お彼岸の法要で法話をさせていただきました。
さとりの世界を意味する「彼岸」は仏さまの「悲願」の世界
念仏申し候えども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、
またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは…
親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
念仏者は無礙の一道なり
そのいはれいかんとならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえなりと云々。
名号
帰命尽十方無礙光如来
南無不可思議光如来
御同朋 御同行
信楽坊が親鸞聖人の門下を離れて故郷にかえるとき
の蓮位房と親鸞聖人のやりとり
セムチェン・タムジェ かつての恩深き父母である全ての有情
一切皆苦
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
親鸞は亡き父母の追善供養のために、念仏したことは、かつて一度もありません。
一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、育むことですが、
しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏のさとりを得させていただいて、
大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、
思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。
ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便ろおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。
悪人正機 善人傍機
含華未出
「往生を得といへども、華に含まれて未だ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。」
「本願疑惑の行者には含花未出のひともあり」
疑城胎宮
無疑(疑いが無い)
七仏通誡の偈
諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善はつつしんで行え)
自浄其意(自らその意を浄くする)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)
廃悪修善の道 聖者の道
「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき」
第三条
善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のなめなれば、他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
歎異抄第二条のラストの部分で、#1の続きのエピソードになります。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞の申すむね、またもってむなしかるべからず候ふか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、
面々の御はからひなりと云々。
「是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり」(和讃より)
愚禿釋親鸞
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(法然上人)
歎異抄第二条のエピソードです。順番が前後しますが、#1の法話会の前の月のエピソードになります。