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大型台風13号が東京に最接近したその日、松重ディレクターと筆者は「こんな日だからこそ、どんな方がいるのだろう」と息巻いて浅草地下商店街へと向かったのです。
誰もいません。本当に、誰も。全休符。ただ錆色の沈黙が広がるばかり。「何で誰もいないんだろうか」など思わず愚問が唇から溢れましたが、答えは今ほど述べた通りでした。台風です。人は、帰るのです。同語反復も良いところです。
加えて時刻はまだ夕方。17時を回ったか回らないか。シャッターが下ろされた飲食店の営業時間は18時以降が多いのです。浅草地下商店街に直結の地下鉄へと続く道を人々が帰っていくなか、時間、やること、持て余せるもの全てを持て余して天井を見上げればむき出しのダクトより、水が滴り落ちてきます。いかなる俳人をしても風流を見出せない水滴が、床に溜まっていきます。
諦めてはいけません。幸いにも浅草地下商店街入り口に座っていた男性にお話を伺うことができました。男性は普段、浅草、押上周辺を主に拠点とされており、今は台風を避けるため、一時的に地下商店街に座っておられたとのこと。
これまでの職歴やご出身、普段のルーティンなど男性は訥々と初対面の我々にお話してくださいました。一点、どうしても気になることがありました。男性は、指輪をはめていらっしゃったのです。薬指に。
訊いて、よいのでしょうか。
ちらほら、地下商店街のお店のシャッターが開き始めています。天井から床に滴った水を店主の方がモップで拭いております。そろそろ台風の夜が始まろうとしています。振り返れば男性はもう、別の拠点へと向かっておりました。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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秋葉原駅すぐ隣にある「ラジオセンター」。開業は1949年。様々な細かい電子パーツを扱う店舗が犇めき合うこの小さな商業施設の二階にあるのが今回、お邪魔した「菊地無線電機」。店主の菊地さんは昭和4年(1929年)生まれの94歳。先ほどの阿久悠より八つ年上であり、同級生に誰がいるのかといえばオードリー・ヘプバーンです。放送でもあった通り、さらりと「GHQ」や「進駐軍」という単語を繰り出されます。それこそ「区役所の人」くらいの軽さで。歴史の地層が眼前に聳え、崩れ、肩まで埋まります。
赤坂に生まれ芸者さんに可愛がられていた幼少時代の話などは溝口健二が撮ってないのがおかしいほど。毎日のように赤坂に通勤している我々からすれば、赤坂は「吉そば」がある町です。あとは「スナック玉ちゃん」でしょうか。間違っても芸者さんがいる町ではないのです。
さて戦前から戦後にかけての壮絶なエピソードが語られるなか、徐々に私たちの心に翳りが生じ、広がっていくのがわかります。ある意味では「告白」に近いのですが私たち(少なくとも筆者)は、ラジオ番組の仕事をしていながらもいわゆる電器としての「ラジオ」を所持していないのでした。気づけばradikoで聴くようになって久しく、「菊地無線電機」に陳列されている様々なラジオの部品を見ても、一体何の部品かまるで分からないのでした。世の趨勢に従ったと言えば簡単ですが、それでも呵責はベトついて離れません。
「ラジオはね、あんまり聴かないんです」
インタビューの終盤に飛び出した菊地さんのこの言葉は、ラジオを持たぬ呵責の中にいた私たちからすれば、福音でした。菊地さんは七十年以上、ラジオの部品を販売していらっしゃいますが、別段ラジオ番組がお好きというわけではなかったのです。なんというか「ラジオ」と「番組」を扱う人間のそれぞれの凹凸が噛み合った気がします。
恐らく「ラジオ」はこれからも変わっていくのでしょう。
御知らせの通り、今回で『東京閾値』の地上波における放送は一旦終了となります。ご愛聴いただいた方々には感謝を通り越して、なんというかもう、同じ家系図に組み込まれたい、そんな想いでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとうございました。
さて次の『東京閾値』はどんな「ラジオ」になるのでしょうか。はたまた上野公園の階段下にいたお二人はお元気でしょうか。南蒲田の人々は「えちごや」というラーメン屋を思い出したでしょうか。浅草で髪を切った時の代金は経費になるのでしょうか。東京閾値は、ずっとそこにあります。
甚謝:洛田二十日(スタッフ)
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まったく十八歳、十九歳の頃なんて古本屋さんに行くしかありません。それは決して稀覯書の蒐集を趣味とする粋人の遊びという訳ではなく、切実なまでに金がないからです。ガムシロップを水で薄めて飲む生活を送るよりほかありません。そんな十八歳たちにとって一冊十円で文庫本を売っているような古書店は「ここだけ資本主義が届いていない」という驚きを齎してくれるものでした。
そんな早稲田古書店街の中に於いて「五十嵐書店」だけは異彩を放ち続けております。店構えをご覧になっていただければ分かる通り、コンクリート打ちっ放しの外壁にガラス張りと瀟洒を極めた佇まい。何でしょうか。区営の「表参道っぽさを感じさせる装置」か何かとしか思えないのです。少なくとも表紙の破れた中島らものコラムとかは陳列されていないこと請け合い。
従って放送の冒頭、松重ディレクターが「番組作家が激推しの」といった触れ込みでお邪魔した五十嵐書店様ですが現実は寧ろ逆であり、十八、十九歳の切実なまでに古本を欲していた頃は緊張で足早に通り過ぎていたお店なのです。だからこそ「ずっとそこにあった東京に気づく」という番組コンセプトを敷衍、援用してこの度、取材を申し込ませて頂いた次第でありました。
実際、五十嵐書店さんこそ早稲田古書店街の中核をなす老舗書店。2代目の発案で以って現在の店構えに建て直したことは放送でもお伝えした通り。そんな五十嵐書店の先代であり創業者である五十嵐智さんが帰り際、「参考までに」と一冊の本を渡してくださいました。
本のタイトルは『五十嵐日記 古書店の原風景』(笠間書院)。そこには放送には載らなかった五十嵐さんが早稲田に店を構える前。神田神保町の修行時代、つまりは十八、十九歳の頃の前日譚が克明に記されておりました。例えば1953年、昭和28年月8月3日の日記を引用しましょう。
「毎日、夜遅くなるので本を読む時間がなく、日記をつけるので精一杯(中略)閉店後、寝床までに時間が少ないのが一番苦しい。(中略)世界は進んでいる。私は停滞している。これでは残されてしまう」
この時、五十嵐さんは十八歳。郷里山形より上京し、夜間大学への進学を考えつつも殆ど休みなく働き詰めの生活を送っておりました。冒頭、私は「まったく十八歳、十九歳の頃なんて古本屋さんに行くしかありません。」なんて書きましたが実際のところ、その古本屋さんの主人が十八歳、十九歳だった頃は、そんな時間すらなかったのです。身を粉にしてなお「私は停滞している」と言ってのける五十嵐青年の底なしの向上心を前にすれば、筆者のような人間は完全に停止した綿埃も同じ。突如襲ってきた焦燥感を解消するべく、当時購った中島らもやら町田康やらの本を引っ張り出して今より五十嵐書店に向かいましょうか。きっと買い取ってくださるでしょう。でも、それを買い取ってくれるのは十八歳ではなく、六十年の時を経た、八十八歳となった五十嵐青年。そう、世界は進んでいるのです。五十嵐青年ではなく、筆者が停滞しているのです。停滞しているのなら、せめて、記録を。
副読本:『五十嵐日記 古書店の原風景』(笠間書院)
文責:洛田二十日(スタッフ)
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先ず会議において持ち寄ったネタを吟味しながら「中野サンプラザ閉館のニュースを入り口に、中野ブロードウェイへ向かうのはいかがか」と提案すれば、松重ディレクターは路傍でふやけた湿布みたいな顔をしたまま、何ひとつピンときてくれないので、「いや、まんだらけのお客さんに話を聞くわけでなく、地下にある商店街にいる方々に話を聞きに行きたいのだ」と説明を継げば、少しばかり眉が動き、さらに「要はサブカルチャーの聖地の側面でなく、そこで生活する人々の話を伺うということで」と続ければ、漸く松重も首肯したわけであり、翌日には中野ブロードウェイの地下商店街に集合し、どの商店の方であればお話を伺えそうか、なんとなくの雰囲気を探りながら「どうにも鮮魚店の皆様はお忙しいそうだ」やら「どう考えても店長だと思った人が店長でなかった」「オクラが安かったので、無意味に買った」など収録を敢行する前に、ロケイメージと前口上などの最終調整を行い、いざ収録をスタートさせてみれば、やはりなかなかどうして営業中のみなさまのお話をじっくり腰据えて伺うことは能わず、取材を断られるたび、松重はべこりと音を立てて凹み、それを鼓舞しながら、ロケを進めんとすれば夕刻を前にして確認したところ、どうにもデータが破損しておりました。
ここから先、共有されている音源は筆者もリスナーの皆さんもほぼ同じです。
松重の折れた心は一服や二服では元に戻ることなく青木繁『海の幸』のような足取りで中野ブロードウェイを後にし、泥濘に似た沈黙のなか、松重が捨て鉢気味に「帰宅の道中のタクシーの運転手さんに、賭けます」とだけ言い残して去っていった次第です。まさかこの『松重帰宅』がそのまま『東京閾値』に成り得るだなんて、誰が予想できたでしょう。松重も驚いたに違いありません。
以上のようなことを考えながら、先ほど買ったオクラを入れたカレーを拵えれば「ああ、オクラ入り、と、お蔵入り、がかかっているな」など思いつき、放送後記に書くか書かないか迷って、書いた。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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日本を代表する高級住宅街である渋谷区松濤。
ここで街ブラロケをやってまいりました。
まず「松濤」の「濤」という漢字を書けるでしょうか。筆者は書けません。さんずいの隣、これどうなっているのですか。予算が余ったし勿体無いから画数を増やしたのでしょうか。とはいえ松濤にお住まいの皆様は当然ながら、この漢字を書けるのです。だって、その方々からすれば単なる住所ですから。手紙などの郵便物はもちろん、自遊空間に新規登録するとき、深夜の交番で「駐めていた自転車がありません」とお巡りさんに泣きつく時だって「渋谷区松濤云々」とすらり書くに違いありません。
など考えながら渋谷ハチ公前より歩いていれば、急に喧騒が遠のきます。梢が揺れ、葉が擦れ、クロアゲハを嫌がる松重の胴間声だけが夏に吸い込まれていきます。松濤に到着していたのです。
一旦、深海魚の話をさせてください。一旦です。
深海に生息する彼らは高水圧に耐え得る体構造をしています。だからこそ揚げられてしまうと浮き袋や目玉が飛び出してしまうのです。
松濤は深海のようでありました。「家」はありません。どれも「邸」です。圧倒的な塀の高さ。邸宅と邸宅の間にある普通にある大使館。『星の王子さまミュージアム』のような瀟洒ぶり。そして、人の不在。痛い。耳の奥が痛い。息が、苦しい。なぜでしょう。思い切ってダイブした松濤の街。その「お金持ち」ぶりが質量を帯びて我々の肺を押しつぶしてくるのです。深海、ここは資本の深海でした。我々のような「ポイント2倍デー」にしか買い物をしない不埒な連中は、もといた浅瀬へ逃げ込むより他ないのです。もちろん目玉が飛び出さないよう、上を向いて。
逃げ込んだのは「鍋島松濤公園」。瑠璃色の水面が輝く池を配し、遠くには水車小屋も見えます。幸いにして我々の目玉も飛び出すことなく安全圏へと避難することが出来ました。一安心です。
いや、安心している場合ではありません。そういえば「撮れ高」がゼロです。どうにかせねばと遊具の方面へ向かえば、遊んでいた男子小学生らが、何かに勘づき松重の周りに蝟集。それはもうもみくちゃ。聞くところ、みんなこの辺りに住まう松濤キッズとのこと。
どこかホッとしました。例え超高級住宅街に生まれても、マイクを持っている大人を見かければ押し寄せる、男子小学生の習性は共通しているのです。松重、想像以上に子供らに群がられています。写真が掲載できないのが残念ですが、モッシュです。松濤モッシュです。そんなときに松重が「お年玉、みんないくらもらったの?」なんて下世話な質問を子供に投げかけます。
「うーんと、だいたい25万くらい」。おいまじか。結局、目玉飛び出して、帰宅。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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「最寄りのコンビニの店員さんが最近、派手な髪色から黒髪に戻してしまったけど(所属しているに違いない)バンドの方向性が変わったのだろうか?」など不要な憶測をしてしまう人が、誰の中にも一人や二人、いらっしゃるはずです。筆者の場合、野方という町にいました。
ちょど中野駅と高円寺駅を底辺に、二等辺三角形を描くような位置にあるのが野方。熱心なハルキストである皆様のことです。「ああ、『海辺のカフカ』で謎の老人、中田さんが住んでいた町ね」とピンときていることでしょう。さてそんな『海辺のカフカ』には一切、描かれなかった場所が今日の舞台です。
袋小路に蓋をして、闇市ごと煮詰めたような外観。春樹が書きこぼすのも無理はありません。かりに「大島渚がマイクを持って、襲いかかる野坂昭如たちを打擲しまくる一人称視点ゲーム」があったとすれば、最初のステージに設定されそうな場所です。この前提の時点で既に読み手を突き放していることは重々承知ですが、先を急ぎましょう。そんな野方文化マーケットに於いて尚ひときわ、異彩、というか異音を放ち続けているのが、こちらのお店。
2畳ほどの店舗に床から天井まで隙間なく積み上げられた、大量の鞄や衣類や楽器たち。朝から晩まで野方の路地に響き続ける「安いよ、安いよ、なんでも修理やってます」という不穏な電子音声。店の名前は「オンリーワン」。輸入雑貨を取り扱い、萬の修理をしてくれるお店なのですが、その店主こそ、筆者がかつてこの町を引っ越す際に「何者か知りたかった人」に他なりません。
筆者が住んでいた2009年頃ですが、店主の方が黒髪から白髪になったくらいで、あとは何もひとつ変わりません。強いて言えば、筆者が学生から取材スタッフになったくらいでしょうか。「すみません。TBSラジオで『東京閾値』という番組のスタッフをしている者なのですが、取材させていただいてもよろしいでしょうか。」
いただいた名刺には「黄克誠(コウカセイ)」というお名前が記されております。ご年齢は現在、63歳。肌艶は桃色。「お若いですね」と伝えれば「美味しいもの食べてるからね」と莞爾と笑うのです。都合上、松重ディレクターに取材を交代し「野方を代表する謎の人物」の半生を伺いました。
1960年代。カンボジアにおいて極めて裕福な家庭に産まれ育ち(ご本人の言葉を借りれば「ボンボン」)何不自由することなく幼少期を過ごしたコウさんでしたが青年期を迎える頃にカンボジア・ベトナム戦争が激化。富裕層だったコウさんは台湾へと留学(亡命)。その後、台湾での徴兵に際して、知人を頼りに再び日本へと亡命され、もともと手先が器用だったことから電子機器、精密機械の修理方法を独学で身につけ、暫くは原宿を中心にフリーマーケットで生計を立て、2000年代に家賃が安いという理由で野方へとやってこられたのです。この凄絶な人生を、まるで「一回、結婚に失敗したことがある」くらいのテンションで話してくださるのです。聞き手である我々からすれば、途中からコウさんの唇から溢れる言葉の重さに耐えきれなくなり、呆然。
延々と流れ続ける「なんでも修理やってます」という電子音声が、鼓膜を超えて深々と、脳に、刺さるばかり。その後、ご家族はどうなったのでしょうか。無事、再会することはできたのでしょうか。
「地雷にあたって、死んだ。探しに行ったけど、無理だね。泣いたよ」
さらに、続けて、
「一人になって、だから、店の名前も、オンリーワン」。
文責:洛田二十日
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できることなら、お相撲さんがいる町に住みたいですよね。
唐突に不特定多数に同意を求めてしまいましたが、玉ノ井親方の今回のお話を聞いて殊更にその想いを強くしてしまった次第です。
玉ノ井親方が現役を引退し、部屋を継いだのが2009年。お弟子さんたちの育成は勿論のこと、西新井の地元の方々との交流を大切にされてこられたことは放送中でもあった通りです。
「警察署や消防署とタイアップして色々な行事とかに出てですね」
深夜の往来を容貌魁偉なお相撲さんが歩くだけで犯罪率が低下すること請け合い。これは単に屈強な男ゆえの抑止力という意味のみならず、お相撲さんが纏う不可侵性がそうさせるのです。現に野球選手を「お野球さん」、クリケット選手を「おクリケさん」と言わないのに、相撲のプロだけを「お相撲さん」と呼ぶこと自体、神性の証。果たしてお相撲さんの前で誰が自転車を盗もうとするでしょうか、誰がPS5を転売するでしょうか、誰が大統領を暗殺するでしょうか。
足立区の治安が劇的に改善されてきた背景に「玉ノ井部屋」の存在が無関係とは思えません。仮に治安が悪い地域にお相撲さんの一団を派遣したとしましょう。さすれば、あっという間に悪の枢軸は砕かれ、平和の塩が撒かれ、誰もが立ち入り可能な聖域が生まれているはずなのです。筆者は『サンクチュアリ -聖域-』を勝手にそういう話だと思い込んでおります。今から、確認します。どうか間違っていませんように。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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東京には江戸時代から続く老舗が数多く存在いたします。江戸時代から続くお蕎麦屋さん、鰻屋さん、呉服屋さん、そして今回お話を伺った「フクシマ質店」はなんと元禄2年(1689年)創業。元禄です。確か、「見返り美人」とかが描かれた時代です。いつだって「日本史B」の薫りがする『東京閾値』でございます。
例えば江戸時代より続く鰻屋さんであれば、味を守るためにタレを継ぎ足し、継ぎ足しするものでして、先日お世話になった「和竿専門店 東作本店」さんも、江戸伝統技術を継承されておられました。入れ替わりが激しい「江戸=東京」だからこそ「変わらない」ことに大きな価値が生まれます。
一方、「質店」は色々と変わらなくてはなりません。人々から「質草」を預かり、それを担保にお金を貸し付ける業態自体に変わりはありませんが、その「質草」は常に流動的。時には他人の手に渡ることもあります。間違っても三百年以上、蔵の中にG-SHOCKを保管してはなりませんし、それは寺門ジモン氏の仕事です。
質草の種類だって変わります。江戸期は衣類が主だったものでありましたが、今は貴金属類が殆どです。都度、その品物の良し悪しや真贋を見極める審美眼が必要になるわけですが、これだって代々の「伝統技術」があるわけでなく、その代の当主が培ってきたものなのです。今回、お話を聞かせていただいた福島さんは10代目でいらっしゃいますが、そうした意味では10人目の「初代」と言えます。
そんな福島さんから溢れた「両国という町は変わらない。本格的な再開発が何もない」という言葉は、私たちの肝臓を殴ります。「再開発」という単語はわかりませんが、だいたい「住民税」くらい嫌われている単語のように思っておりましたが、決して一枚岩ではありませんでした。新たな人流を産むためであれば、変化も必要という声も当然あるのです。それこそが今回浮かび上がった東京閾値。
ラジオ番組も同じです。変わりゆくものなのです。ちょうど「質流れ」の期限と同じく、三ヶ月間が「1クール」という一つの区切りなのです。番組を継続するためには、自由に使える製作費を捻出しなくてはなりません。ここは筆者自身を質草としてフクシマ質店さんに預け入れ、そこで得たお金で松重ディレクターに渡して番組を作ってもらい、3ヶ月後に松重が迎えにきてくれることを、蔵の中で震えて待つことにしましょう。松重が来なかった場合、筆者が11代目を継がせて頂きたい所存。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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