
第二部のリーザの場面を軸に、語りの“痛さ”ではなく行動不能としての地下室男を読んでいきます。
みきは、第一部(40歳の独白)→第二部(20年前の回想)という配置が、主人公のこじらせを終生のものとして浮かび上がらせる点に注目。さらに、主観の濁流に客観的事実を少量混ぜるドストエフスキーの叙述のうまさ(例:リーザが札を置いて去る)を指摘します。
のぞみは、自己完結に陥る近代自我への対抗としてテニスのダブルスを参照。二人で“一つの身体”のように動く感覚や、柔道・剣道・将棋に見られる儀礼=共同で場を整える意識から、勝ち負けとコミュニケーションを両立するモデルを考えます。
終盤は、「地下室」は孤立の象徴であると同時に、こもり続けられる“特権”にもなりえるのでは、という論点へ。主人公とは距離を置きつつ、誰の中にもある“小さな地下室”をどう扱うかを話しました。