未聴覚室’25春⑤(全7回)
未聴覚室の第1回〜第57回が〈呪い〉の反応パターンドキュメントだったことに、鶴原が気づく回。※収録時期:2025年3月下旬(54〜57回から約1ヶ月後)
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🔶第58回で鶴原が伝えたかったことの補足
🔹自分の言動の99%が「〈呪い〉の反応パターン」であるというメタ的な認識がないと、外部の原因によって引き起こされる受動的感情の自動機械になってしまうと感じた。
・それが自分にとって好ましくない状態であると直感した。また、〈呪い〉の反応パターンに自覚的であるのが、自分にとって好ましいと感じた→他者比較発、欲望の無限列車編に突入する直感があった。
🔹「肯定」という言葉を多用しているが、ありのままの存在を認める、受容するぐらいの意味。積極的に判断を下すといった意味ではない。
🔹「呪い」という言葉を使用しているが、本編でもあったように〈呪い〉はポジティブな個性やアイデンティティも含んでいる。
・「凸凹」や「かたち」「念」「背景」といった言葉でもいいが、ネガティブな側面を認識する必要があると感じてしまうため、ここでは〈呪い〉とした。→マイナスをゼロに、苦痛を緩和したいタイプの人間であるという〈呪い〉があるため、この言葉をひとまず採用している。→自分の認識であるため、言葉は本質的な問題ではない。言葉が違っていても同じ景色を見ているかもしれない。
🔹言葉で表現しないと気づけなかったということ。→「ウダウダ考えずに、とりあえずやってみる」では、いままでと同じ〈呪い〉の反応パターンとしての行動になってしまうというイメージ。→いままでと違う「とりあえずやってみる」をするには、第58回で述べたようなメタ的なパターン介入の必要性があると感じた。それこそが本当の自由意志なのかもしれないと感じた。
🔹いつもの俯瞰も「〈呪い〉の反応パターン」であることに気づいたということ。
・第1回〜第57回の俯瞰と第58回の俯瞰(と梅澤が感じたもの)は、本質的に違うものだということ。→第1回〜第57回まで俯瞰という反応パターンをしていた。ということに自分で気づいたという事実を、第58回で言葉によって伝えたかった。(これまでのゲームのルールが覆されたようなイメージ)→自分が他者と会話をしている未聴覚室(51回〜57回)の収録と編集を自分で行い、自分で何度か聴くことが、気づくための助けになった。→他者とのコミュニケーションを通してでしか気づけなかった。→また、自分でしか気づけないものだと感じた。(他者に気づかされるが、他者が気づいて本人に伝えるものではない)→そのため第58回の内容も、本当は他者に伝える必要や理解してもらう必要はない。また今回のように得意気に伝えることではないし、伝えてしまうことも反応パターンにすぎない。
🔹これらの認識は、他者(=自分=全体)を受け入れるために、自分にとって重要であると感じたということ。
🔶第58回を梅澤が聞き返して思ったことの補足
別に大きく世界観が違うとは思わないけど、ちゃんと線を引こうとしている鶴原と線をひきたくない梅澤みたいな感じなのかもしれない(どうでしょう?)。最後の方にしゃべっている、「自分が何かをして波及して帰ってくる」を信じたい&自分なりに今感じていることを。※まず大前提として、鶴原自身の大きな気づきという感覚が一番大事で、最大限リスペクトしたい点
- 自分の感じていること①:「結局〇〇だった」や「全ては️️〇〇だ」という言説(ストーリー)は避けたい、と思うので共感はしきれず→その人なりの「呪い」がある、そこに上下はない、超能力実験の時のカードみたいな感じ、「他者とのコミュニケーションを通してでしか気づけなかった」、因果の繋がりがあるよね、肌感が大きい(本で書いてあるやん、と実際は違う)、抱きしめたい、自由意志があることにしたいね、他者を変えることはできない/変えようと思ってはいけない、呪いの元を探らない(なんでこう思うんやろ?を探らない)、あくまで今ここの時点で思ったことを肯定する、論理一貫性を持ち過ぎない、反応ループ感はなんか嫌、いろんな人がいるよ、正しい正しくない判断ではない、自由意志はあるけどないんよ・・は大きく共感
- 自分の感じていること②:暴力性→他者を捉える/他者から嫌な気持ちを受けない方法として、「呪いだよねぇー」は良いツールだと思う。あくまで良いツールで、真理やそうだよね!とは思わない感じ。防衛策→話に登場する韓国のSF作家は、キムチョヨプさんがインタビューで語っている"「他者を完全に理解した」という表現は、ある種暴力的にも感じられます"という感覚が、「呪いの反応パターンに過ぎない」という主張に自分が感じる感覚に近いかも。そう思う鶴原を否定する/変えたい/その主張は違うよ!/間違ってるよと思う/言う/伝えるのは、それはそれで違うと思う。自分の世界はもう少し違うように見えているという話だし、「あなたの行動は、あなたの呪いの反応パターンですよ」と言い切るのは"暴力性"があると、「私」は思う。→本編でも言及しているが、自分の言葉(例:do/be,メタ認知,トランス)で、相手の発言を捉え直すのも"暴力的"(それってトランスでしょ?)。それは時には有効だし、時には何かの欠如に繋がる(コミュニケーション上のキャッチボールじゃない、感じがする)※インタビューhttps://www.cinra.net/article/202312-kimchoyeop_gtmnm
- 自分の感じていること③:理論と個別具体事例→途中で音楽理論とギターを弾こうぜの話をしている流れで思い出した話ですが、「すべての音楽理論は閉ざされたある一つの世界/前提でしか成立せず、前提が変わると適用できない」という話を思い出した。多分自分が言っているのはそういう話。
- 自分の感じていること④:自由意志と呪い(遺伝・生物学/家庭・家族環境/出来事の経験)は分けられるものなのか?砂漠の我愛羅と、彼を纏う砂はある種で同一で、ある種で別物なのでは?→これは病気の経験が大きいかも。病気という、自分自身の意思とは違う(ように感じる)存在や自律神経という意思に関係なく動くシステムの存在を大きく感じた結果、自由意志/呪いという対立区分(のように感じられるもの)はうーん・・・。自由意志的なものと呪い的なものの曖昧さを感じている、という感じ。同一視する必要はないが、完全に切り離せるものではない、感覚。病気は自分じゃないのか?自分の中にある遺伝子は自分じゃないのか?自分の肌にできものができるのは自分ではないのか?つらつらつら・・・。もっと曖昧で、もっとグレーなものなのでは。→いや、これ正解ねーと思うので、聞いた人の意見聞きたい。みんなこんなこと思わないのか?どうなんだろう。みんな、10代でやってるのか?
- 自分の感じていること⑤:「そうなんだけど、もうやめない?」は「私」の変化を大きく感じた瞬間でした→私も鶴原も変化してますね。変化をみなさんお楽しみいただけましたか??