
(今回のメンバー:キョン、ソキウス)
今回振返るのは、カバー曲に対して各々が思っていることを出し合った回( https://spoti.fi/3bRtSu1 )の続編として設けられた、カバー曲が持ちうる「面倒くささ」「ややこしさ」に関する回( https://spoti.fi/3rapeA5 )。 本編には参加していなかったキョンと改めてその「ややこしさ」とイントロクイズとの関係について考えていくために、(理念的にというよりかは)カバー実践の適切な評価のために設けられた4つの枠組みをここでも導入します。 (この「模倣的カヴァー(mimic cover)」、「演出的カヴァー(rendition cover)」、「変形的カヴァー(transformative cover)」、「指示的カヴァー(referential cover)」の詳細については、本編またはそこに掲載した資料を参照してください。) 【参考:コピバン音源だけのイントロクイズ回( https://spoti.fi/38BKTKJ )
まずソキウスはキョンに、イントロクイズでカバー曲が出題される際に「懸念」していることは何かあるかを尋ねます。 カバー曲の出題割合が高いと自負しているキョンは、「題名」がカバー元と違う可能性がある変形的カヴァー ―「題名」という点では「指示的カヴァー」も違う可能性が高いがここでキョンは挙げませんでした。この指示的カヴァーの捉え方については、この回の後半で再度話題となります。― が出題されたときに、そのカバー先の「題名」で回答しなかった場合について言及。そのような場合には(趣味としてのクイズを楽しむ人たちにとってはもはや当たり前な慣習の一つとなっている)「もう一度」ルールを使ってその場をまとめていること、さらに「原曲」とされるものに限りなく曲調が近いカバーバージョンに対して「注意」を仄めかすという出題者の一手間をここで挙げました。なおキョンは、(キョン自身は明確に区別はしていないがその主旨としては)変形的カヴァーだけに限らず、回答者側での「ややこしさ」は特に気にしていないようです。
これを受けてソキウスはキョンが挙げたような意味での変形的カヴァーの「ややこしさ」も確かに存在すると述べたうえで、特に「演出的カヴァー」と「原曲」との違いという点での「ややこしさ」についてどのように考えているかを投げかけます。 キョンはイントロクイズで演出的カヴァーを「出しすぎてしまう」ことで、「この回答で良いのかな」という困惑を最も生み出しやすいと思われるこのカバーバージョンの「ややこしさ」が、「これじゃない感」を生み出すかもしれないという考え。この考えを聞いたソキウスは、「これじゃない感」を覚える理由について尋ねます。 キョンは、カバー曲は「原曲あって」のものだと考えているということ、そして「普通」の参加者がイントロクイズに求めているような「正統派」(≒「皆のよく知っている」バージョンを出題に用いることで)の早押しクイズを成立させようとしていることという2点から、(「正統派」でないことを予め「標榜」していない限り、)「変化球」ばかりの出題では「普通」のイントロクイズを楽しめなくなるので「これじゃな」くなると答えました。 カバーバージョンも何らかの「芸術的達成」が成されている以上、「原曲」とされるものと原理的には違いが無いはずなのにそこに差が生まれてしまうこの現状をどう考えるかについては、ここで挙がった「正統派」や「普通」といった言葉とイントロクイズとの関係という別のテーマの回で引き続き今後も扱う予定です。
この回の最後は、今回のテーマであるカバー曲の観点で「普通」と「これじゃない」ものとの差について少しだけ触れてみようとします。 カバー曲は「原曲」が無ければ「存在しないはずのもの」、カバー曲はあくまでも「派生」であり「原曲」が「正義」だと考えるキョンに対して、「指示的カヴァー」の例を受けてどのように考えるかを問うソキウス。《楽曲》も《トラック》も「模倣」していないこのカヴァー実践によって「原曲ありき」の意識はある程度相対化できるのではないかと考えるソキウスに対してキョンは、そのようなカバー実践と出会った場合、ある種それが「カバーという認識から外れ」てしまい「へぇー、そうなんだ」という思いに至って、「原曲ありき」の意識から生まれる「嫌悪感」が生まれる余地も無くなるのかもしれないと答えました。