
『初めて大泣きした日:発達障害と家族の衝突を越えて』
49歳になった著者は、二人の娘の父として初めて「大声で泣く」という経験をした。きっかけは、家庭内での限界を超えた出来事だった。
著者は大学時代に心理学を学んでいたことから、漠然と自分はADHDではないかと感じていたが、正式にADHDとASDの両方の診断を受けたのは中年期になってからだった。これまでの職場でのトラブルや転職の繰り返し、多くの誤解や失敗が一つにつながる感覚だった。
しかし最も心配だったのは、自分の発達特性が娘たちに遺伝している可能性だった。幼少期から兆候を注意深く観察し、無理に勉強させるのではなく、彼女たちが自然に興味を持てることに集中させるという育児方針を取っていた。
だが家庭にはもう一つの課題があった。それは、母親による娘への非常に厳しい叱責である。日本でも問題になるレベルの言動が繰り返され、アメリカであればソーシャルワーカーの介入があってもおかしくないほどだった。
事件が起きたのは、ある日、長女が母親から頭を押しつけられ、髪を引っ張られるなどの激しい行為を受けていた時だった。著者は黙っていられず身体を割って入った。すると矛先は自分に向き、罵倒から始まり、投げられた物、暴力、そして「離婚しろ」とまで発展した。耐えきれず「やりたきゃやれよ!」と叫ぶと、今度は耳を叩かれ眼鏡が吹き飛び、顔に切り傷ができる事態に。
それでも、彼は次女と長女を抱き寄せ、全力で守り抜いた。相手の攻撃が収まるまで、自分が黙って矢面に立ち続けるしかなかった。
長女を別室へ避難させたあと、彼は初めて涙を堪えきれず声を上げて泣いた。
「こんな家に産んでしまって、本当にごめん」
そう謝る彼に、娘は涙ながらに言った。
「もう我慢しなくていいよ。別れてもいいと思う。ただ一緒にいたいだけだから、お金なんていらないよ」
小学2年生にここまで言わせてしまっていることに、著者は自責の念で胸が潰れそうになる。だが、現実には仕事の不安定さや世間体などにより、今すぐの離婚は不利になると分かっていた。
そして彼は娘に語る。「お父さんは発達障害で、もしかしたらそれが君たちにもあるかもしれない。でもそれを理解し、受け入れ、強みに変えていく道を一緒に見つけよう」と。二人は強く抱き合いながら、大声で泣き続けた。これが彼の人生で初めての、本当の意味での「大泣き」だった。
思えば、アメリカで生活していた頃、つらいことは多かったが一度も泣くことはなかった。だが、今は違う。子どもができ、守るべき存在ができたことで、自分の感情の優先順位が変わったのだ。
発達障害でできないことは多いが、それを最初から伝え、子どもたちにも補ってほしいと正直に話している。弱みを見せることも、信頼のひとつだと感じている。
そして今、50歳を目前に、彼には新たな目標がある。
それは、発達障害を持つ人たちを支援するための組織を立ち上げること。本人たちからの収益は求めず、企業や周囲の理解者に支援を促す形で、当事者が活きやすい社会を作りたいと考えている。
グレーゾーンの人々ほど声を上げにくく、苦しんでいることを彼は知っている。だからこそ、自分の経験を起点に、「居場所」のない人たちに少しでも支えを届けたいと思っている。