
◎『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』原作ノベルに蔵されている凄まじいポテンシャル(とくに照沢耀子と梨地姉妹のアークが交わる可能性)について
◎映画『聖なるイチジクの種』、その全方位的弱度を徹底的に批判する
◎国家に奉仕する「家父長制」なるものは、そもそも男女双方の共謀によってしか維持され得ない。現にイスラームの規範からすれば、国家主義への黙従は性別問わず有罪である。そして『聖なるイチジクの種』での妻は夫と同程度に体制順応的かつ抑圧的である。にも拘らず、『聖なるイチジクの種』を観た者は「家父長制」への二分間憎悪的ヒステリーによって、妻のほうも(夫と同様に)負っていた罪禍の所在を見過ごしてしまっている
◎スティーヴ・マックイーン監督映画『ハンガー』と比較すると、『聖なるイチジクの種』の映画的瑕疵が際立つ(閉じ込められた体を処罰する側の当事者性が、映画本編に組み込まれていたか? の検討)
◎宇多丸のラジオ番組『アフター6ジャンクション』に寄せられた、リベラル気取りのくせに偏見まみれで映画本編の意味すらろくに取れなかったリスナーたちのメール内容をファクトチェックする
◎他者の味方ヅラしたリベラリストは、「家父長制」とやらの打倒をスローガンとして掲げ、他所の共同性を誤射し続ける
◎『聖なるイチジクの種』には、イスラームの統治に基づく用語が(日常会話のレベルですら)殆ど出てこない。その縮減された設定が、最終的にはこの映画で扱われているテーマを「イラン社会での問題」から「凡庸な家庭劇」にまで弱体化させてしまう
◎『聖なるイチジクの種』後半における「辺境での自閉」は、『007 スカイフォール』の脚本と同レベルの個人心理学的退行である。それは同時に政治性の削除をも招来し、この映画で扱われている問題を「イラン社会全体のもの」から「あくまでこの家庭の内部にあるだけのもの」にまで矮小化してしまった
◎「“国家の内部で抑圧者として働く男の妻” としての社会的ステータスを全く疑わない」有罪性を指摘しないというのは、他ならぬイランの社会で生きている女性たちに対する差別的な態度である(「家父長制」に対する憎悪が自己目的化した自称リベラリストやフェミニストたちは、イランで生きるムスリマの当事者性を無視する自身の態度が抑圧者側と同様であることにすら気づけない)
◎イラン国内での死刑処断に加担している父親の具体的な様子が出てこないため、結果的に男性側の有罪性も甘やかしてしまっている(これこそがイスラームのフェミニストにとって最も許すべからざる要素)
◎以上すべての要因によって、『聖なるイチジクの種』はイスラーム的な強さ/国家主義的な強さ いずれも備わっていない、政治的に無力な作品になってしまった
◎『聖なるイチジクの種』程度の映画を元手にして「抑圧されているイランの人々」について語るなら、それはオリエンタリズムに基づく自文化中心主義である(その態度は非ムスリムのイラン人である Farya Faraji 氏が厳しく批判している)
◎宇多丸と、その番組に嬉々としてメールを送ってくるリスナーたちのような精神性の持ち主に言っておく。後先考えてくれませんか? 他所に迷惑をかけてはいけないと教わりませんでしたか?
◎結論:『聖なるイチジクの種』で取り扱われているテーマは、現在のイラン政府が抱えている問題の中心を射抜けるはずだったのだが、映画の後半でこの家庭だけの「自己責任」「自業自得」の話に縮減してしまったため、本来持ちうるはずだった政治的力能を全く失ってしまった
◎ライアン・クーグラー監督映画『罪人たち』の批判まではさすがにしない(あらゆる文化凋落の極みのような映画。アフロアメリカン当人が自身の共同性に属する音楽をあのように扱ってしまったという事実は、サンダーキャットやフライング・ロータスのような「日本のアニメ大好きアフロアメリカン」の問題系から『アメリカン・ユートピア』の無批判な好評にいたるまで、USA国内におけるアフロアメリカンの愚劣さ、そのすべての決定的帰結である)
◎自身の共同性すらまともに持てないような者が、他所への心配なんてできるわけもない。似非リベラリストたちは二度と他所に迷惑をかけないよう勉強してください
関連稿:
https://note.com/integralverse/n/nce3222e1e402
https://note.com/integralverse/n/n69425e7596e5