
現実の出来事における神の叡智と呼ばれるものへの献身、これから起こることはきっとそうなるに違いない、そしてそれは何らかの方向でよい結果をもたらすに違いないという、その考えとその感情、その衝動を何度も何度も自分の中に呼び起こすこと、魂の中にこの気分を呼び起こすこと、そしてこの気分を言葉、 気持ち、想いの中に生かすこと、これが第二の祈りの気分、献身的な祈りの気分なのです。祈りと呼ばれるものの衝動は、こうした魂の気分から引き出されなければなりません。その衝動は魂そのものに与えられるものであり、基本的には今の自分の在り方を少しだけ超えたあらゆる魂に、その祈りの気分が生まれるのです。私たちが祈りの気分とこの気分の表現としての祈りを把握するとき、 私たちは祈りそのものの中に、私たち自身を越えさせる力の導きを見出すのです。なぜなら、祈りが、そのように私たちの中に現れるとき、その祈りは一瞬のうちに私である自己を越えようとする、私たちの内なる力の輝き以外の何ものでもないからです!そして、この努力によってのみ自我が把握されるのであれば、そのとき、その発展の力であるその輝きはすでに自我の中に生きているのです。私たちが過去から学ぶとすれば、その過去の中には私たちが使った以上のものがあるのです。私たちの祈りは神への叫びとなります!