
/ 日本の“緩さ”とアングラ文化 /
/ 韓国とアメリカ的正しさ /
/ 1軍カルチャーと観察者の視点 /
/ アジカンと坂本慎太郎 /
/ 日本の緩さが生んだニコニコ文化 /
/ K-POPの完成度と違和感 /
/ オアシスと90年代の空気 /
/ BUMPと繊細なゼロ年代 /
/ 『秒速5センチメートル』と光の感情 /
/ チェンソーマンと今の物語 /
/ 映画館と幸福の物理感 /
/ 朝のバナナと小さな感謝 /
/ 熊と現実の線引き /
/ 生きる領域が狭まる時代 /
/ フィジカルに戻る幸福 /
/ ポケモンと現実の重なり /
まあ。無能に厳しい社会じゃないんだな。日本は転職してわかったこと。まず結論だけど、ああ、そう。まあちょっといろいろあるけど……あるけど、まあ、まあまあそうだね。うん。いやだから、日本って語るのもあれなんだけど、韓国とかに比べると、なんか、とにかく緩めの社会ではあるよなとは思うよね。だから年功序列とかもそうだね。まあ、今はこれから変わってくるのかもしれないけど。でも、確かにカルチャーなんかも、日本のメインカルチャーというよりは、アングラカルチャーがこんだけ発展しているのって「許し」だと思う。緩いからこそ、あるんだと思うんです。韓国は今、結局成長しているのは、もう成果主義が極まってるっていう、厳しい社会なんだよな。そうだね。
だから、ソウル行った時に感じたのがさ、なんかアメリカみたいだなって思っちゃったんだよね。表面的にはアジアの街並みなんだけど、後ろに流れてる理屈はアメリカ的というか。意識的に「正しさ」を目指す感じ。まあ、それはそれで一つの正解なんだけど。K-POPとか大成功してるわけじゃんか。それはそれで結果出ててすごいねと思うけど、ちょっと「おもんないな」って思う時もあるじゃん。あんま面白くないな、やっぱ。なんだろう。クラスの端っこでさ、1軍だからね、あれ。1軍の文化ってやっぱ面白くないんだよな。なんでなんだろう。
アメリカだったら、ラグビーとかチアリーディングみたいな“ピラミッド”があるじゃん。もうそれって、俺の性格の話になってきちゃうから、わかるけど。エリートのやつが上手になんかやってるの見てても、「はいはい」みたいな。俺はクラスの中心にいる気がしないよな。中心というより、わりと観察者みたいな視点なのかなと思う。歌詞とかの世界でも。観察者で、諸行無常感ももちろんあって。これは俺の主観ね。無常感はあるんだけど、そういうものを捉えた上で観察してるって感じ。自分の意見を張るというより、情景を描く。小説っぽいというか。
クラスの1軍のやつらがやってるのは演劇っぽい。パフォーマンスで、自己主張って感じ。でも、実際身に染みるのは情景とか、観察とか、ちょっと引いた目で「そういうのってあるよね」みたいなことの方が共感性が高い。俺、この前オアシスの音漏れを聴きに行ったんだけどさ。アジカンもあってさ。久しぶりにちゃんと聴いたら「やっぱいいな」と思ったんだけど、アジカンのゼロ年代の歌詞って、世の中に無常感を感じつつ「そこからどう戦うか」って世界なんだよね。『君という花』とか。見えすぎたホームの絶望から、取り戻す、飛び出す、自分の色を見つける、みたいな。ロスジェネっぽいけど、無常感に「抗う」テーマが多かった。
坂本慎太郎は、そういうわけでもない。洗うとかでもないし、諦観でもあるし、「嘘みたいな人たちがいるな」とか、「日常はすすいでってるよな」という感覚。経済指標で測れない。だから、韓国的な場所からはアングラ、インディーカルチャーは出にくいのかな、と。もちろん、俺らが捉えてないだけでシーンはいっぱいあるはずだけど、ここまで巨大化してないんだろうな、とも思う。やりづらいだろうね。日本の緩さが生み出したニコニコとか、そういうのもある。
この前、韓国料理屋に行ったら、ずっとK-POPがモニターで流れてて、ちょっと嫌な気持ちになった。美男美女が踊ってて、もうええでしょう、みたいな。クオリティは高いし、いいんだけど、表面撫でるのもうやめてくれって気持ち。キャベツの葉っぱじゃなくて、芯を食わせてくれ……みたいな。音楽って現実逃避にもなるけど、現実もあるじゃん。現実の良いところだけ持ってきてキラキラにしてる感じが、もういいよって。たくさんあるから。俺は現実を見せてくれるとか、視点を変える方が好き。時間とか気持ちを一回受け入れてから、どう転換するか。坂本慎太郎は「観察して見てる」。で、オアシスが90年代に流行ったのって、そこもある気がする。最初期のオアシスには「こんなクソみたいな状況だけど、まあなんとかなるでしょ」という気分があった。『Live Forever』とかさ。駅で雨の中立ち尽くしてた、みたいな。そういう時代の空気。社会が荒れてるけど、ポジティブさもある。カート・コバーン以降のアンチテーゼとしての「俺とお前は永遠にいけるんだ」って新しさ。強い気の持ちよう、みたいな。音漏れ聴きながらそんなことを思った。
ナンバーガールはまた別だけど、共感する部分は絶対ある。ただ出力の方向が違う。表面的には似てるけど、態度は真逆かもしれない。共通項は「荒れてる時代」って前提だったのかも。90年代のオルタナ/グランジは爆心だよね。で、BUMPに関しては、正直まだよくわかってない。繊細すぎて。どっから生まれてきたのかわからない。でもBUMPが作った流れは、日本のカルチャーに脈々と流れてる気がする。この前『秒速5センチメートル』の実写版を観たんだけど、あれってBUMPを映画化した、って言うと怒られるけど(笑)、BUMP的な繊細な世界観が日本のカルチャーに流れてる、って話。情景描写、光の感じ。その世界に浸ると気持ちいい。言葉にしづらいけど、ある。
そういうモードになると、人間って気持ちいいし、写真集みたいな映画でも良くなる。ある人は「どうでもいいシーンがめっちゃあった」と言ってたけど、それも含めての“体感”なんだろうな。奥山監督は才能がめっちゃあると思った。MVもやってる人で、“きらめきを採る”みたいな感覚がある。シティポップのエモも、情景とか光の感じに近い。次の作品が気になる。
映画の話ばっかりになるけど、チェンソーマンのレゼ編を観た。漫画もアニメも中途半端に追ってたから、ちゃんと観たのは初めて。ただクオリティが高い。今、日本で一番元気な人たちが才能を投じてる感じ。作画の動きはもちろん、彩度や美術のセンスも先端。元々もっとアングラにあるはずの漫画が、メインカルチャーになってるのも面白い。小学生が観てて「大丈夫?」と思ったけど、時代が違うのかもしれない。情報量が多い時代だし、SNSで何でも入ってくる。
主人公の行動原理が「女の子と付き合いたい」みたいな低い欲望から始まるのも、昔の“世界を救う”系の大きな物語とは違う。今っぽい。ダークヒーロー像というか。共感性より「眺める面白さ」。半現実SFで、国家や戦争がバックにある。悪魔の設定も、恐怖が強いほど強力になる、とか面白い。裏設定はキリスト教モチーフもあるらしいけど、そこは半信半疑で見るくらいがちょうどいい。映画は映画単体で面白いかどうかがすべて、というこだわりは俺にもある。土俵の外の設定は勝手にやってくれ、くらいの。
劇場の体験はやっぱり別物。ドルビーアトモスやIMAXで観ると音がすごい。映画って音がすべてみたいなところある。低音の作り方とか、映画館でしか味わえない。ライブを観るのに近い。サブスクで観ても意味がないタイプの作品ってあるよね。ライブ上映やリバイバル上映は最高。『パルプ・フィクション』を福岡で雨宿りがてら観た時なんて、人生の名シーンだった。午前十時の映画祭もいい。朝映画館、幸福感がある。観終わって昼に何か食べて帰る、小市民の幸せだけど、それでいい。
幸せって案外すぐ感じられる。朝、仕事行く前にちょっと早く起きて、バナナケースに入れたバナナ持って川沿いを歩く。太陽に向かってバナナを食べる。恵方巻きみたいに(笑)。太陽礼拝みたいな感じで、「今日も頑張るぞ」と。一駅歩いて、太陽に向かってバナナ食べると、幸せをすごく感じる。セロトニンなのか、太陽光が効いてるのか。「ありがたいなぁ」って。変に“ありがたがりおじさん”にならない程度にね。深夜に帰ってきて、土砂降りでもコンビニが開いてるのを見て「ありがてぇ」と思うのもそう。ファイトクラブの序章みたいに、ちっちゃい現実の幸福。
……で、話を戻すと、俺は紙の本とか、映画館とか、フィジカルな体験に結局戻っていくんだよな。家で最高のスピーカーをそろえるより、映画館に行く。ライブに行く。午前中に何かする。そういう小さな営みの積み重ねが、今の俺にはちょうどいい。幸福の体感速度が上がる。バナナ食べて、太陽に一礼して、「行ってきます」。夜の自由時間は減るけど、それでいい。平日はコンテンツを一本観る余力がない日もあるけど、ゲームを少しやるとか、ラジオを流しながら街を走るとか、それで十分だったりもする。
最近はポケモンの新作を少し触ったり。アルセウスの思い出もある。コロナ禍の時にやって、音楽や大自然に救われた感じがあった。現実社会がだんだん“レジェンズ”みたいになってきたから、ローリングして逃げる記憶が蘇る(笑)。熊に会わなくてよかった、と今になって思う。
まあ、そんな感じ。お腹減った。食べに行くか。食べに行こう。