戊辰戦争に敗れた旧幕府側に擁立されていた能久親王は、戦後にプロイセン留学へと旅立ちます。その地で一人の未亡人と婚約をするのですが。。。その後も続いた能久親王の流転の人生を追います。
VUCAの時代と呼ばれる現代ですが、それ以上に大きな変革・動乱の時代が幕末です。その幕末において、もっとも翻弄された人物の一人として挙げられるのが皇族・能久親王です。
日本の10倍の国力を誇ったロシアと対峙した日露戦争。この国難の中で日本海海戦を勝利へと導いた東郷平八郎ですが、その勝利のさなかにあっても浮かれることはありませんでした。
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反対されながらもイギリス留学にこぎつけた東郷平八郎。その学びの成果を近代日本最初の対外戦争である日清戦争で見せたのでした。
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明治新政府が成立すると東郷平八郎はイギリスへの官費留学を希望します。しかし、今も昔も留学には多額の金銭的負担が生じます。当初、東郷平八郎の留学にはある理由で難色が示されたといいます。
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「東洋のネルソン」と呼ばれた東郷平八郎。彼が生まれた加治屋町は、東郷平八郎だけでなく数多くの明治の英傑を輩出したのでした。
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トラファルガーの海戦前にネルソン帝国は「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という有名な信号旗を送ります。ネルソンタッチという新戦法を駆使して、未曽有の大勝利を得ることに成功しましたが、戦闘中の銃弾にネルソンは倒れてしまいます。ネルソンが最後に残した言葉は、「神に感謝する。私は義務を果たした」でした。
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イギリスの首都ロンドンにあるトラファルガー広場。この広場にネルソン提督の銅像が立っています。ナポレオンの野望を打ちのめしたこのネルソン提督は、現代コンプラでは許されざるある違反をしていたのです。
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「地中海に向かえ!」の大号令に成功し、占領軍を追い払ったケマルは、トルコ共和国を成立させます。建国の父、初代大統領となったケマルが次に追い払ったのは、イスラム宗教色でした。世俗化を進める改革への反発と現代に至っての反動についてみていきます。
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第一次世界大戦で最終的に敗北してしまったオスマン帝国でしたが、その中で大活躍したのが、ムスタファ・ケマルという男です。彼の活躍によって当時イギリスの海軍大臣だったチャーチルは辞職に追い込まれました。
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オスマン帝国の改革・革命を目指したエンヴェル=パシャですが、第一次世界大戦の敗北によって亡命を余儀なくされます。しかし、その後も彼は自分の理想・目標を掲げて突き進むのでした。
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ロシアの脅威に晒されていたオスマン朝は近代化を進めますが、なかなか前に進みません。それに業を煮やした青年層が革命を起こして実権を握ります。日本の明治維新を参考にしますが、革命から数年して第一次世界大戦が勃発してしまうのでした。
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関ヶ原の戦いは、西軍にとって無謀であると知りつつ大谷吉継は石田三成への友情に殉じる決意をします。大谷吉継が示した石田三成への忠告と、関ヶ原の戦いでの活躍を紹介します。
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「100万の軍を任せてみたい」と豊臣秀吉に言わしめた大谷吉継。彼は石田三成と深い絆で結ばれていましたが、それにはある茶会でのエピソードがあったといわれているのです。
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現代では皇居にも銅像がそびえたっている楠木正成ですが、実は彼が忠義の士であると評価されるようになった背景には、水戸の黄門様である徳川光圀と明から亡命してきた朱舜水という朱子学者による再発掘があったのです。そして、楠木正成と石田三成の意外な共通点とは。
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後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府滅亡への戦いで籠城戦・ゲリラ戦で大活躍した楠木正成について、ご紹介します!
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スペイン継承戦争でバイエルンを占領され、フランスへの亡命を余儀なくされたマクシミリアン2世エマヌエル。彼の代ではバイエルンは「王国」に昇格することはできませんでしたが、ニンフェンブルク宮殿の拡張工事やハプスブルク家との婚姻外交などを経て、息子はなんと非ハプスブルク家として300年ぶりに神聖ローマ皇帝となったのでした。
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ドイツ南部の要衝の地バイエルン。ここの領域の格は「選帝侯」でした。できれば「王」を名乗りたい。しかも同格だったプロイセン選帝侯は、1701年に「王」を名乗りだす。そんな中マクシミリアン2世エマヌエルはスペイン継承戦争でフランスに味方する決断を下します。
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陰謀うごめく玉座に幼いときからつけば「狂気」をまとうのはある意味仕方ないかもしれません。しかし、その狂気が家臣の心を惑わせるとなると国内は混乱をきたしてしまうのです。賢明王の父と勝利王の息子に挟まれた、狂気王シャルル6世をご紹介。
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バイエルン王ルートヴィヒ2世は、ノイシュヴァンシュタイン城を建設します。ウォルト・ディズニーにも影響を与えた世界遺産。しかし、既に城は軍事的機能としての意味を失い、王の住まいであればヴェルサイユ宮殿などがもてはやされる中、中世騎士道を夢見た浪費がバイエルン随一の観光資源に繋がったのでした。
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