた。 「本日午後、天皇陛下による認証を経て、正式に特命担当大臣に就任した仲野康哉氏が、官邸で記者会見を行いました。」……仲野康哉氏の電撃入閣に、各界の波紋が広がっています。」 記者会見場のフラッシュが連続し、マイクを握る仲野の姿が画面に映る。 『国益のために立場を超えた行動が必要なときがある。それが今だ。』 それを黙って見つめていた櫻井官房長官は、ソファにもたれかかる姿勢のまま、微かに目を細めて吐息をひとつ漏らす。 「言ってくれたわね、康哉……」 リモコンで音量を絞った櫻井は、内ポケットからスマートフォンを取り出し、迷いなく番号を押す。 「放送、確認したわ。――柿沼さん、始めましょうか」 数分後、首相官邸地下の応接室。 官房長官の指示を受けた広報室長・柿沼が、すでに政治部デスク陣とのオンライン会議をセットしていた。 スクリーンには、主要報道機関の政治部デスク数名の顔が並ぶ。 「仲野大臣の発言について、各局で解説の角度が分かれるでしょうが――」 櫻井は、画面越しに語りかけるように続けた。 「“国益”と“超党派”という二つのワードを、視聴者に印象づけてください。繰り返しますが、これは党の話ではありません。国家の危機管理の話です」 黙って頷く顔もあれば、わずかに渋る者もいた。 「ここで迷えば、国民は本当に何が起きているのかを見失います。今日のニュースは、事実を伝えるだけでなく、方向を見せる力があります」 通信が切れた後、櫻井は深く息を吐き、椅子に体を預けた。 柿沼が再び端末を手にしたまま、声を潜めて言う。 「官房長官、金沢駅の件ですが……各局とも、そろそろ報道規制の解除時期を気にしはじめています」 「規制は継続。引き続き、速報ベースでの現地映像提供は控えさせて」 「いつまでと?」 「――いずれ」 一拍の沈黙。 スクリーン越しにうかがっていた報道各社のデスクたちが、わずかに視線を交わす。 「ネットメディアではすでに動き出しています。SNSでも現場映像らしき投稿が拡散されています」 櫻井は口元を歪め、薄く笑った。 「で? その情報、誰が裏取りするの?」 その一言に、画面の向こうで誰かが咳払いをした。反論ではなかった。沈黙の了承だった。 櫻井は椅子に背を預けたまま、目を閉じて呟くように言った。 「……騒がせておけばいいわ。本当の戦(いくさ)は、これからよ」 そのとき、控室の扉がノックされ、柿沼が再び顔を出す。 「上杉情報官が到着されました」 「通して」 すぐに、黒のスーツに身を包んだ情報官、上杉靖が入室する。 現職は内閣情報調査室(CIRO)のトップ、いわゆる“内閣情報官”。 元は警視庁公安部出身で、公安畑を一貫して歩んできた。 防衛省や外務省への出向経験もあり、内閣官房全体の動向と現場の情報戦をつなぐ、いわば政権の影の参謀である。警察出身らしく、情報の出し方には慎重さと独特の間合いが滲んでいた 髪を後ろでまとめたその姿には、長年諜報の現場にいた者特有の沈着さと緊張感が漂っていた。 「櫻井官房長官、現地からの情報を共有します」 手元のタブレットを操作しながら、上杉が端的に報告を始める。 「先ほどの爆発から、再度金沢駅エリアにて武装集団とウ・ダバとの交戦が発生。現時点で確認されている死者は民間人含めて数十名、負傷者は多数であり依然その数は不明。特殊作戦群の再投入準備は完了。第14普通科連隊が金沢駅に向かっており、10分後には到着の予定です。」 櫻井は黙って耳を傾ける。 「……武装集団の正体は?」 「アルミヤプラボスディアの残存勢力と断定するには時期尚早ですが、使っている火器、戦術、動線……すべて過去に自衛隊が把握していた傭兵部隊と酷似しています。」 「意図的な攪乱と見ていいわけね。」 上杉は静かに頷く。 「はい。しかも、彼らは“見せに来ている”。これは偶発ではなく、仕組まれた公開戦だと自衛隊からの報告です。」 櫻井は薄く目を閉じた。 「……黒木群長には、わたしからすでに次の可能性について伝えてあるわ」 「ならば、おそらく数分以内に火蓋が切られます」 「かまわない。報道はまだ抑える。映像が本格的に流れるのは、“結果”が出てからでいい」 上杉はタブレットを操作しながら、さらに一報を続けた。 「加えて、特殊作戦群の投入が成功した場合――米国政府からの公式対応が準備されています。ワシントンとの調整は内調と外務省を通じて完了済み。成功の報が入れば、即座に米国大統領が日本国民に向けた“哀悼と連帯の声明”を発出。加えて、在日米軍の支援態勢に関する確認文書が同時に官邸へ届けられます」 「……安全保障への再定義、というわけね」 「政治的には大きな意味を持ちます。日本が自らの手で一定の抑止力を示せるか、という問いへの――“答え”として」 櫻井は静かにうなずいた。
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オーディオドラマ「五の線3」
203.1 第192話「命令線」【前編】
3-192-1.mp3 時刻は18時半をまわっていた。金沢駅構内で銃撃が始まってから、わずか一時間余りしか経っていない。それにもかかわらず、公安特課の指揮所はすでに機能不全に陥っていた。 屋内照明は最低限の明るさを保っていたが、それが逆に空間をくすませ、陰影を濃くしていた。室内は静まり返っており、誰一人として声を上げない。キーボードの打鍵音も止まっていた。 室内中央――長机の前で、片倉がぼんやりと立ち尽くしている。かつての県警警備課長であり、今は特高班長でこの部屋の司令塔だったはずの男。だが今の彼は、魂だけがどこかへ抜け落ちたかのように、空気すら裂かぬ存在と化していた。 ──相馬。古田。富樫。 部屋にいた者たちは誰もその名を口にしなかったが、全員が理解していた。この短時間で、公安特課の中核が三人まとめて“喪われた”のだ。誰が、どうやってという追及はなされなかった。それどころではなかった。問題は“人の死”ではなく、“組織の首”が抜かれたという事実だった。その衝撃が、現場全体を麻痺させていた。 「……なんだ、このザマは」 静寂を最初に破ったのは、百目鬼だった。彼は長机の端に両手をつき、わざと音を立てて指を鳴らした。 「おい、聞いてんのか。片倉」 返事はない。 「見ろ。誰も指示を待っていない。誰も命令を出そうとしない。……貴様が黙っていると、組織ごと沈むぞ」 それでも片倉は動かない。眉ひとつ動かさず、まるでそこに“自分の不在”だけを置いているかのようだった。 だが、その目が一瞬だけ動いた。 百目鬼の声に反応するように、わずかに視線を落とし、机の上に置かれた無線端末に視線を留めた。 意識の奥底で、何かが再び呼び起こされようとしているのかもしれない。 それは、指揮官としての責任か。それとも、仲間たちを喪った後に残された、最後の矜持か。 数秒の沈黙。 そして、百目鬼の舌打ちが乾いた音を立てて響く。 「チッ……!」 その音が、この場における唯一の命令だった。室内の空気が一瞬だけ震える。しかし、行動に移る者はいない。 百目鬼は内心で理解していた。 (……終わっている。ここは、もう指揮機能を失ったも同然だ) いくら吠えても、骨が抜けては動かせない。 そのとき、通信卓の端から短く電子音が鳴った。 「自衛隊です。第14普通科連隊より、公安特課指揮官宛に緊急回線が入っています」 百目鬼が振り返るより早く、通信士が続けた。 「通信内容は“作戦行動の同期と確認”。至急、現況を確認したいとのことです」 片倉は、その言葉にも反応を示さなかった。百目鬼は舌打ちを飲み込み、指揮机の端に手をかける。 (……結局、俺が答えるしかないのか) 県警本部の中は、あまりに静かだった。窓の外に見える空は夕焼けに染まり、数キロ先で起きている銃撃戦の気配すら、ここには届かない。まるでここだけが、戦場から切り離された異界のようだった。 百目鬼はゆっくりと通信機を手に取った。握りしめた手のひらに、汗がじっとりとにじんでいる。まるで、それが爆弾ででもあるかのように、慎重に。一呼吸置いてから、彼は通信機を耳に当てた。 沈黙。 次の瞬間、低く抑制された声が耳元に届いた。 「こちら第14普通科連隊副連隊長、川島一佐。百目鬼理事官に通話を求める」 「……こちら百目鬼。応答せよ、川島一佐」 「貴官が金沢駅周辺の公安作戦を統括していると認識している。直ちに機動隊全隊を金沢駅構内から撤収させよ。再度命じる。即時撤収を要請する」 「……既に当方は、撤収命令を下し、現場には誰もいない」 「貴官の判断は、結果として正しかった。以後の行動にも反映されるはずだ」 わずかにトーンを緩めた川島の声に、百目鬼は疑念を返す。 「なぜ今、撤収なんだ……」 「……質問に答える義務はない」 きっぱりとした口調だった。 川島は続けた。 「現在、政府より防衛出動が下令され、公安特課を含む現地治安部隊は自衛隊の指揮支援下に組み込まれている。従って、本命令は法的・実務的に正当なものだ」 その言葉の裏に、百目鬼は何かを感じ取った。 規律と論理で塗り固められた声の奥に、ほんの僅かな躊躇と、そして焦りのようなものが混じっている。 それは、軍人としての建前では覆いきれない“何か”を隠している気配だった。 まるで、川島自身が語れない作戦の全貌を知っており、あえて目を逸らしているようにも聞こえた。 彼の言葉には、どこか“段階を踏んだ手順”のような含みがあった。 あらかじめ定められた進行をなぞるかのように、撤収、指揮移譲、そして次なる段階へと静かに物事を運んでいる。 百目鬼は直感的に思った。 (……これは、すでに用意されていた“計画”なのか?) いや、川島自身がそのような全貌を知っている立場とは思えない。 だが、彼に下された命令そのものが、まるで“本命”を覆い隠しながら進めるよう設計されているかのようだった。 まるで、何者かがこの混乱の中に意図的な秩序を紛れ込ませているように。 「……了解」 百目鬼は短く答え、顔をわずかにしかめた。 そのとき、視界の端でわずかに動いたものがあった。 片倉だった。 彼の視線が、再び無線端末に向けられている。 眉間には微かに皺が寄り、かすかに顎が引かれていた。 それは命令の内容を咀嚼し、何かを再構築しようとする者の表情。 百目鬼はそれを見逃さなかった。 刹那、片倉のポケットに入っていた私用端末が震えた。 自動転送されたメールの着信だった。 彼は反射的に手を伸ばし、画面を見つめた。 送信者は――京子。 テキストは短かった。 《周が死んだ……もう、分かってる。 だけど、あの人が命を懸けていた意味を、無駄にしたくない。 父さん、あなたが何を知ってるかは聞かない。でも、逃げないで。 私も逃げない。だから、今度は一緒に立ってほしい。》 その一文が奇妙な重みをもって空気を揺らした。 文字を追う彼の目元に、沈黙の内側から射すような光が差す。 わずかに身じろぎした。 まぶたが動き、呼吸が深くなる。 椅子の肘掛けに添えられた手が、確かに力を帯びていく。 百目鬼は、横目で片倉を見た。 全身の輪郭に、再び意志の線が描かれ始める。 まるで、全身がゆっくりと再起動していくように。 片倉の喉がわずかに動いた。 低く、掠れた声が漏れ出す。 「……各班、即時再配置。通信網の再起動を確認。指揮系統、片倉に集約する」 室内の空気が揺れた。 沈黙していた隊員たちが、一斉に顔を上げる。 百目鬼は小さく目を見開いた。
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オーディオドラマ「五の線3」
202 第191話「死者の眼」
3-191.mp3 ――銃声が、響いた。 その一発で、すべてが終わったと、誰もが思った。 だが、それは、始まりに過ぎなかった。 --- 瓦礫の隙間。崩れた鉄骨の陰から、黒く濡れたコンクリの地面に赤い滴が広がっていく。 勇二は膝をついていた。視界がゆらぎ、息がうまく吸えない。 「……あ……?」 指先が、胸に添えられていた。だがそこには、鋼板の感触ではなく、熱と柔らかな液体――血があった。 撃たれたのは自分だ。理解に数秒かかった。 正面には、ヤドルチェンコ。その身体は低く、銃は腰だめのまま。眉間に深い皺を寄せ、口元にはまだ煙が立ちのぼる。 迷いも、ためらいもなかった。 ただ、静かに、殺しに来ていた。 --- 勇二は、何度か立ち上がろうとした。 だが、脚が言うことをきかない。片膝で支えようとしたが、折れた膝が音を立てて崩れた。 砂埃が舞う。 (こんなものか……) 思ったよりも、死は静かに近づいていた。 これまで何人も殺してきた。それでも、一度たりとも悔いたことはなかった。 椎名に命じられれば、どんな命でも奪った。 そこに思想はなかった。あるのは任務と、命令への従属だけだった。 だが、ヤドルチェンコは違う。 目の奥に燃えていたのは、生存への執念。この地に来る前に、幾つもの戦場を生き抜いてきた証だ。獣の眼光。 勇二は思った。 (この男を甘く見ていた……) 襲いかかったのは自分の方だったはずだ。それでも、先に弾を通したのはヤドルチェンコの方だった。 「……やるな……」 そう呟いた声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。 肩に背負っていたサブマシンガンが滑り落ちる。指が引き金を探していたが、もう何も掴めない。 (少佐……) 脳裏に浮かんだのは、ただひとり。 殺しの意味を問わなかった主。必要なときにだけ現れ、命じ、そして消える。 冷たい男だった。だが、勇二はそれを信じていた。 (あんたの駒として……悪くなかった) 倒れた身体は、もう動かない。だが、眼だけは開いていた。 ヤドルチェンコの姿を、最後まで見ていた。 自分を殺した男の、その目を。 --- そのわずか数秒後。 Scopeの先で、何かが崩れているのが見えた。卯辰一郎はスナイパーライフルのレンズ越しに、その影を追った。 人影だ。肩に走る血が見える。 「……なん、だ……と……」 無線が入った。 「一郎、聞こえるか。」 「はい、一郎。」 「――相馬、落命。公安特課から連絡が入った。」 一瞬、音が消えたように感じた。今まさに、自分がScopeで見ていたものと、報告が重なる。 死が、現実になった。 「……Scopeの中に、倒れた男……相馬です……」 「やはりか……。」 神谷の声が重く沈んだ。 「撃ったのは――椎名だ。」 「椎名……?」 聞き慣れない名だった。 「公安特課に所属していた。だが、その正体は仁川征爾。オフラーナの元工作員だ。」 「仁川……?」 名前すら初耳だった。 「奴は警察と取引し、協力者として作戦に加わっていた。だが……その裏ではテロを止めるどころか、首謀者そのものだったらしい。」 「……」 一郎は言葉を返せなかった。理解しようとしても、情報が多すぎた。 「椎名はもう現場から姿を消した。今は吉川が追っている。」 --- Scopeの中に映る相馬の死体。肩口の傷から流れる血は、もはや動きを止めていた。蒼白な顔。開かない目。冷たい雨にさらされながらも、表情だけが妙に静かだった。 一郎はゆっくりとスコープから目を離した。深く息を吸う。酸素が肺に入っても、心拍は乱れなかった。 きわめて事務的。 きわめて合理的。 戦場に感情は不要だ。無線の向こうにいる神谷も、自分と同じ“感情の殺し方”を知っている。死は悲しみではなく、“情報”でしかない。重要なのは、次に撃たれないこと。それだけだ。 一郎は雨に濡れたレンズを親指で拭い、曇った息を吹きかける。何も考えず、何も感じないようにして、次の動きを探ろうとした――その時だった。 感覚が爆ぜた。 背中に粘つくような視線。空気が変わった。“誰かが、こちらを狙っている”。 (……この感じ……) かつてのアフガン。夜間の斜面。味方部隊の背後から、ひとつ、またひとつと消えていく影。 撃たれた音は聞こえなかった。誰も、何も見ていないはずだった。だが、気づけば隣にいた兵士がいない。一郎はその時、初めて知った。 「戦争には“音”がないことがある」と。 ムジャヒディーン。忍びのように潜み、音もなく殺す戦士たち。視線を感じたときには、すでに狙われている。引き金が引かれるのを察知した時には、もう脳漿が地に広がっている。 そこにあるのは、兵士の強さではない。**人間の本能を突き詰めた“獣の知性”**だった。 (……いる。ここに“あの手”の奴が……) 背筋が凍りつく。皮膚の下で、血管が細く収縮する感覚。 その一方で、胸の奥に微かな熱が灯る。 (――来る!) 即座に伏せ、転がる。身体を地面に押しつけるようにして回避。 その瞬間―― ヒュッと、何かが風を裂いた。 (――狙撃……!) わずかでも反応が遅れていれば、即死だった。 冷汗が流れる。 地面に這いつくばりながら、手探りで鏡を取り出す。スコープの代わりに、それで2時方向のビルの隙間を確認。 そこに、いた。 迷彩服の肩が揺れる。覗いている。こちらを。 「……スナイパー……!」 すぐさま反対側の瓦礫に身を潜める。 (単独か? ) その瞬間、さらに銃声。 「パーン!」 続けて、乾いた連射音。 「パパパパン!」 もう一人いた。 ――違う、部隊がいる。 組織的な火力。しかも、精密な照準。狙撃手だけではない。 「……アルミヤプラボスディア……!」 一郎は呟いた。脳裏をよぎるのは、あの特有の戦術――「制圧と奇襲の同時進行」。 ベネシュ率いる“トゥマン”が動いている。 彼らが狙うのは―― ヤドルチェンコ。 --- 【191話後半挿入:ベネシュとヤドルチェンコ】 勇二の死体を前に、ヤドルチェンコは肩で息をしていた。 「"Глава!"(頭領!)」グラーバ 側に居た付き人がヤドルチェンコに駆け寄る。 「問題ない。これしきの傷。」 胸の内側で何かが切れたのか、呼吸するたびに痛みが走る。それでも銃は離さなかった。 血まみれの手で銃を握り直し、倒れた勇二の足元を睨む。 「この俺が深手を負うとは……なんて奴だ……」 だが次の瞬間、背後に違和感を感じた。 “音”ではなかった。“空気”だ。 兵士の本能。戦場の獣だけが察知できる“何かの気配”。 ヤドルチェンコは即座に体を反転させた。 ――遅かった。 瓦礫の上を這うようにして現れた、迷彩の一団。無音の動き。訓練された連携。風景に紛れるようにして接近していた影。 ベネシュ率いる**アルミヤプラボスディアの特殊部隊「トゥマン」**が、包囲を完成させていた。 「Открыть огонь. 撃て」 「Так точно了解] 銃声。 ヤドルチェンコはとっさに身を翻し、着弾を避けた。右脇腹にかすめる一発。だが致命傷ではない。 即座に反撃――脇差しのように隠していたMP9を抜き、数発を連続で撃ち込む。 チョールト トゥマンの兵士が一人、喉元を押さえて崩れた。だが、それすら計算のうち。 「動きは鈍い。怪我人だ。やれ。」 ベネシュが再度指示を出す。周囲の兵士が一斉に移動。あらゆる角度から包囲し、手榴弾を放り込もうとする。 「まだ終わってねぇぞ……!」 ヤドルチェンコは背後にいる自らの部下、ウ・ダバ残党に叫ぶ。 「За кровь и пепел!!」血と灰のために! ウ・ダバの男たちは、それを合図に飛び出した。 「За кровь и пепел!!」血と灰のために! 血と灰のために。それが彼らの“唯一の言葉”だった。 信仰ではない。理念でもない。死と破壊だけを、命じられていた。 その顔には、笑いも怒りもなかった。ただ、無。 だが――愚かだった。 ベネシュは冷たくつぶやいた。 「思想で銃弾は止まらん。」 トゥマンが一斉に掃射。 ウ・ダバの男たちは、信念とともに崩れ落ちた。誰ひとり、接近すら叶わなかった。 「……見たか、ヤドルチェンコ。」 ベネシュが歩み寄る。 「これはもはや戦争ではない。“清掃”だ。」 ヤドルチェンコは、体を支える力を失いながらも、目だけは逸らさなかった。血まみれの唇が、ゆっくりと動いた。 「お前……本当に……民間か?」 ベネシュは答えなかった。 「違うな……。その動き、支援体制、火器。……背後にツヴァイスタンがいる。いや……ロシアだろう?」 ベネシュの目が一瞬だけ揺れた。だが口元には、何も浮かばない。 ヤドルチェンコは、かすれた声で続けた。 「俺は……国家から抜けた。……腐った中枢と距離を置いた。だが……お前らは違う……。自分を民間と呼びながら、国家の飼い犬だ……」 乾いた咳。 それでも、言葉は止まらない。 「命令を受け、実行し、報酬を得る。それで満足してるんだろうが……」 「……その眼の奥、お前はもう気づいてる。 この先、“国家の狂気”が、お前の足を離さない。 “プロ”でありたいなら、もう降りろ。 さもなくば――いつか、お前も、誰かに見抜かれて殺される。」 沈黙。 ベネシュは、銃を構えたまま、ただその言葉を聞いていた。 「……忠告は……要らんか……。なら、撃て。」 ヤドルチェンコの目は、死の直前にも怯えなかった。 ベネシュは、引き金を引いた。 銃声。 そして、すべてが終わった。
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オーディオドラマ「五の線3」
201.2 第190話「記憶と濁流」【後編】
3-190-2.mp3 駅前ロータリーは、黒い水に沈んでいた。 空からは、まるで恨みでも込めたような雨が断続なく叩きつけてくる。 アスファルトに打ちつけられる粒は、もはや雨音というには激しすぎ、まるで砕けた硝子の雨のようだった。 勇二は傘も差さず、その中に立っていた。 髪から雫が伝い、首筋を這う。 視界の前には、火災の名残を濃く漂わせる黒煙が、雨によって引き裂かれ、地表に押し込められていた。 駅舎の外壁には消火後の焼け跡がくっきりと残り、そこを這うように水が流れている。 鼓門は既に半壊し、足元にはその破片が散らばり、雨水に浸って光を歪めていた。 勇二はゆっくりと目を細め、かつて「玄関口」と呼ばれたその風景を一瞥する。 だが、そこに懐旧の色はない。ほんの一瞬の沈黙を置き、彼は歩き出す。 足元から立ち上る水しぶきが、黒いズボンに染み込み、コートの裾を重たくさせる。 それでも彼の歩みは崩れない。雨の音にも、ぬかるみにも、目を細めることなく進む。 地下駐車場の入口へ降りる階段では、鉄製の手すりを伝って雨が滝のように落ちていた。 その流れに濡れることもいとわず、勇二は躊躇なく足を踏み入れる。 奥まった通路にたどり着くと、そこには一台の黒いSUVが静かに停められていた。 ナンバープレートを確認し、勇二は小さく頷く。 ロシア領事館外郭団体が使う車両。GPSは間違っていなかった。 まさにそのとき―― 助手席のドアが開いた。 長身の男がゆっくりと姿を現す。 濡れた金髪。深くフードを被らず、濡れるままに立つその姿。 雨に打たれても、どこか悠然とした立ち振る舞い。 ヤドルチェンコ。 勇二は数メートル先の闇の中から、それを見下ろしていた。 表情は変えない。心拍も一定。呼吸は静かで浅い。 だが、雨の音の中で彼の指先が、ポケットの中にあるナイフの柄をそっと確かめていた。 一歩、また一歩。 降りしきる雨が、勇二の存在を覆い隠すかのように激しさを増していく。 まもなく、獲物は振り返る。 その目に映ったのは、ただの通行人か、それとも死神か。 ヤドルチェンコの眉が、わずかに動いた――
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オーディオドラマ「五の線3」
201.1 第190話「記憶と濁流」【前編】
3-190-1.mp3 廃墟となったコーヒーチェーン店の裏手、崩れた冷蔵什器の陰で椎名はじっと雨音に耳を澄ませていた。 雨がコンクリートを叩き、遠くで崩れ落ちた什器が金属音を鳴らす。焦げた臭い、土と鉄の匂いが鼻を突き、胸に広がる。彼はふと目を閉じ、静かに記憶をたぐった。 土の匂い、鉄の味、そして水の音―― 椎名の脳裏には、20年前の記憶が容赦なく押し寄せていた。 近畿地方の山奥。 仁川征爾が高校の写真部として泊まっていた山村で、深夜に土石流が襲った。 カメラバッグを抱えたまま、彼は眠っていた畳の上から突き飛ばされ、壁に頭を打ちつける。直後、濁流がガラス戸を破り、家ごと飲み込んでいった。 「たすけて!」という叫び声。 母のように接してくれた宿の女将の声だった。 炊事場の鍋が鳴る音、家畜の鳴き声、何かがぶつかる音、泥が襲いくる轟音。 助けなど来なかった。 夜が明けたとき、生き残っていたのは仁川ひとりだった。 冷たい水に打たれながら、全身泥にまみれ、呆然と立ち尽くしていた仁川。 その時、崩れた母屋から少し離れた裏手の小屋から、青年が現れた。 歳の頃は自分と同じくらいだろうか。彼は当時、民宿で雑用係として働いていた青年で、奇跡的に別棟で寝泊まりしていたことで難を逃れていたようだった。 「おい、大丈夫かい……君の名前は?」 仁川は震える声で答えた。 「……仁川、征爾……」 その青年――(矢高)は、その名を聞くと目を細めた。 「僕は○○。○○○○だ。」(ごにょごにょにする) 青年は仁川に水を与え、服を乾かし、平静を取り戻させようと尽くした。 そして仁川の様子が落ち着いたようだと確認すると、ふと虚空を見つめながら、ある決意を固めた。 「ここで少し休んでて。」 こう言って青年は仁川を山中の廃屋に匿った。そして仁川は男たちに囲まれた。 「君が、仁川征爾か」 こくりと頷くと袋を被せられ、そのまま仁川は貨物トラックに押し込まれた。 証拠隠滅のため、彼の生存の証となりそうな者は抹消され、仁川征爾という存在は、日本から完全に消された。 次に目を覚ました時には、船の甲板の上。荒れた海を越え、到着したのは異国の港。 ツヴァイスタン人民共和国。 そこから始まるのは、地獄だった。 仁川は、敵国のスパイの血を引く者、反動分子の家系として「収容再教育所」に送られた。 極寒。暗所。赤茶けた鉄格子の中、石鹸もなく、同房の男たちが食い物と暴力で立場を争う世界。 唯一の救いは、仁川が言葉をすばやく覚えたことだった。 ある日、再教育所に来た党の幹部――肥満体で、柔らかい声を発する男に呼び出された。 「この写真を撮ったのは、お前か?」 仁川のカメラに残っていた風景写真。 「いい目だ……。 芸術を愛する者は……寛容を知る」 その幹部は、歪んだ美意識と欲望を併せ持っていた。 子どものような顔立ちの仁川は、すぐにそれに気づいた。 抵抗する術はなかった。 だが仁川は、すべてを“利用”した。 痛みも、恐怖も、耐えた。 日を重ねるごとに、幹部は仁川を「芸術的な感性を持つ者」として上層部に紹介し始めた。 絵画の修復、文化遺産の記録、そして「芸術保全任務」――その裏には情報工作があった。 屈辱と怒り。 それが彼の芯を焼き、鋼のような冷静さを育てた。 仁川は徐々に、“利用される者”から“利用する者”へと変貌していった。 --- ある晩、幹部が別の少年に同じ行為をしようとしたとき、仁川はそれを密告した。 幹部は「人民の敵」として即座に粛清された。 その冷徹な裏切りを評価したのが、秘密警察オフラーナだった。 仁川はオフラーナへスカウトされ、粛清・監視・浸透工作の技術を叩き込まれた。 その中でも群を抜く才覚を見せた仁川は、やがて人民軍直属の戦略諜報部――プリマコフ中尉の目に留まった。 プリマコフは、表向き忠誠心に満ちた軍人だった。口を開けば党への感謝、国家への忠誠を口にし、いかにも典型的な「政治将校」の顔を持っていた。 だが、仁川の目はその奥にある別のものを見逃さなかった。 プリマコフは軍人として戦場を渡り歩いた男ではない。 彼は政治の水脈を読み、忠誠と媚びを巧みに使い分けて這い上がってきた類の人間だった。 そして、その出世志向の野心は、まだ軍内部では露見していなかった。むしろ今は、軍内部で「将来有望な中堅」として出世コースに乗りつつあった。 プリマコフが自分を見いだした理由も、仁川には察しがついていた。 彼は、秘密警察オフラーナの暴走を牽制するため、情報網を軍の手中に収める必要に迫られていた。 オフラーナ内部から密かに情報を引き抜き、裏から締め上げる駒――それが必要だった。 だからこそ、オフラーナで育ち、粛清の技術も知り、なおかつ冷酷無比な仁川を引き抜こうとした。 仁川は迷わなかった。 国内治安組織に留まるよりも、対外工作を担う軍組織に属したほうが、国外脱出の道が開かれる。 何より、プリマコフに取り立てられれば、その背後に控える党幹部たちの目にも留まる可能性がある―― それは、絶望的なツヴァイスタンの檻から抜け出すための、わずかな光明だった。 仁川は、あえてプリマコフの思惑に乗った。 その意図を悟られぬよう、従順な部下を演じながら。 復讐のために、すべてを飲み込む覚悟を胸に、彼は静かに人民軍の潜入スパイへと身を沈めた。 椎名は目を開ける。 外は変わらず雨だ。 「雨と言えば、あれも今日みたいな雨だった…。」 彼はふと、別の記憶を思い出していた。 それは金沢の、とあるスーパーマーケット。 公安特課の監視下の中で、椎名賢明として金沢で生活をしはじめたときのこと。 レジを終えてサッカー台で商品を詰めていた椎名の隣に、男がさりげなく近づいてきた。 「この雨はいつ止むんだ…。」 それだけを言い残して、男は足早に去っていった。 椎名はすぐに反応した。その言葉は、ツヴァイスタン軍の連絡用暗号の一節だった。 その時は確信できなかった。しかし数日後、別の接触があった。 古びた駐車場の自販機の裏、受け取った封筒の中には、真新しいICレコーダーとメモ。 メモに書かれていたのは、かつて濁流の夜、泥まみれの彼に初めて声をかけた言葉だった ――「……君の名前は。」 その言葉の下に、小さく添えられていた名。 『yataka』 「僕は○○。○○○○だ。」(ごにょごにょにする) 「僕は矢高。矢高慎吾だ。」 一瞬、時が止まったようだった。記憶の底に沈んでいた名前と、今目の前にある文字が、ぴたりと重なった。 椎名――いや、仁川征爾の胸に、長く封じていたあの夜の感触が甦る。泥にまみれ、凍えながら差し伸べられた手。 そして、あの声の主が、今なお“任務”の名のもとに、自分と繋がっているという事実。 「俺は奴に救われ、そしていま奴に命を握られている…。」 椎名は、静かに笑った。 「めぐり、めぐるものだな……」 冷え切った空間の片隅で、椎名は小さく息を吐いた。 「……誰も、助けてなんかくれなかった」 それが真実だった。 ツヴァイスタンに渡ってから、ずっとそうだった。 再教育所で暴力と飢えに晒され、ただ生きるために牙を研いだ。 幹部に取り入ったのも、情報屋として頭角を現したのも、 生き残るための選択肢がそれしかなかったからだ。 アナスタシアを守れなかったこと。 それもそうだ。守ろうと思った瞬間には、すでに彼女は連れて行かれていた。 自分の意思で裏切ったわけではない。 だが、止めようともしなかった。止められなかった。 それは変わらない。 「あれで全部だったんだ」 あの日を境に、仁川の中で「希望」という言葉は、意味を失った。 粛清。密告。潜入。 自分を拾い上げた連中を、裏切ることで階段を登っってきた。 そこに情はない。 あったとしても、見せたら殺される。 だから、見せなかった。 だから、生き残れた。 それでも、忘れられないものがあった。 それはアナスタシアの目だ。 何も言わずに、ただ黙ってこちらを見ていた。 その視線がずっと頭にこびりついている。 「……誰も彼女を助けなかった。俺も」 そして、彼女だけじゃなかった。 あの国にいた誰もが、誰にも助けられなかった。 むしろ、誰かを犠牲にしなければ、生きていけない構造が、そこにあった。 それが、あの国家だった。 「壊すしかない。もう一度、地ならししないと意味がない」 仁川がそう考えるのは、怒りだけが理由じゃない。 今さら取り戻せるものがないからだ。 正義とか、信念とか、そんなものはとっくの昔にどこかへ消えた。 残ったのは、焼けた瓦礫の上で、どう“決着”をつけるかだけ。 「日本も同じだ。」 ツヴァイスタンから帰ってきたとき、日本の警察は「保護」ではなく「監視」をした。 自分がどうして帰国できたのか。 あの災害で“死んだことになっていた”はずの人間が、何食わぬ顔で戻ってきたというのに、誰も疑問を抱かなかった。 あえて言えば、抱かなかったのではなく、抱かないようにしていた。 「そうやって、全部を忘れるのか。」 だから思った。 忘れられない出来事を、もう一度この国に突きつけてやる。 記録に残らない事件を、記録せざるを得ない規模に変えてやる。 それが、椎名にとっての「帰還」の意味だった。 彼にとって復讐とは、誰かへの罰ではない。 国家の構造そのものに対する、報復であり、再定義だった。 ---
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オーディオドラマ「五の線3」
200 第189話「追撃開始」
3-189.mp3 瓦礫の山が散乱し、破れた天井から滴る雨が打ちつける―― 焦げた金属の匂い、湿った埃の匂い、濃密な死と破壊の残滓が入り混じるその空間を、吉川と黒田は慎重に進んでいた。 踏みしめるたびに砕けたガラスが軋み、ぬかるんだ床が靴底に重く絡みつく。 外から漏れ込む薄い光が、崩れた什器の隙間をぼんやりと照らし、無人のはずの空間に幻のような影を落とす。 吉川は銃をわずかに前に構え、黒田は唇を噛みしめながらその背を追った。 無線機から小さく音が鳴った。 「こちら商業ビル班、全員撤収完了。最終確認区域を除き、退避完了」 吉川はそれを聞いて無言で頷いた。 「これで……この廃墟に残っているのは、俺たちと椎名だけか」 黒田が低く呟く。 ビルの崩壊と爆発により、あらゆる出入口が遮断されつつある。 戦場の中心だったこの商業ビルは、いまや奇妙な静寂に包まれていた。 どこかで水が滴る音。 どこかでガラスが緩く軋む音。 そのすべてが、緊張を濃密に塗り重ねていく。 吉川は壁に背を預け、瓦礫に足音を沈めながら進んだ。 床には湿った足跡。雨に濡れた服をどこかで脱ぎ捨てたような痕跡も残る。 「……やはり、奴はこの建物の中にいる」 吉川は言葉にはせず、心の中で確信を深める。 この廃墟は静かすぎる。静かであるがゆえに、椎名の影がどこに潜んでいても不思議ではない。 黒田は拳を握りしめながら、息を潜めて吉川の後ろを進む。 いつ、どこで、何が起きてもおかしくない空間。 闇と静寂の中に、次に何が飛び出すかは誰にも予測できなかった。 --- 一方その頃、金沢市内の警察署。 仮設の一室に保護されていた片倉京子は、無言で椅子に座り込んでいた。 天井を見上げるでもなく、誰かに話しかけるでもなく、ただそこにいるだけの存在のように見える。彼女の胸の中では、上司であった三波の死が何度もフラッシュバックしていた。 そしてもう一つ、どうしても拭えないのが相馬の安否だった。 「…周……。」 放心した彼女の視線が、ふと机の上に置かれた自分のスマートフォンに向いた。 虫の知らせか、あるいはただの偶然か。無意識にその画面に手を伸ばすと、未読のメッセージが一件表示されていた。 降りしきる雨の中、SATの服を着て瓦礫の中でたたずむ男の画像。 「だれ…これ…。」 それに続く相馬からのメッセージは 「こいつは仁川征爾。椎名賢明なんかじゃない。」 「仁川……?椎名……?」 京子は眉をしかめた。 そして彼女は、ふと遠い記憶を手繰り寄せる。 ——そう、あの打ち合わせの日。 ボストークの会合。 椎名賢明。どこか影を帯びた男だった。 そのときの冷たい視線、わずかに微笑んだ口元。記者としてではなく、ただの人間として、京子はあのとき既に何かを感じ取っていたのかもしれない。 「なんで椎名さんがこんなSATの格好?……仁川……? 誰それ……。」 聞き覚えのない名前。戸惑いながらも、彼女の視線は部屋の隅に置かれた自分の一眼レフカメラに移った。 その瞬間、胸の奥にしまい込まれていた記憶がよみがえってくる。 ――6年前のあのとき、『ほんまごと』で読んだ記事。 福井県の瀬峰村出身のカメラ愛好家の少年、仁川征爾。 高校生の頃、写真撮影のため近畿地方へ遠征しているときに土石流災害に遭った。 彼はそのまま行方不明のまま。 そして――彼の名前はその後、別人の戸籍として背乗りされ、今の日本に現れた。 「仁川征爾は私の兄。下間悠里よ。」 あのとき長谷部が運転する車内で、下間麗が語ったツヴァイスタンによる冷酷な背乗り。 当時の記憶が今、相馬のメッセージとつながった。 「仁川征爾……」 その顔を自分はどこかで見ていた。 ボストークで膝をつきあわせた男。 そうだ。 あれが「椎名賢明」と名乗っていた男の正体。仁川征爾。 驚愕と同時に震えが込み上げてくる 断片的な情報と、椎名の顔、声、態度――あらゆる記憶が一気に結びついた。 「……あの男が……」 理解と驚愕が同時に胸を貫く。 そのとき、さらにもう一つの通知が届いた。 【音声ファイル受信:相馬周】 震える手でスマホを握りしめ、彼女はそれを耳に当てる。再生ボタンを押す指が小刻みに震える。 『京子……いままで……ありがとう……』 たったそれだけの言葉。 だが、それだけで全てを悟るには十分だった。 京子は言葉を失い、スマホを震える手で胸元に押し当てた。 「そんな……嘘……でしょ……」 彼女の目から、静かに涙が落ちた。 --- その頃、椎名は廃墟と化した商業ビルの一角にいた。勇二に矢高の抹殺を命じた後、さらなる破滅の道筋を描こうとしていた。 「確実な破滅が必要だ……」 ふと目が止まったのは廃墟となったコーヒーチェーン店の内部。数時間前まで多くの人で賑わっていた場所だ。 コーヒーマシンを目にした瞬間、脳裏に浮かんだのは片倉京子の姿だった。ボストークの店内で仕事の打ち合わせをしていたあの日―― 彼女の存在は、自分のようにどこにも居場所がない男に、分け隔てなく接してくれた。それはかつてツヴァイスタンで出会ったアナスタシアを彷彿させた。 「なぜだ……」 女性には男性にはない何かを包み込む力があるのだろうか。どこか温かく、優しい――そんな曖昧な思考が椎名の胸を満たし、焦げた臭いと鉄、雨の匂いが入り混じる現実と奇妙に対比をなしていた。 雨音が強まる。椎名は目を瞑った。 「椎名、そこに跪け!」 「確保して本部に連行するか。」 「そうだ!」 先ほど対峙した相馬の鋭い視線が脳裏をよぎる。 「あの目……」 椎名は無意識に呟いた。あれは憎しみでも信念でもない。 「真っ直ぐだった……」 澄んだ瞳。一切の感情を排して、只ひたすらに、自身の正義感、使命感だけをもって、自分に接してきた男と対峙した。 だから、彼が急所を銃で撃たれ、呼吸が浅くなっていくのを見て、誰かと連絡を取ろうとしてる様を見逃した。 彼にも大切な人がいるのだろう。 椎名は首を振った。 「なんだ、さっきから片倉京子といい、相馬といい……どうして俺の頭を駆け巡る……?」 ふと指先が震えた。 「全く違う人間のはずなのに……なぜだ……アナスタシアと同じ温度が、あの目の奥に……」 椎名は目を閉じる。 理屈ではない。記憶ではなく、もっと深いところ――感覚に近い何かが、脳裏で彼らを重ね合わせていた。 答えのない問いが椎名の胸に重く沈む。 視線を外すと、そこには倒れた椅子、割れたカップ、崩れた看板。雨水がしみ込んだ紙ナプキンが床に張り付いている。 ――日常は、戻らない。 ふいに、彼の記憶が深く沈む。 雨音が天井を打つ音と重なり、椎名の耳に別の音が蘇る。 鉄砲水の轟音、怒号、木々がへし折れる軋み――それらがひとつになって、遠い記憶の闇を破る。 かつて、あの土石流が全てを飲み込んだ。助けを求める声が、濁流に呑まれて消えていった。 椎名は目を開けた。濡れた瞳の奥に、あの日の泥と血が甦る。 流れに呑まれていった人々。 鉄砲水の音、怒号、木々がへし折れる音。土に足を取られ、何もかもを失ったあの日。自分だけが生き残ったという罪悪感が、あの記憶をいつまでも塗り替えてくれない。 「俺だけが、なぜ――」 椎名の記憶の蓋が、ゆっくりと開き始めていた。
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3 months ago
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オーディオドラマ「五の線3」
199.2 第188話「瓦礫の中、未だ立つ」【後編】
3-188-2.mp3 廃墟を目の前にしたこの空間には、冷たい雨音が微かに反響していた。 瓦礫を避けながら慎重に進む吉川の視線は、常に周囲を警戒している。 「椎名はまだこの空間にいるんでしょうか。」 吉川は小さく呟いた。 「ここは包囲されている。仮に逃げ出すとしても、音も立てずにこの状況を脱するなんて無理だ。どこかで奴の痕跡が出る。」 だが、まだ何の報告もない。それはつまり、椎名はこの封鎖された現場のどこかに潜んでいるということだ。 「この途轍もないテロ事件を、たったひとりで仕立て上げた男だ。奴が動くたびに新たな脅威を生む。弱ったもんだ。」 吉川は足元の瓦礫を注意深く踏みながら、背後から聞こえる足音に気づいた。振り返ると、雨に打たれ、ずぶ濡れになった黒田が視線を落としたまま黙々とついてきていた。 「着替えよう。」 吉川が短く言うと、黒田は顔を上げた。 吉川の視線の先には廃墟と化した商業ビルがあった。 「この雨だ。こいつをしのげる服がある店を知らないか。」 吉川の問いに、黒田は一瞬考え込み、ぽつりと答えた。 「アウトドア系の店がこのフロアにあったはずです。そこで雨具を調達できるかもしれません。」 黒田がそう言った直後、ふと思い出したように「あ」と小さく声を漏らした。 「なんだ。」 「ミリタリーショップもあったのを思い出しました。あそこなら、今の自分たちにもっと合った物が手に入るかも。」 吉川は短く頷いた。 「よし、行ってみよう。」 二人が辿り着いたミリタリーショップは、瓦礫と崩れた天井板が散乱していた。 店舗の入り口には倒れたディスプレイが無造作に放置され、看板も雨水を吸い込んでくすんでいた。 吉川は店内に足を踏み入れるなり、鋭い目つきで周囲を見渡した。その視線は瓦礫や商品ではなく、何か異質なものを探し出そうとしていた。 「…ここだ。」 吉川は確信を込めて呟いた。その場に漂う微妙な違和感が、椎名がつい先ほどまでここにいたことを物語っている。 床の一角に、脱ぎ捨てられたSAT隊員の制服があった。その一部には雨で濡れたような痕跡が残り、他の乾いた瓦礫とは明らかに異なっていた。 「室内でこの濡れ方はおかしい。」 吉川はしゃがみ込み、床に残った水滴の跡を指先で触れた。それは、まるで雨に濡れた誰かが店内で服を着替えた直後のような痕跡だった。 「……誰かがここで物色した。」 吉川は棚に残った商品の乱れや、床に散らばる軍用グッズに目を留めた。明らかに最近動かされた形跡があり、それが特に新しいものであることを示していた。 黒田もその様子を見つめながら、黙って吉川の行動を見守る。吉川は立ち上がり、再び視線を鋭く周囲に走らせた。 「間違いない。奴はここにいた。」 その言葉には、確信と焦燥が入り混じっていた。 彼の脳裏に浮かんだのは、椎名という存在が孕む危険性だった。 「あの男がいる限り、被害はさらに拡大する。」 吉川は躊躇うことなくポケットから携帯電話を取り出した。通話ボタンを押すと、発信音の直後、すぐに応答が返ってきた。 「百目鬼だ。どうした。」 百目鬼の落ち着いた声が受話器越しに響く。しかし、その一言に緊張を込める余裕すら吉川にはなかった。 「吉川です。椎名は金沢駅隣接の商業ビルにいます。」 「なに…。」 百目鬼の声が微かに曇る。 吉川は間を置かずに続ける。 「商業ビルにはまだ機動隊がいると思います。」 「そうだ。」 「すぐにこの場から撤収を。」 「待て。」 百目鬼は一拍置いて反論した。 「お前ひとりより数がいた方が有利じゃないか。」 吉川は百目鬼の言葉を遮るように言い切った。 「SATが椎名ひとりにこうもやられたんです。だたの機動隊が奴に太刀打ちできるとは思えません。」 その言葉には、確固たる現実認識が込められていた。 「自分は敵を殺傷するための訓練を積んでいます。その点で、警察よりは今の状況に対応できます。」 百目鬼は受話器の向こうで短く息を呑んだようだったが、すぐに冷静さを取り戻す。 「……確かに。」 吉川はさらに言葉を重ねた。 「これ以上の犠牲は勘弁です。速やかな機動隊の撤収命令を。」 一瞬の沈黙が続いた。百目鬼は迷いながらも、吉川の言葉が合理的であることを理解していた。 「分かった。すぐに撤収を命じる。」 その一言が返された瞬間、吉川は短く息を吐き、電話を切った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 金沢駅隣接の商業ビル内、機動隊の無線が一斉に鳴り響き、撤収命令が全員に伝えられた。 「各班、速やかに下階へ。施設周囲の車両へ集合せよ。」 階段や崩れた通路を辿り、最上階から降りてくる機動隊員たち。瓦礫が散乱し、天井から吊り下がったままの照明が揺れている廊下を進む足取りは重い。崩壊したビルの内部には、散乱する破片や商品だけでなく、爆発と銃撃の爪痕が生々しく残されていた。 その道中で、隊員たちは幾度も足を止める。目の前には、まがまがしい形で残された遺体の数々――瓦礫の下敷きになったもの、炎に焼かれて人と分からなくなったもの――その凄惨な光景に耐えきれず、顔を背ける者もいた。 だが撤収命令は最優先だ。誰も声を上げず、全員がただ無言で進んでいく。 商業ビルの外に横付けされた機動隊車両。雨に濡れるその光景は、戦場からの撤退を思わせる重苦しいものだった。 隊員たちは次々に車両へ乗り込み、無線で報告を続けていた。 「点呼します!」 その車両の一台には、救出された山県久美子と森の姿があった。 二人は車内で無言のまま座り込み、過酷な現場を後にする実感すら持てないでいた。 久美子がポツリと呟いた。 「古田さん…大丈夫でしょうか…。」 森は数秒の沈黙を挟んでから、努めて落ち着いた声で答えた。 「大丈夫よ。あの人、しぶといじゃないの。」 「……ですよね。」 久美子の返事は弱々しいものだった。森もまた、自分の言葉が空虚に響いているのを感じていた。 車両の中に漂う空気は重く、誰もが疲弊しきった表情を浮かべている。目の前の惨状に希望を見いだすことなど到底できず、絶望がその場を覆い尽くしていた。 「2名足りません…。」 機動隊員の一人が声を押し殺して班長に駆け寄った。緊迫したその声は、かえって周囲に緊張を広げることになった。 「爆発後の点呼時と比較して2名足りません。」 「爆発後の点呼時と比較して……。」 班長の顔が青ざめた。撤収の過程で人員が失われるなど通常では考えられない事態だ。だが、この混乱の中では、その可能性を否定できない。 「いかがしますか。」 班長は無線を握り締め、目を閉じる。 「……即時撤収命令だ。やむを得ない。」 久美子が隣の森に問いかける。 「社長、どういうことですか。」 その声には、不安と恐怖がにじんでいた。 「……さぁ……。」 森の言葉は途切れ途切れで、それ以上何も言えなかった。 爆発後に確認されていたはずの2名が忽然と姿を消した。この統率の取れた警察組織において、そのような不手際が起きるとは考えにくい。事故なのか、それとも……? 車両は静かに発進し、金沢駅を回り込むようにして進み始めた。窓の外には瓦礫の山、そして所々に散乱する人の形をした何か――その景色が続く。 車内の誰もが言葉を失う中、久美子と森の視線は遠くの鼓門に向けられた。 今朝の出勤時まで駅前にそびえ立っていたその象徴的な建造物は、片方が崩れ落ち、残る片方は黒く焼け焦げている。その無残な姿を見た瞬間、二人は深く息を呑んだ。 「……。」 一言も発することなく、ただ座ったままの二人。象徴的建造物が破壊された現実は、精神的な重圧となって彼らを押し潰していた。 戦場と化した金沢駅――その現実を誰も受け入れることができないまま、車両は瓦礫の街を静かに進んでいった。
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オーディオドラマ「五の線3」
199.1 第188話「瓦礫の中、未だ立つ」【前編】
3-188-1.mp3 勇二との連絡を終えた椎名は商業ビルの瓦礫の中で、一息ついた。ヤドルチェンコの始末は勇二に託した。さてここから自分が取る行動は…と考えようとしたとき、かつての百目鬼とのやり取りを思い出した。 「ああそうだ。このテロ対でアナスタシアという言葉を知っているのは俺だけだ。だから案ずるな。」 「アナスタシアがどうしたんですか。」 「…。」 「公安特課はアナスタシアのどこまでを知っているんですか。」 「それは言えない。」 「彼女は息災なんですか。」 「それも言えない。」 「どうすれば教えてくれるんですか。」 「今回の結果次第だ。」 「結果次第とは。」 「何度も言わせるな。テロの防止と一斉検挙だ。」171 アナスタシア・ペトロワ。椎名賢明こと仁川征爾がツヴァイスタン人民共和国にいたときに唯一心を許せる存在だった女性。 「エレナと連絡はとっているか。」 「エレナ?」171 記憶の奥底から、エレナの顔が浮かび上がる。アナスタシアを家まで送った時、玄関先で二度か三度会っただけの少女だった。しかし、最後に見た彼女の表情は忘れられない。アナスタシアがオフラーナに連行される日のことだ。自宅の窓からこちらを睨みつけるように見つめていたエレナの目は、憎悪に燃えていた。その視線は、まるで「姉を売った裏切り者」として彼を糾弾しているかのようだった。 その記憶が鮮明に蘇り、椎名は内心で僅かに眉をひそめた。その瞬間、彼の中で問いが湧き上がる。あの場にいたのは彼とアナスタシア、そしてオフラーナの連行部隊だけだった。エレナの存在やその表情は、他の誰も知り得ないはずだ。それなのに、百目鬼がその名前を持ち出してきた。どういうことだ? ——ブラフだ…。 椎名は心の中で呟いた。 百目鬼は、椎名がどのように反応するかを注意深く観察し、彼の内面や本音、さらには公安特課に対する本当の協力姿勢を見極めようとしていたのだろう。つまりあのブラフは椎名を単なる情報提供者、もしくは作戦指揮者として扱うのではなく、彼の動機や忠誠心を試すものであったと言えよう。 その一方で、百目鬼は椎名の実力やスキルに一定の評価を与えていたことも明らかだ。 彼のツヴァイスタンの内部事情に関する情報や戦術についての豊富な知識と経験は、公安特課の任務遂行において極めて有用なリソースとして活用されている。 実際に椎名は金沢駅でのテロ対策に関して具体的かつ現実的な作戦を立案しており、そのプランは現場での実効性が高いもので、百目鬼もその有効性を認めている。 とはいえ、百目鬼は椎名を全面的に信頼しているわけではない。 むしろ百目鬼は、椎名が何らかの隠された意図を持っている可能性を強く警戒している。 しかしそれを百目鬼は知り得ない。 そこで百目鬼は椎名に協力を求める一方で、「変な気を起こすな」と牽制、公安特課の利益が損なわれる場合には、即座に対抗措置を講じるとの意思を示したのではないか。 ——信用せずに信頼する…か…。 「いや……。」 椎名は顔をしかめ、頭をかきむしった。ブラフだと決めつけようとする自分の意識が、真相を否定するための言い訳にしか思えなくなってくる。今改めて考えると、百目鬼がエレナという名前を出した時の表情、言葉の選び方、それらの全てが不自然に感じられた。あれは本当にただの心理戦だったのだろうか? ——もし違うとしたら——? その問いが頭を離れない。百目鬼がエレナの名前を使った理由が単なる揺さぶりではない可能性。それは椎名にとって、警戒を強めなければならない状況を意味する。もしも百目鬼がエレナに何らかの接触を図っているのなら、それが直接的であれ間接的であれ、何らかの形で公安特課がエレナを捉えているのだとしたら……。 エレナはあの時の記憶の中で止まったままだ。アナスタシアが連れ去られるその瞬間、窓越しに自分を見つめていた彼女の憎悪に満ちた目。その視線が再び現実のものとなったなら、自分はどう動けばいいのか。あるいは、動くべきなのか。 思考を巡らせても答えが出る気配はなかった。 百目鬼の言葉が脳裏をよぎり、幾重にも疑念が渦を巻く。エレナという名前が指し示す真実を突き止めるべきか、それとも一度この感情を封じ込めるべきか。だが結論は明白だった ——動くことでしか物事は進まん。 椎名は立ち上がった。疲労が全身に重くのしかかり、思考の歯車を鈍らせる。 幾つもの作戦を立案し、公安特課の監視に気を配りながら進む日々は、肉体と精神を確実に削っていた。ツヴァイスタン人民軍で鍛え抜かれた椎名でさえ、この状況は耐えがたいものになりつつあった。 ——疲れすぎた。休息と補給が必要だ。 そう判断した彼の視線は、従業員通用口へと向けられた。ここは商業ビル。テナントのバックヤードには、彼の必要とする「それ」があるだろう。 だが、ビル全体には警察が配備されている気配が漂っている。最上階で起こった朝戸による銃乱射を受けて、その処理にかり出されたのだろう。彼ら以外にSATや公安特課、特殊作戦群も潜んでいるかもしれない。このビルが「安全地帯」であるはずはない。 椎名は深く息を吸い込み、意識を周囲の環境と同化させた。 ビルの薄暗い廊下を進む足音は、吸音材にでも覆われたかのようにかすかだ。 廊下の角を曲がる際、視界の端に一瞬、制服を着た警官が立つ姿が映った。椎名は即座に動きを止め、廊下の陰に身を滑り込ませる。呼吸を抑え、壁に耳を押し当てると、警官が無線で話している声が微かに聞こえる。 「……このフロアは異常なしだ。下の階を確認する。」 警官の声が消え、足音が遠ざかっていく。それを確認してから椎名は慎重に陰から顔を出し、周囲を確認する。 従業員専用の出入口に辿り着いた椎名はその扉に耳を当て、向こう側の音を慎重に探った。人の気配はない。静かにドアノブを回し、わずかに隙間を開けると、バックヤード独特の消毒液の匂いが鼻をかすめた。慎重に中に入り、壁をつたうように移動しながら周囲を確認する。 やがて従業員休憩スペースの様な部屋にたどり着いた。 そこには冷蔵庫があり、中にはペットボトルの水や、簡易的なエネルギーバー、さらには紙パックのジュースなどが並んでいた。椎名は手際よくそれらを選び取り、必要最低限の物だけを持ち、再び気配を消してその場を後にする。 腹に収めた栄養がじわじわと体に染み渡り、疲れ切った体がかすかな活力を取り戻していく感覚を覚える。完全に疲労が抜けるわけではない。腕や足にはまだ鉛のような重みが残り、思考も薄い霧がかかったようだ。それでも、椎名は目の奥に少しずつ灯る鋭さを感じ取った。流れを断たれた歯車が再び噛み合い、遅々としながらも動き始めるような感覚。腹部に暖かさを覚えると同時に、脳裏には次々と冷徹な思考が浮かび上がってくる。 商業ビルの廊下には、所々剥がれ落ちた天井板や散乱した破片が積もり、照明も半ば死んでいた。瓦礫と闇が入り混じるこの空間は、まさに廃墟。椎名はその中を慎重に進みながら、背後に感じる警察の気配を常に意識していた。どこか遠くでかすかに聞こえる無線の音や、靴底が瓦礫を踏む音。その全てが不確実性を帯びた世界に響き渡り、彼の感覚を研ぎ澄ませる。 椎名は廊下の影を辿り、物音を立てることなく動き続ける。崩れた壁や倒れた棚を器用に避けながら、その姿は闇に溶け込み、まるで存在そのものがこの場所の一部になったかのようだった。彼の背中はすでに暗がりに飲み込まれ、瓦礫の奥深く、商業ビルのさらに静寂な闇へと消えていった。
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オーディオドラマ「五の線3」
198.2 第187話【後編】
3-187-2.mp3 瓦礫が散乱し、崩壊したフロアの中にもかかわらず、アパレルショップのディスプレイが無残に残っていた。その中に、ミリタリーショップが偶然にもあった。 椎名はその店内で服を物色し、迷彩服を手に取った。雨に濡れたシャツを脱ぎ捨て、軍人らしい出で立ちに着替えていく。 鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。その姿はまさに彼の本質――戦場に生きる者そのものだった。 「やはり、しっくりくるな。」 彼はふと何かを思い出したかのように呟く。 「仁川さん…?」 「仁川さっ…!」 「椎名!」186 声が脳裏をよぎる。 「あのとき…俺の名前を呼んだ気がしたが。」 椎名は姿見に映る迷彩服姿の自分をもう一度確認し、口元に不敵な笑みを浮かべた。 「さて…。」 ベネシュには特殊作戦群との交戦を命じている。両者が正面からぶつかれば、いかに特殊作戦群が精強な部隊であろうとも、何らかの被害は免れないだろう。 「いくら歴戦の猛者でも、力が拮抗すれば互いに削り合う。そうなれば、消耗戦に持ち込むだけだ。」 創設された特殊作戦群の初戦。ここで彼らが大きな損害を被れば、日本政府の中枢に動揺が広がる。 「政府内にはすでに不満分子が潜んでいる。彼らは特殊作戦群の損耗を口実に、現政権の足を引っ張り始めるはずだ。」 その不満がさらに広がれば、内部での不協和音が助長される。そして混乱がピークに達したとき、次の段階に移行すれば良いだけだ。 「皆殺しだ。」 冷酷な一言が彼の口から漏れた。自分自身に対する確認のようでもあった。 ウ・ダバはすでに壊滅状態にあり、彼らの継戦能力は失われている。ヤドルチェンコは残っているものの、単独で何かを成し遂げる存在ではない。 「オフラーナ――奴らは必ず事の詳細を確認しようとするだろう。そして、俺が何かを企んでいると気づけば、直接的な圧力をかけてくる。」 だが、椎名はその先を見据えていた。 オフラーナが圧力をかける前にヤドルチェンコを排除し、その死を利用することで、さらなる混乱を引き起こす計画を考えていた。 「ヤドルチェンコの死は、オフラーナにとって人民軍の仕業に見えるだろう。彼らはそれを許さず、報復に動き出す。」 オフラーナの動きが激化すれば、それに対抗するように人民軍も強硬な措置を取る。そして最終的には両者の衝突が激化し、その余波が日本に及ぶ――そのときが椎名の最終目的を果たす瞬間だ。 「日本政府がそれにどう対応するか。その答えは一つ。」 椎名の冷笑は、鏡に映る自分の姿に向けられたものだった。 「戦争だ。」 オフラーナの横暴を排除すると言う名目で、ツヴァイスタン人民軍の正規軍が日本に介入する――その準備が整いつつあることを、彼はすでに知っていた。 「政府も公安も、自衛隊ですら、この流れを止めることはできまい。ヤドルチェンコの死は、その引き金にすぎないわけだが…。」 「問題はやつをどう排除するか…。」 しばらく考えた挙げ句、椎名は携帯を手にした。 発信音 雨音がかすかに混じり、数回の呼び出しの後、応答が入る 「はい。」 「目薬はいるか。」 「…結構です。」 「いま何をしている勇二。」 「先ほどまでここに居た捜査員が逃走しました。」 「なにっ?」 「署内で電話をする奴の姿を見た同僚警察官が声をかけると、ごにょごにょ言ってその場から走って逃げだしたというものです。」 「目薬の男ね…。」175 「現場から2㌔地点で待機。」 「ひとりか。」 「いえ、矢高さんと一緒です。」 「そうか。じゃあ代わってくれ。」 矢高の声が入る。どこか沈んだ響きが混じっている。 「矢高です。ご無事で何よりです。」 「朝戸の排除は完了した。」 「ははっ。ご迷惑をおかけしました…。」 矢高の声はどこか恐怖を感じているようにも思えるものだった。 「あいつ映画館でトゥマンの連中を皆殺しにした。おかげで折角の戦力が削がれてしまった。」 「申し訳ございません!」 「まぁいい。結果的にちょうど良かったのかもしれんな。戦力のバランス的に。」 「と、申しますと。」 「ベネシュは過信している。トゥマンの実力を。今回トゥマンは壊滅的打撃を受けた。ここからどう巻き返すか。それとも…。」 「それとも…。」 「そのまま消え去るか。」 「消え去る…。」 「そうだ。」 「…それほどまでに自衛隊の特殊作戦群は。」 椎名は少し間を置き、冷静に言葉を選んだ。 「強い。」 短い言葉に込められた確信が、矢高の心を揺さぶる。 「…。」 「この攻撃で多少の被害はあるだろう。しかし、それが目に見える形で現れることはない。それほどまでに彼らのダメージコントロールは完璧だ。」 「そんなにですか…。」 「無傷ではないだろうが、壊滅状態でもない。それを引いても、奴らの精強さはトゥマンの上だ。」 矢高は息を呑む。 「では、私はどうすれば…。」 「プリマコフ中佐に応援を要請せよ。」 その言葉が電話越しに伝わった瞬間、矢高は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。 「少佐、それは無理です。他国の治安維持に正規軍を投入するなんて…そんなこと、現代ではあり得ません!」 声が震え、言葉を並べるたびに自分の心が不安定になっていくのを感じる。 「正規軍が他国に介入するなんて、国際世論が絶対に許しません!どんな裏付けがあったとしても、それを現実化させるのは…!」 矢高は言葉を詰まらせた。 「君がヤドルチェンコを始末すれば、可能になる。」 椎名の声はどこまでも冷静で、疑いの余地を全く与えないものだった。 「…は?」 「テロ組織の指導者が殺害されれば、オフラーナは人民軍の仕業だと考えるだろう。そこから先は、報復に向けた軍事行動に進むのは自然な流れだ。」 矢高はその説明を聞いて、頭が混乱するのを感じた。 「でも、それは…それでは、戦争になりませんか……。」 矢高は必死に言葉を吐き出したが、それはまるで水中で声を出そうとしているような虚しさを伴っていた。 「その通りだ。」 矢高は椎名の一言に絶句した。その言葉に揺るぎない確信が滲み出ているのを感じたからだ。 「オフラーナが動けば、人民軍も対抗せざるを得ない。その衝突が日本に波及するのは時間の問題だ。」 「いえ、それでも…それでも国際社会がそんなことを許すはずが…!」 矢高は声を震わせながら、必死に現実にすがりつこうとした。 「国際社会? 君はまだそんなものを信じているのか。」 椎名は冷笑を含んだ声で返す。その瞬間、矢高の中で崩れかけていた防波堤が完全に崩壊し始めた。 ー信じているわけではない。あんなものツールのひとつに過ぎない。そんなことは分かっている。だがそのツールによって戦争を回避してきたのも事実…。 矢高は必死に椎名の言葉を否定しようとした。しかし、これまで椎名が見せてきた完璧な計画と、その実行力を思い出すたびに、否定する根拠が失われていった。 ー少佐の言うことが本当なら…本当にプリマコフ中佐が動くというのか?でも、それは…。 頭の中で何度も反論の言葉を組み立てるが、椎名の言葉の重さがそれを次々に打ち砕いていく。 「君は分かっていないようだな。」 椎名の声が鋭く響く。 「準備はすでにできている。」 「準備…?」 矢高はその言葉に背筋が凍るような感覚を覚えた。だが、椎名がその詳細を語ることはなかった。 矢高はついに言葉を失い、唇を震わせるだけになった。 「無理です…。自分には…そんなことはできません。」 その声には、精一杯の抵抗と、全てを諦めたような諦念が混じっていた。 椎名は冷徹にその答えを受け止めた。 「ほう、命令に背くか。」 「いえ…ですが…。ですが…。」 「分かった。」 その短い言葉は、全てを終わらせるものだった。 「君はいままでよくやってくれた。その点は評価する。」 椎名の言葉はどこか空虚で、決定事項を読み上げるようなものだった。 「だが、ここで終わりだ。君は解雇だ。我々とは無関係の人間となる。」 「少佐…!」 矢高が声を絞り出そうとした瞬間、椎名はさらに冷たい声で告げた。 「ご苦労だった。すぐにその場を立ち去れ。」 電話越しに無言が続いた後、椎名は勇二を呼び出した。 「勇二。」 「はい。」 「矢高を消せ。」 勇二は一切の迷いを見せず、無言で矢高の眉間にナイフを突き立てた。矢高は声を上げることなく、その場に崩れ落ちた。 「完了しました。」 「よし。次はヤドルチェンコの行方を突き止め、排除せよ。」 「了解。その後は。」 「好きにしろ。」 「わかりました。」 勇二の冷徹な声が電話越しに響いた。
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オーディオドラマ「五の線3」
198.1 第187話【前編】
3-187-1.mp3 相馬からの報告がないまま、時間だけが過ぎていた。 テロ対策本部の室内は、重苦しい空気に包まれていた。誰も言葉を発さず、机上の時計の秒針がやけに耳に響く。 「こちらSAT。テロ対策本部ですか。」 突然、無線から声が響いた。 岡田は反射的に無線機を手に取った。 「こちらテロ対策本部だ。そちらは?」 「SATの吉川です。自衛隊から応援に入っています。」 その名を聞き、岡田は瞬時に思い出した。相馬から自衛隊特務2名と協力しているとの報告だった。そのうち1名がSATに応援として加わり、もう1名は死亡した――この無線の相手がその一方の生き残りだ。 「相馬から報告を受けている。残念だった。」 無線越しの吉川の沈黙に、本部内も自然と押し黙る。その沈黙は、吉川が相棒の死を受けて沈んでいるのだと、誰もがそう思っていた。だが、次の言葉がその思いを根底から覆した。 「相馬周は死亡しました。」 室内が一瞬で凍りついた。 岡田は目を見開き、呆然とした表情を浮かべる。片倉は両手で頭を抱え、無言で肩を震わせた。 「詳しい状況については、今、別の人間に代わります。」 無線から再び声が聞こえた。それは吉川ではなく、別の人物――「黒田」と名乗る者だった。 「…黒田と申します。」 その名を聞いた片倉の表情が変わった。まるで過去の記憶が引き戻されたかのように目を鋭くし、無線マイクを岡田から奪うように取り上げた。 「黒田…。黒田か!」 「…片倉さん…。」 無線越しに聞こえる声には動揺と焦燥が滲んでいる。 「どうした…何があった…。」 片倉の声は、すがるような響きだった。 「見たんです…。信じられないものを。」 「何を見た?」 「仁川…仁川征爾です。」 その名に、片倉は息を呑む。 「仁川…征爾…。」 「ええ。」 黒田の声は震えていた。 「あの仁川征爾を見ました。」 「…その仁川が…どうした…。」 沈黙が続く。本部内も誰一人動けない。 「黒田、答えろ!」 「仁川が…相馬を撃ちました。」 片倉は絶句した。 「撃って…どこかに行きました。」 「嘘だろ…。」 「嘘じゃありません…。」 「いや、嘘だ…。」 「嘘じゃありません!」 「…んな…馬鹿な…。」 片倉の声はかすかに震え、消え入るようだった。 「片倉さん…何が起きているんですか…。」 その問いに片倉は返事をすることができず、代わりに肩を落とし、まるで小さくなったように見えた。 「吉川です。」 沈黙を破るように、冷静な声が無線に入った。 「黒田さんが仁川と言っている男は椎名賢明です。その自分の理解は正しいですか。」 片倉は答えられない。言葉を失った片倉の代わりに、百目鬼が前に出て答えた。 「テロ対策本部の統括責任者、百目鬼だ。その理解で間違いない。」 「椎名は、この状況の何かを知っていると自分は考えます。公安特課は?」 「同感だ。」 「ならば、自分はこれより椎名を捜索します。」 「よいのか?」 百目鬼が問いかける。 「良い悪いの話ではありません。自分にとって、3人の相棒が殺された可能性がある。」 相馬、児玉、そして古田――。吉川は一時的であれ彼らと共に任務をこなしてきた。 「自衛隊はそれで了としているのか。」 「撤収せよとの命令です。」 百目鬼は苛立ちを露わにした。 「ではいかんではないか!」 「人としての問題です。」 吉川の言葉が百目鬼の声をかき消した。 「たった今から、自分は自衛官でもなく、警官でもありません。ただの民間人です。それならば、誰にも迷惑はかけません。」 百目鬼は短く息をつき、沈黙を破った。 「…いいだろう。君の椎名捜索について、我々は全面的に協力する。ただし警察公式としては一切関知しない。」 「ありがとうございます。」 「礼を言うのはこちらだ。」 無線が切れた後、百目鬼は深々と無線機に頭を下げた。その姿に引き寄せられるように、他の本部メンバーも次々と立ち上がり、頭を下げた。 沈黙は1分間続いた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 雨が降り続き、相馬の遺体の周囲を冷たい水が流れていく。 吉川と黒田は、降りしきる雨に打たれながら、無言で立ち尽くしていた。 吉川がポケットから無線機をしまい、重く息を吐いた。 「黒田さん。あんた一旦帰るんだ。ここは危険だ。」 黒田は吉川の言葉にかぶせるように答えた。 「俺も行く。」 吉川は深い溜息をついた。 「おいおい…素人が出張るような局面じゃないんだ。あんたのようなのがいるとかえって迷惑なんだ。」 黒田は振り返らずに言った。 「仁川…。」 黒田の視線は地面に伏せられたままだった。 「あいつを見たからには、俺はやらなきゃならんことがあるんだ。」 「…なんだよ。」 黒田はわずかに顔を上げ、吉川の目を見た。その目には何か深い決意が宿っていた。 「あいつの帰りをずっと待ち続けていた男。その話を伝える。」 吉川は怪訝な顔をした。 「…なんだそれ。」 黒田は説明を続けることなく、わずかに顔を背けた。 その表情は「これ以上聞くな」と語っているようだった。 「頼む。俺にも行かせてくれ。でないと…俺は、もう…。」 黒田は相馬の遺体から目を逸らした。 三波の死亡報告、そして相馬の死――立て続けに襲いかかった悲劇に、黒田の精神は限界に達していた。これだけでも十分すぎるほどのショックだ。しかし、彼をさらに苦しめるものがあった。 それは、相馬の恋人である片倉京子の存在だ。 職場の上司であり尊敬していた三波の死を目の当たりにし、続いて恋人である相馬の死を知ったとき、彼女はどうなってしまうのか――そのことが黒田の心を引き裂いていた。 このまま立ち止まっていると、自分まで気がおかしくなりそうだった。何か行動しなければならない。動くことでしか、この耐えがたい現実から逃れる術はなかった。 吉川は黒田の言葉を聞き、その姿を見つめた。 何か込み入った事情を抱えていることは察していた。しかし、それでも戦場に素人を連れていくことがどれだけ危険かも理解していた。 吉川は静かに腰のホルスターから拳銃を抜き、それを黒田に差し出した。 「俺はあんたを守らない。ここからは自己責任だ。そういうことで良いなら着いてこい。」 黒田は一瞬その拳銃を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。手にした瞬間、思った以上の重さに驚いた表情を浮かべる。 「そいつは自分を守る唯一の武器だ。」 吉川は冷静に続けた。 「あんたを守るのは、その一丁の拳銃だけだ。使うときが来たら、躊躇わずに引き金を引け。それが自分の身を守る唯一の方法だ。」 黒田は拳銃を握る手に少し力を込めた。 「撃つときは狙いを定めるな。相手の身体のどこかに当たればそれで十分だ。それだけを覚えておけ。」 吉川の言葉に、黒田は黙って頷いた。 吉川が振り返り、雨の中で歩き始めた。 「行くぞ。」 その背中に向かって、黒田は一言だけ返した。 「おう。」 雨の音が二人の足音を掻き消していく。濡れた拳銃の冷たさが、黒田の手に馴染むまでには、まだ時間がかかりそうだった。
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オーディオドラマ「五の線3」
197.2 186話【後編】
3-186-2.mp3 雨音の中、椎名は低い声を出した。 「トゥマンの状況は。」 電話の向こう、アルミヤプラボスディアの精鋭部隊トゥマンを指揮するベネシュ隊長は、一瞬の間を置いて答えた。 「戦力の4割は削られた。」 その報告に、椎名は短い沈黙を挟み、冷ややかに呟く。 「全滅か…。特殊作戦群はまだそこまでの被害は出ていない。」 ベネシュは唇を噛みながら問いかけた。 「どうする。」 「今こそ撃鉄を起こせ。反共主義者に鉄槌を下すのだ――とプリマコフ中佐はおっしゃっている。」 仁川の言葉には感情の起伏がなく、ただ淡々と任務を遂行するかのような響きがあった。その言葉を聞いたベネシュの眉がわずかに動く。 「撤退は選択にないということか。」 「そうだ。」 「しかし、こちらもここまでの被害が出ると事情が変わってくる。本社に確認させてくれ。」 ベネシュは絞り出すように言った。その声には焦燥が滲んでいた。 「何を確認すると言うのだ。」 仁川の声が通信機越しに鋭く響く。 「我々が御社の金主だろうが。」 「そうだが…。」 「おやおや、自衛隊が怖くなったか。」 仁川の言葉には冷笑が混じっていた。その一言がベネシュの胸に刺さり、怒りが沸き上がる。 「…私を侮るな!」 電話の向こうでベネシュが声を荒げる。しかしその怒りを全く意に介さず、椎名はさらに冷徹な言葉を浴びせた。 「命が惜しいと言うなら撤退しても構わんが、そうなれば御社は会社ごと消えることになるかもな。」 その一言に、ベネシュは息を飲んだ。 仁川の脅しは、単なる言葉ではない。ベネシュはそれを理解していた。アルミヤプラボスディアの市場と利益――その全てがツヴァイスタン人民軍の手の中にある。いまここにおけるツヴァイスタン人民軍は仁川征爾少佐である。 「…分かった。」 ベネシュは短く答えた。その声には屈辱が滲んでいた。 「残る部隊をすべて動員し、特殊作戦群を可能な限り削る。」 その言葉に仁川が応じた。 「よろしい。目標はただ一つ、反共主義者に鉄槌を下すことだ。」 その言葉を聞いたベネシュは、ふと胸の奥に冷たい違和感を覚えた。 ーこいつは…狂っている。 共産主義――それは過去の理念であり、現代の戦場で語られるべきものではないはずだ。 だが、仁川はまるでそれに取り憑かれたかのように、冷静に、しかし狂気をはらんだ声で語っていた。 ベネシュは問いかけた。 「何がそこまでお前を駆り立てる。いったい何が目的だ。」 だが仁川はそれ以上の説明をすることはなく、ただ一言、冷たく言い放った。 「言っただろう。反共主義者に鉄槌を下すだけさ。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 雨の音 ーやはり…似ている…。 記憶の奥底から浮かび上がる顔――6年前、熨子山事件の真相を追う過程で無視できなかった、あの仁川という男。その顔が重なった。 ーまさか…。 黒田は息を呑み、思わず呟くように口を開いた。 「仁川さん…?」 その声が雨の中で微かに響いた。 この黒田の声に、椎名は動きを止めた。まるでその名に反応するかのように、雨の中で僅かに顔を動かす。 ー嘘だろ…。 黒田の胸に確信が走った。その瞬間、言葉が勢いを帯びて口をつく。 「仁川さっ・・・!」 「椎名!」 鋭い声が雨音を切り裂いた。 黒田は反射的に声の方へ振り返った。 ー今の声は…? 雨の中で瓦礫を踏み越えながら立っている一人の男。その顔を見て、黒田の目が大きく見開かれた。 ー相馬…!? その名を心の中で叫ぶ。 相馬の目には鋭い光が宿り、表情には緊張感が滲み出ている。これは黒田の知る相馬ではない。 「椎名!お前、なぜSATの格好をしている!」 相馬の問いに、椎名は答えない。雨が二人の間を叩きつける音だけが響く。 「答えろ!」 相馬の声が荒れる。椎名はただ静かに相馬の方を向いている。 相馬は咄嗟に拳銃を抜き、椎名に銃口を向けた。その手は微かに震えている。 「ヤドルチェンコの討伐なんかどうでもいい!」 相馬の声は雨音に混じりながらも力強く響く。 「お前は…すぐに本部に戻るんだ…!」 椎名は無表情のまま相馬を見つめ、静かに言葉を返す。 「本部に戻る?」 「そうだ!」 「ここがこんな状況で、おれだけおめおめと本部に戻る訳にいかんだろう。」 相馬の額には雨と汗が混じり、瞳が揺れる。 「そんなことどうでもいい!俺はお前を確保しろと言われている!」 雨が二人の間を絶え間なく打ち付ける中、相馬はさらに声を張り上げた。 「椎名、そこに跪け!」 その言葉に椎名は僅かに眉を動かし、冷笑を浮かべた。 「確保して本部に連行するか。」 「そうだ!」 椎名は短い沈黙を挟み、静かに言葉を放った。 「おやさしいことだな。」 次の瞬間、鈍い音が響いた。 相馬の身体が大きく揺れ、彼の声が喉の奥で途切れる。力なくその場に膝を突き、拳銃が手から滑り落ちた。 雨音がその場を支配する中、椎名が冷静に手元の銃を下ろす。銃口にはサイレンサーが付いており、発砲音は周囲の雨音に紛れて消えていた。 相馬は肩を押さえ、口から血を滲ませながら椎名を見上げた。 「…お前…何を…。」 椎名は無言のまま、彼を見下ろしている。その瞳には、わずかな感情すら読み取れない。 その一部始終を、瓦礫の影から黒田は息を殺して見つめていた。 ー…撃った…? 仁川が、相馬を撃ったのか…? 雨に濡れた眼鏡を指で拭いながら、黒田は震える手で瓦礫にしがみつく。サイレンサー付きの銃が雨に濡れ、冷たく光る。その光景が、黒田の脳裏に鮮明に焼き付いた。 雨音だけが響く中、椎名はその場を立ち去る素振りもなく、ただ静かに立ち尽くしていた。
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オーディオドラマ「五の線3」
197.1 第186話【前編】
3-186-1.mp3 「三波…。」 ハンドルを握る手に力が入る。先ほど耳にした三波の死亡報告が、黒田の胸に重くのしかかっていた。 「お前なら、この状況をどう伝える…?」 黒田は自分に問いかけた。 三波はこの事件に命を懸けた。それは自分たちの仕事が単なる報道ではなく、社会に真実を伝える事こそが「使命」だと信じていたためでもあった。 その信念を知っている黒田だからこそ、その死を無駄にすることはできなかった。 誰かが、このこと世の中にを伝えなければならない。 京子は泣きながら三波の死を報告してきた。だが、黒田はその涙を受け止める間もなく、すぐに車に乗り込んだ。 彼の向かう先は金沢駅。現在進行形で戦闘が繰り広げられているという情報が入った場所だ。 ワイパー音 雨脚がさらに強くなり、ワイパーがフロントガラスを滑る速度を上げていた。 助手席に置いたスマホを手に取り、画面を確認する。一般のメディアは、金沢駅で「テロが発生した」という短いニュースを伝えるだけ。詳細な映像も情報も一切ない。 一方で、SNSは混沌としていた。 「金沢駅で銃撃戦が展開されている」 「商業ビルの最上階で無差別銃乱射が起きた」 「ドローン攻撃による爆発があった」 矛盾した情報が飛び交い、事態の全容を把握するには程遠い。 ー一体何が起きてるんだ…。誰も状況を掴めていない…これじゃ、真実が埋もれる。 雨が激しさを増す中、金沢駅へ向かう道は次第に狭まり、警察による封鎖が見えてきた。 ふとスマホを手に取り、電話帳からひとりの人物の電話番号を表示させる。しかし黒田はそこで手を止め、ふうっと息をついてそれをしまった。 ーここでさすがにあの人に頼れない…。 黒田は深く息を吸い、車を停めると雨の中へと足を踏み出した。 「ちゃんねるフリーダムの黒田です。この中に入らせてください。」 警察官の一人が振り返り、迷惑そうな顔をする。 「無理だ。ここから先は立入禁止区域だ。」 「取材が必要です。 全国民が知りたがっています。」 食い下がる黒田だったが、警察官たちは一切取り合わなかった。厳重な規制に黒田の苛立ちが募る。 その時だった――。 爆発の轟音 突然、轟音が金沢駅の方向から響いた。爆風が空気を震わせ、雨の音すら掻き消すような衝撃音が周囲を襲った。 警察官たちは驚き、思わずその場で足を止めて振り返った。 「なんだ今のは…!」 「爆発だ! 様子を確認しろ!」 一瞬、規制線を守る警察官たちの注意が爆発の方向に向いた。その隙を黒田は見逃さなかった。 ー今だ! 彼は規制線の隙間をすり抜け、一気に内部へと駆け込んだ。 「おい、待て!」 制止の声が後ろから飛んできたが、黒田は振り返らずに雨の中を突き進む。雨水が靴底に染み渡り、足元の瓦礫が滑る。それでも彼の目はまっすぐに金沢駅の方向を向いていた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー しばらく進むと黒田の目の前に広がる光景が、次第にその全容を現した。 そこは、映画やドキュメンタリーでしか見たことのない戦場そのものだった。 瓦礫の山が行く手を遮り、その間に転がるのは、ねじれた鉄骨や崩壊した建物の破片。そして人の形をかろうじて留めている無数の遺体。 あるものは瓦礫の下敷きになり、またあるものは爆風で飛ばされたのか、原形を留めないほどに損壊している。黒焦げになった肉片が散乱し、ところどころに血溜まりができていた。 鼻を突くのは、焦げた金属と肉の混ざり合った異様な臭い。それが雨に濡れた地面に染み込み、ぬかるんだ泥の中に薄赤い水を広げている。 黒田は息を呑み、足を止めた。 ーこれが…現実…? 普段はペンとカメラを手に取材を続ける彼も、この光景には言葉を失った。あまりにも非現実的で、まるで悪夢を見ているかのようだった。 ー「音」がない。 ふと気づく。降りしきる雨がすべての音をかき消しているようだが、それだけではなかった。瓦礫の間から聞こえるはずの呻き声や助けを呼ぶ声がまったくない。 生命の気配がない。 現場を覆っているのは、「死」という言葉すら足りないほどの完全な静寂。 ー誰も…生きていない? 黒田の全身に鳥肌が立つ。雨が肩や頭を容赦なく叩きつけてくるが、それがかえって静寂を際立たせていた。 足元の瓦礫を踏む音が妙に大きく感じられる。雨に濡れた靴底が瓦礫を滑らせるたびに、不安定な足元がさらに不気味さを増していく。 歩みを進めるたびに、また一つ、また一つと壊れた形のものが視界に入ってくる。それが人であったものなのか、単なる物体なのかさえ、見分けがつかない。 遠くで、崩れた建物の残骸が冷たい雨を浴びながら揺れている。瓦礫の隙間から、煙が細く立ち昇り、雨に消されていく。 そんな中で、黒田はふと目の前の瓦礫の隙間に視線を移した。 「…?」 遠く、煙にかすむ視界の中に、人影が見えた。それは一瞬だけ動いたように見えたが、雨でぼやけてはっきりとしない。 ー生存者か…? 黒田の心にかすかな希望と警戒が同時に湧き上がった。彼は慎重に歩を進め、その影を確かめようとした。 そのとき足元の瓦礫が不気味な音を立てて崩れ、黒田の胸に一抹の不安が広がった。 ライフル音 突然、雨の音を貫くように鋭い銃声が響いた。 「っ…!」 黒田は思わず身をかがめ、瓦礫の影に体を隠した。音の方向を探ろうとしたが、雨のせいで音は乱反射し、正確な場所を掴むことはできない。ただ、音の鋭さからそれが近い場所での狙撃だと直感する。 冷や汗が背中を伝う。黒田は瓦礫の隙間から視線を巡らせ、周囲を慎重に観察した。 先ほど見えた人影が遠くに見えている。 雨の中、黒田が目に捉えたのは、一人の男だった。 SATの装備を身に纏った彼は、周囲に散らばる遺体を一瞥することもなく、ただ冷静にどこかと連絡を取っているようだった。 ー何やってるんだ、あいつ…。 黒田はじっと目を凝らした。 降りしきる雨がその全てを覆い隠し、命の気配を消し去っている中、その男だけがこの世界に生きている。 それだけなら、仲間を探しているSAT隊員だと判断することだろう。 だが――。 黒田の胸の奥に、言葉にできない違和感が広がった。 直感がざわめく。 遺体が転がるこの現場で、仲間を助ける素振りも見せず、ただ淡々と電話に向かって話すその姿。 その横顔に何かが引っかかる。 ーあの顔…どこかで見たことがある。 雨音がさらに激しくなり、瓦礫に叩きつける音が響く中、黒田は記憶を手繰り寄せた。 何かが脳裏に浮かびかけているが、はっきりと思い出せない。 その時――。 男が濡れた髪を掻き分けた。それによって露わになった顔を前に、黒田の頭の中に眠っていた記憶が呼び覚まされた。 ーこの顔…。 「椎名と申します。はじめまして。」 「印刷会社でDTPやっています。」 「安井から聞いています。映像のお仕事はあくまでも個人でやってるらしいですね。」 「はい。」84 「黒田。お前を真に信頼できる協力者として打ち明ける。」 「…どうぞ。」 「椎名賢明は仁川征爾や。」 「仁川征爾…?」 「仁川征爾はすでにこの日本に亡命している。」144 「仁川征爾…。」 黒田の視線の先で、椎名は話し続けていた。 雨が会話の内容をかき消し、何を言っているのかは聞き取れない。ただ、その佇まいはあまりにも異質だった。 ーいや、そんなはずは…。 記憶と目の前の現実が交錯し、黒田の中で疑念が膨らむ。その正体が何なのかを確かめるには、もっと近づくしかなかった。
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オーディオドラマ「五の線3」
196.2 第185話【後編】
3-185-2.mp3 瓦礫と煙が充満する中、相馬は身を屈めながらもてなしドームの方向に進んでいく。 鉄骨がむき出しになった構造物の隙間から、焦げた臭いと重い空気が流れ込んできた。 「…本当にここは金沢駅か?」 相馬は一人ごちるように呟いた。 滑りやすい足元に何度もつまづきながら、ようやく車両の残骸にたどり着く。彼は息を呑んだ。 車両は完全に焼け落ち、炭化した鉄の骨組みだけがかろうじて原形をとどめている。周囲には黒焦げになった肉片のようなものが散らばり、もはやそこに人がいた形跡すら分からなかった。 何者かの無事を知りたい。その一心で呼びかけをするが、答える者は誰もいない。 全員死亡。 改めて確認しなくても分かる。ここには生命の予感がまったくしない。 相馬は拳を握りしめ、顔をそらした。 その時だった。相馬は瓦礫の隙間を越えた先に、微かに動く人影を見つけた。 「…誰だ?」 雨音がその声をかき消す中、相馬は注意深く視線を凝らした。 人影は遠く、不規則に揺れるような動きを見せていた。生存者か、それとも――。 警戒心が相馬の体を緊張させた。 そのとき彼の足元に近い瓦礫の隙間で、わずかに動くものがあった。 全身に火傷を負い、皮膚がただれた一人の男。 ウ・ダバ構成員のひとりだ。 彼は虫の息の状態ながら、仲間たちが次々と倒れていくのを目撃したのだ。 ー俺だけか…。 明らかに焦点が合っていないその目は意思によってのみ機能していた。 男はかすかに動く手で拳銃を掴む。雨で滑りそうになる手を震わせながらも、相馬の背中に狙いを定めた。 相馬はその背後の危険に気づかず、視線は依然として遠くの人影に向けられていた。 ウ・ダバの男は最後の力を振り絞り、ゆっくりと引き金に指をかける。 雨音に混ざり、男の荒い呼吸が瓦礫に反響する。 銃声 男の頭部が弾け飛び、身体が力なく地面に崩れ落ちた。 「え?」 銃声と共にその場に伏せた相馬は、何が起きたのかを理解しようとした。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ビルの屋上から、一部始終を見ていた卯辰一朗は、スコープ越しに相馬の姿を見つめていた。 「やれやれ…。」 卯辰は低く呟き、スコープを外した。焼け落ちた瓦礫、崩壊したドーム、倒れた無数の死体。 金沢駅の惨状は、かつてのアフガニスタンの戦場さえ思い起こさせるほどだった。 「何だってこうなっちまった…。」 卯辰の表情には苛立ちと疲労が滲んでいた。 それでも彼は再び銃を構え、状況を俯瞰した。金沢駅全体を俯瞰できるこの位置は、彼にとって目の前の惨状を冷静に観察する唯一の場でもあった。 「一郎、こちら神谷。」 卯辰の眉がわずかに動く。通信の相手が神谷であることを確認すると、彼はすぐに応答した。 「どうぞ。」 「そこから3時方向のビル屋上にいる男を排除しろ。」 その短い命令に、卯辰は視線を鋭くする。 彼の目は遠くのビルの上で微動だにせず立ち尽くす人影を捉えていた。 「了解。」 短く答えると、卯辰は体を低くし、雨に濡れた地面を滑らせるように移動した。再びライフルを構えスコープを覗き込む。 その視界には、雨に濡れながら静かに空を見上げるアサドの姿があった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ビル屋上。 アサドはその場に立ち尽くしていた。 雨が容赦なく彼の身体を濡らし、冷たい水滴が頬を伝って落ちていく。それでも、彼はただ静かに空を見上げていた。 先ほどのドローン攻撃は、間違いなく大成功だった。 機動隊車両を正確に破壊し、現場にいる敵勢力をほぼ壊滅状態に追い込んだ。 だがこの雨では、残りのドローンを飛ばすことは不可能だ。どれだけアサドのドローン運用が優れていても、この自然の力には抗えない。 彼の耳に、無線の雑音が入り始めた。そして、ヤドルチェンコの声が響く。 「ドローン班、よくやった。」 その一言が、アサドの心を強く揺さぶった。声を震わせながら、彼は応答する。 「ありがとうございます。」 「一旦待機だ。」 「…あの…」 アサドはためらいながら口を開いた。 「なんだ。」 「同志は…」 その問いに、ヤドルチェンコは一瞬の間を置いた――だが、声には迷いの色を見せることなく、淡々と言い放った。 「見事だった。」 その言葉を聞いた瞬間、アサドの胸の中で込み上げてくるものがあった。全身が熱くなり、頬を濡らすのが雨か、それとも涙かさえ分からなくなる。 ー彼らの犠牲は無駄ではなかった…私たちは…正しいことをした… 感情が溢れ出し、アサドは堪え切れず、嗚咽を漏らした。 雨の中に立ち尽くしながら、彼の肩は震え、声を上げることもなく涙を流した。 ライフル音響く 再び鋭い銃声が轟き、雨音と瓦礫の静寂を切り裂いた。 相馬は反射的に身をかがめ、瓦礫の影に隠れるように腰を落とした。耳にはまだ銃声の余韻が残り、心臓が嫌なほど早く脈打っている。 ーどこからの発砲だ? 敵か…それとも…。 視線を巡らせても、雨で視界はぼやけ、瓦礫の山が全ての方向を遮っている。先ほどまで捉えていた人影も、どこに消えたのか分からない。 相馬は無線機を掴み、すばやく公安特課本部に通信を入れた。 「こちら相馬。狙撃手がいる。動けない。」 声が震えないように努めたが、雨音に混じって伝わる自分の息遣いが異常に荒いことに気づく。 「相馬。片倉だ。狙撃手は味方だ。心配ない。」 「味方…?」 「あぁそうだ。」 だが無理はしなくて良い。今居るところからで良いから、状況を報告してくれと片倉は言った。 「機動隊車両周辺ですが、命の気配すらありません。」 無線越しに響く相馬の声が、公安特課本部に重くのしかかった。 机に肘をつき、顔を覆うようにして座る片倉。その眉間の深い皺が、彼の胸中を物語っている。 岡田は口元を覆ったまま視線を下げていた。古田と富樫。この老練な二人の警察官の死が何を意味するのか、ここにいる全員が理解していた。これまで培ってきた公安特課の基盤が、根底から揺らぎかけている。 片倉は、低く搾り出すような声で言った。 「椎名は?」 無線の向こうで相馬が口を開く。 「…確認できていません。」 椎名。 その名前が発せられるたび、本部の空気が微妙に歪む。 事ここに至って彼の生存は希望なのだろうか。それとも危険なのだろうか。 片倉の目がわずかに細くなる。 鼓門に侵入したウ・ダバの車。それを爆破させて以来、全く連絡が取れなくなった椎名。 彼はただ「巻き込まれた側」で済むのか? 以前から心の奥底でくすぶらせていた椎名に関する疑念を、片倉は反芻していた。 「椎名や。椎名が鍵や。」 その一言が、彼の胸中を垣間見せていた。 「その考えはおそらく正しい。」 片倉の言葉にかぶさるように、百目鬼理事官が本部に足を踏み入れた。その顔には疲労の影があり、報告書を片手に握りしめている。 「理事官。」 岡田が慌てて立ち上がるが、百目鬼はそれを手で制した。 「座れ。この状況で立たれても疲れるだけだ。」 百目鬼は部屋を見渡し、一言漏らした。 「惨憺たる様子だ。」 彼はそのまま報告を開始した。三好からの情報として、自衛隊が政府の決定に基づき、一個中隊の金沢駅への派遣を決定したという。 「政府がこの事態を“武力攻撃事態”と認定した。」 その言葉に、本部全体が凍り付いたように静まり返った。片倉は一瞬目を閉じ、呼吸を整えるように息を吸った。 百目鬼は続けて、特殊作戦群の被害が軽微である事を報告した。かの部隊はそのまま金沢駅に留まり、次なる敵に備えていることを説明した。 「次なる敵とは?」 片倉が百目鬼に問う。 「アルミヤプラボスディアの残存勢力だ。ベネシュの安否が確認できていない。きっと奴は生きている。」 「では自衛隊はなぜこのタイミングで追加派遣を。」 「まだ終わらんとみている。」 「何がですか。」 「ウ・ダバの更なる攻勢だ。」 百目鬼のこの発言は、警察では対処しきれない規模の敵戦力が相手になっていることを示していた。 「だが――」 百目鬼は報告を締めくくる前にわずかに間を置いた。 「事態がここまで混乱した背景には…」 彼の目が片倉と交わる。 片倉は冷静に頷きながら応じた。 「椎名だ。」 これまでも片倉は、椎名に対して慎重な姿勢を崩したことはなかった。その理由は、彼の優れた能力と異常なまでの冷静さ――それが、時に公安特課の利益ではなく、彼自身の目的に基づく行動に映る瞬間があったからだ。 百目鬼もまた同意するように小さく頷いた。 その時、不意に無線が繋がった。 「…こちら椎名。」 その声が本部内に響いた瞬間、全員が凍り付いたように動きを止めた。 「ウ・ダバ車両突入後の爆発までは計画通りでしたが、ドローンの投入は完全に想定外でした。」 冷静な報告。だが、その落ち着きは異様だった。そのため本部の人間は彼に何も声をかけることができない。 「…爆発で負傷していますが、自分は生きています。周囲は死体の山です。これから自分はヤドルチェンコの居場所を突き止め、奴に引導を下します。」 無線はここで途切れた。 「おい!椎名!…椎名!」 片倉が呼びかけるも椎名からの応答はなかった。 「…どういうことだ…。」 岡田が呟いた。 「あの爆発の中心におって生きとるやと? それだけでも不自然やぞ。」 片倉の目は鋭く細められていた。 「奴が何を隠しとるんか分からん。だが、これだけは確かや。」 百目鬼がその続きを引き取るように言う。 「椎名が全て知っている。椎名賢明の確保。これが公安特課の最優先事項とする。」 誰がどうやって椎名を確保するのだ。 金沢駅には相馬くらいしか手駒はない。百目鬼のこの言葉は現実味がなく、この場の人間に受け止められた。 公安特課に広がるのは、椎名という男がもたらす異常な空気感。 それが作り出した底知れぬ恐怖感だけだ。 「相馬だけに無線をつなげてくれ。」 片倉がこう言うと、手際よくその無線は繋げられた。 「相馬。」 「…はい、相馬。」 「いまの無線聞いたか。」 「はい。」 「椎名は生きとる。」 「はい。」 「そこにはお前さん以外、マルトクの人間は誰もおらん。」 「はい。」 「…できるか。」 「班長それは!」 岡田が片倉に異議を唱えようとしたが、それは理事官の百目鬼が手を挙げることによって制された。 「やります。」 「頼む…。」
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オーディオドラマ「五の線3」
196.1 第185話【前編】
3-185-1.mp3 金沢駅周辺は瓦礫と黒煙に包まれていた。 さっきまでの轟音と衝撃は過ぎ去り、代わりに訪れた静寂が耳を痛くするほどだった。辺りには硝煙と焼け焦げた鉄の匂いが漂い、崩れ落ちた構造物の隙間から冷たい風が吹き抜けている。 雨はすでに降っていた。小さな雨粒が瓦礫や死体の上に降り注ぎ、静かに煙を冷やしている。 雨音がかすかなざわめきのように現場に広がっていたが、次第にその音が耳障りなほど強くなり始めた。 吉川は荒れ果てた現場に足を踏み入れた。 靴底が瓦礫を踏む音だけが響く中、彼の目は現場を注意深く見回していた。 雨粒が額に叩きつけられ、濡れた髪が顔に張り付く。 「…こちら吉川班。隊長、応答されたい…。」 かすれた声が口から漏れる。何度目かの呼びかけだったが無線からも周囲からも、何の応答もなかった。 胸の奥に嫌な予感が膨らむ。 雨脚はさらに激しくなり、まるで現場の傷口を抉るように瓦礫や遺体を濡らし続けた。 雨水が地面にたまり、小さな水たまりが幾つもできる。 「自分は指揮車両の方を確認してきます!」 一緒にいた部下が焦燥感に駆られたようにそう言うと、瓦礫を避けながら駆け出した。 濡れた瓦礫が滑りやすくなっているのか、彼の足取りはぎこちなかったが、それでも彼の背中には必死さが宿っている。 吉川はその背中を追いかけようとしたが、一瞬足が止まった。 雨音が現場全体を支配する中、瓦礫の間で鉄片が転がるような音が響いた。それは、重たい沈黙の中で不気味に響いた。 その場に立ち尽くし、耳を澄ませた吉川の背中に冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。 「班長!」 部下の叫び声が聞こえ、吉川は慌ててそちらへ向かった。 瓦礫を踏み越え、崩れた壁をくぐり抜けた先に、指揮車両があった。だが、それはもはや「車両」と呼べる形を保っていなかった。爆発で大きく歪み、窓ガラスは砕け散り、扉は吹き飛ばされている。 「…これは…。」 言葉を失った吉川は、部下の指差す先を見た。そこには明らかに生命を失ったSAT隊長の遺体があった。 首には扼殺の痕がくっきりと残り、顔は苦悶に歪んでいる。遺体は座席に崩れ落ち、腕は不自然な方向に折れ曲がっていた。 「…嘘だろ…。」 吉川の声が震えた。明らかに人の手による殺害だ。 このSAT隊長は自分の首を握りしめる相手の顔を見ながら絶命したのである。 ー嵌められた。 指揮官に成りすました何者かが、SATを掌握してこの惨劇を引き起こした。 そう理解するまでに、彼は数秒を要した。 「児玉。吉川だ。」 吉川は無線を手に取り、かすれた声で呼びかけた。 この混乱の中で唯一頼れるのは彼しかいない。 だが、無線は無音のままだった。 「児玉、児玉。こちら吉川。応答されたい。」 再度の呼びかけにも、返事はない。その時別の声が無線に割り込んできた。 「こちら、相馬…。」 「相馬!?大丈夫か!」 「だ、大丈夫です…。」 相馬の声は震えており、その言葉の端々に絶望が滲んでいた。吉川は嫌な予感がした。 「相馬、児玉はどうした?」 沈黙が一瞬流れた後、相馬が重い声で言葉を絞り出す。 「児玉さんは…死亡しました。先ほどの爆発で…。」 吉川は息を呑み、その場に立ち尽くした。 自分を支えるはずだった仲間がもういない。その現実が全身を締め付け、喉の奥が詰まるようだった。 「そちらはどうですか。」 指揮車両の惨状と、目の前にあるSAT隊長の無残な遺体。その二つの光景が彼の中で現実感を失わせ、心の中に虚無感を広げていく。そこに古田の変わり果てた姿がある。吉川は分かっている。今のこの状況で相馬になにを伝えるべきなのかを。しかし彼は躊躇した。 「吉川さん。」 「…相馬…。」 吉川は相馬を遮った。 「古田さんは死んだ。」 「え…。」 「胸を撃たれた。息はない。残念だ。」 「そんな…。」 「古田さんだけじゃない。ここは死体の山だ。SATの指揮部隊も、ウ・ダバも死んでる。制服警官もいる。みんな死んだ。」 感情もなく報告される状況を相馬は飲み込めないようだった。 「テロ対策本部には相馬、お前から報告を入れろ。俺は俺で自衛隊に報告を入れる。」 そう言って吉川は無線を切った。 ーなぜだ…。 心の中で誰にも答えられない問いが繰り返される。足元の瓦礫に雨が叩きつけられ、じわりと靴に染みてくる冷たさを感じても、吉川は動けなかった。 ーなぜこんなことになった…。 彼の胸の奥でうごめく感情は、悲しみと怒り、そして自分自身への苛立、それらが一つになって吉川を押し潰そうとしていた。 ふと自分の右手が震えているのに気づいた。 濡れた無線機を握る指先の震えは、止めようとしても止まらない。それが今の自分が抱えている無力感そのものだと悟った瞬間、吉川の中で何かが弾けた。 吉川は無線機を持ち直し、冷静さを装うように深く息をついた。 震える手を抑え、口を開く準備をする。その声にどんな感情を込めるべきなのか、まだ答えは出ていなかった。 「小寺機関長。こちら吉川。」 「小寺だ。」 「吉川、現場の状況送ります。」 一息つき、彼は言葉を続けた。 「ウ・ダバ壊滅。アルミヤ壊滅。SATは指揮部隊含めほぼ全滅。残る戦力は自分の班のみ。特殊作戦群は詳細不明。敵も当方も継戦能力はありません。」 報告を終えると、無線の向こうで一瞬の沈黙が訪れた。 「現場から撤退しろ。」 小寺の冷静な口調が、吉川には重たく響いた。その命令に従うべきだと頭では分かっていたが、彼は最後に一言を付け加えた。 「…児玉が、死亡しました。」 小寺はその言葉に応答せず、無言で通信を切った。 吉川は無線を握ったまま、崩れ落ちるように座り込んだ。現場の静寂が、無情に彼を包み込んでいた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 金沢駅の状況を伝える無線が一瞬の雑音とともに、公安特課本部に届いた。相馬の声だった。 通信の向こう側から、時折かすかな爆発音や崩れる建物の音が聞こえる。片倉はその声に耳を傾けながら、眉間に深い皺を寄せた。 「古田さんが…死亡しました。」 その一言が本部内に冷たい波紋を広げた。机の上で震えていた片倉の拳が、さらに強く握られる。 数秒の間、彼は何も言葉を発しなかった。 「本…当…か?」 片倉がようやく口を開く。 「はい。自衛隊特務からの報告です…。」 相馬の声はかすれており、その言葉の裏には疲労と無力感が滲み出ていた。 岡田も隣で息を飲み、目を伏せた。 古田の死。それはこの作戦において最悪の知らせだった。 「状況を話せ。」 片倉の声が低く響く。 相馬は深呼吸をするようにして、言葉をつないだ。 「古田さんの死に関しては胸を銃で撃たれたとだけ報告を受けています。息はないとのことです。」 相馬は続ける。 「こちらから報告していたとおり、自分は古田さんと自衛隊特務2名と連携して今回のテロに当たっていました。その特務の一方から入った報告ですので間違いはありません。」 「そう…か…。」 「ちなみに特務のもう一方は死にました。」 「死んだ?」 「はい。爆発に巻き込まれて。」 片倉をはじめ、このテロ対策本部でも金沢駅で大きな爆発があったことを掴んでいた。 「…その爆発やが、詳しく教えてくれ。」 これに相馬は淡々と答えた。 「もてなしドームに突入した機動隊車両の上空にドローンが飛来。そいつが車両の上で小規模な爆発を起こし、直後、車両が大爆発しました。これにより現場はすべてが吹き飛び、焼かれ、死体の山です。SATの指揮部隊も、ウ・ダバも死んでる有様。特務曰くみんな死んだと。」 「みんな死んだってことは、機動隊車両に乗っていた人間もか。」 「はい。全員死亡と聞いています。」 片倉は沈黙したまま、机の上のモニターを見つめていた。だがその目はどこか虚ろだった。 彼の脳裏には、椎名の監視任務に就いていた冨樫の顔が浮かんでいた。彼と連絡が取れなくなっていたことが、ここで嫌でも説明がつく状況となったわけだ。 ーマサさん…。 片倉はこの言葉を声に出すことはなかった。ただ唇を結び直し、目を閉じた。 「相馬、お前は今、その機動隊車両の様子を確認できるのか?」 片倉の声が震えを押し殺しているのが分かった。 相馬の返事は一拍遅れて返ってきた。 「戦闘は鎮静化しているようです。向かうことは可能だと思います。」 片倉は短く指示を出した。 「確認してくれ。その目で。」 無線が切れた後、本部は一層の静寂に包まれた。岡田が片倉の表情を伺ったが、彼の顔は石のように硬直していた。誰も言葉を発さず、ただ空気が重くのしかかるだけだった。
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7 months ago
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オーディオドラマ「五の線3」
195.2 第184話【後編】
3-184-2.mp3 半壊した柱の陰にしゃがみ込む朝戸は、壁越しに男の姿を捉えていた。 男はSATの制服をまとい、平然とした態度で無線に向かって何かを指示している。だが、周囲に転がる遺体、SAT隊員たちの無残な姿が、その男の存在に異様な違和感を与えていた。 「不自然すぎるだろ…。」 朝戸は呟いた。 SAT隊員たちが壊滅状態にある中で、彼だけが生き残っているのはどう考えてもおかしい。 男の佇まい、異常な状況、不敵な態度。すべてが朝戸に「こいつは普通じゃない」と訴えかけてきた。 「偽物…。」 朝戸の目には、そのすべてが「意図的に仕組まれたもの」に見えた。 何か巨大な力が働き、自分をさらに不利な立場へ追い込んでいるような感覚。それは彼がこれまでの人生で幾度となく感じてきたものだった。 ーまただ…また俺を踏みつける奴が現れた…。 心の中で呟いた言葉が、体の奥底から沸き上がる怒りの奔流をさらに煽った。 就職氷河期――あの時の記憶がよみがえる。 希望する会社の門前払い、理不尽なまでの競争、どれだけ努力しても選ばれるのは「もっと条件のいい」誰か。 企業の冷たい笑顔と一言が脳裏を過ぎる。 「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが今回は採用を見送らせて頂くこととなりました。 朝戸様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。」 何十回、何百回と突きつけられた現実。そこで味わった挫折と屈辱。それでもなおもがいて手を伸ばしても、周囲の冷笑と無関心は変わらなかった。 「なぜだ…俺が何をした…。」 目の前に立つSAT隊長の姿に、かつての自分を踏みつけたあらゆる象徴が重なって見えた。 意図的に選ばれ、意図的に捨てられた。 常に誰かがルールを作り、それに翻弄される自分。 目の前の男が、まさにその「支配者」の象徴に見えた。 力で状況を支配し、自分を見下し、踏みつける存在。それを許すことはできなかった。 ーお前だ!お前が沙希を殺した…。 心の中で叫ぶ。喉から言葉が出そうになるのを必死に押し殺しながらも、彼の全身から滲み出る怒りは隠しきれなかった。手が震え、拳が痛くなるほど強く握り締められる。目の前にいる男に銃口を向けるべきだという衝動が頭を支配する。 ー俺はどれだけ努力すればいいんだ…。こんなにしているのにそれでも努力が足りないっていうのか…。 ーどうして俺だけが、こんな目に遭わなければならない…! 自分の人生を切り裂くような不条理。その象徴である椎名が、自信満々に立つ姿に対し、怒りが怒りを生み、止まらない激情が彼の思考を埋め尽くしていった。 ーいつまでだ…俺はいつまでこんな目に遭えば気が済むんだ! 銃を握る手に力がこもる。その先にいる男は動じる様子もない。むしろその冷静さが、朝戸にさらなる屈辱を味わわせるようだった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一階の廃墟となったロビーに踏み入れるた古田の足音は聞こえないほど小さかった。 朝戸は依然として柱の陰に隠れ、じっと男を見つめている。古田の緊張は最高潮に達していた。手は汗で滑り、視線は朝戸の一挙手一投足を捉え続けている。 「朝戸…。」 柱の陰に潜んでいた朝戸の身体がピクリと動いた。声の方向を振り返り、動揺した表情で古田を見つめた。 「藤木さん…。」 その瞬間、静寂だった空間に、別の異質な気配が割り込んだ。 古田は目線を上げ、背後に立つSATの姿を捉える。そして、その顔を見た途端、彼の全身の血の気が引いた。 「椎名…。」 古田の声は震えていた。 そしてその名を呟いた瞬間、彼は全てを理解した。 「これか…これを貴様は…。」 椎名の冷たい目が古田を捉えた。 彼の手に握られた銃口が、ゆっくりと古田の方向へ向かうのを見たとき、古田は反射的に叫んだ。 「伏せろ!朝戸!」 その叫び声は瓦礫の中に反響し、朝戸の耳に届いた。しかし、朝戸がその意味を理解するより早く、銃声が鳴り響いた。 銃声 火薬の鋭い音が空気を引き裂き、古田の胸に弾丸が撃ち込まれた。 衝撃に彼の身体が大きくのけぞり、背後の瓦礫に倒れ込む。口から血が溢れ、彼は息を詰まらせながら、目を大きく見開いた。 「…くそっ…。」 かすれた声を漏らしながら、古田の瞼が次第に閉じていく。 視界はぼやけ、彼の意識は薄れていった。 「藤木さァァン!」 古田が倒れるのを目撃した朝戸の顔が、一瞬で激情に歪んだ。震える手で銃を構え、椎名の方向へ向けた。 「貴様ァァァ!!」 怒りと絶望の中で、彼は引き金を次々と引いた。 パン!パン!パン! 銃声が連続して鳴り響き、火花が暗い空間を照らした。 しかし、弾丸は椎名に掠ることもなかった。椎名の動きは異常なほど冷静で、朝戸の銃口の方向を正確に見極め、身をかわした。 「ナイト…。」 椎名は小さく呟きながら、冷たく銃を構え直した。 「え?ナイト?」 朝戸の銃声が止むと同時に、椎名が静かに引き金を引いた。 「俺だよ。キングだよ。」 「え…。」 パン! 弾丸は正確に朝戸の眉間を貫いた。彼の身体が硬直し、力なくその場に崩れ落ちる。 怒りと絶望で満ちていた瞳から、光が完全に消えた。 この場に再び静寂が訪れた。 椎名は冷たい目で朝戸の倒れた身体を見下ろし、無言で銃を下ろした。その後、視線を古田の方へ向ける。 「あぁそうだ。だがまだ終わらんよ。」 椎名は小さく息をつき、周囲を見渡した。 周囲にはSAT隊員たちの無惨な遺体、そして撃ち抜かれた朝戸の死体。そして、遠くで横たわる古田の静まり返った身体。すべてが彼の意図した結果だった。 椎名は足元に散乱する血濡れの瓦礫を踏み越え、彼はその場を静かに後にした。 誰もその姿を止める者はいない。いや、誰もその存在に気づきさえしないかのようだった。 数分後、吉川が指揮所の瓦礫の中へと駆け込んできた。 無線の途切れた通信、爆発音、そして長く続いた沈黙。胸騒ぎを抑えきれないまま現場に到着した彼が目にしたのは、想像を遥かに超えた地獄絵図だった。 「……これは…。」 瓦礫と血の海に足を取られながら、吉川は恐る恐るその場を進む。SAT隊員たちの遺体が散乱し、火薬の焦げた匂いが鼻を突く。血溜まりに倒れた隊員の手には、いまだ拳銃が握られたままだった。 「誰が…。」 そして、彼の目が最初に捉えたのは朝戸の死体だった。 「制服警官がなぜ…?」 眉間に正確に撃ち込まれた弾痕が、その最後の瞬間を語っている。吉川は息を飲みながら、その先に目を移す。 そこには、古田の身体があった。 「古田……?」 吉川は膝を折り、崩れるように古田に駆け寄った。瓦礫をかき分け、彼の胸元を押さえたが、そこに感じられるはずの鼓動は、どこにもなかった。 「嘘だ…嘘だろ…!」 彼の声が瓦礫の中に反響する。古田の目は半ば開かれたままだが、そこに宿る光は完全に失われている。吉川の手が震え、血で濡れた彼のカメラマンジャケットを掴む。 「なんで…こんなことに…!」 力なく呟く声が、吉川自身の耳にも悲しく響いた。彼の膝は瓦礫に沈み込み、肩が震える。周囲の惨状が視界に広がり、彼の心を押し潰していった。 椎名はビルの瓦礫の隙間から吉川らの方を見つめていた。 遠くから聞こえる彼の叫び声に、彼の表情は微かに動いたようだった。が、それもすぐに元の無表情へと戻った。 ため息 椎名のその背中は、何か底知れぬ暗い決意を宿しているように見えた。 【X】 https://twitter.com/Z5HaSrnQU74LOVM ご意見・ご感想・ご質問等は公式サイトもしくはXからお気軽にお寄せください。 皆さんのご意見が本当に励みになります。よろしくおねがいします。 すべてのご意見に目を通させていただきます。 場合によってはお便り回を設けてそれにお答えさせていただきます。
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7 months ago
14 minutes

オーディオドラマ「五の線3」
【一話からお聴きになるには】 http://gonosen3.seesaa.net/index-2.html からどうぞ。 「五の線」の人間関係性による事件。それは鍋島の死によって幕を閉じた。 それから間もなくして都心で不可解な事件が多発する。 物語の舞台は「五の線2」の物語から6年後の日本。 ある日、金沢犀川沿いで爆発事件が発生する。ホームレスが自爆テロを行ったようだとSNSを介して人々に伝わる。しかしそれはデマだった。事件の数時間前に現場を通りかかったのは椎名賢明(しいな まさあき)。彼のパ