ちょっと前まで「学校行かないうちのコは他の子が当たり前にできることを出来ないおかしい子なんだ」と思ってました。
でも今、学校へ行かないことがあまりに当たり前になってしまったらこの価値観が逆転。なんでわざわざみんな学校なんて面倒なとこに行ってるの?になってるんです。
【当たり前】の価値観って、結局自分がどこに身を置いてるかでしかないなと思ったし、だからこそ自分は自分、人は人。
私はこう思う!はあっていいけど、私と違うあなたがおかしい!は、別に言う必要ないんだろうなと、そんな話。
人は大きく分けると〈外向型〉と〈内向型〉という2つのタイプに分けられるのだそうです。
私はバリバリな内向型。何かが起こったとき「自分が起こした行動」をまず考えるタイプです。
ちなみに外向型は、何かが起こったときにまず「誰かが起こした行動」を考えるタイプです。
この2者が同時にいるとき何かトラブルが起こったとします。
外向型は外側に問題を探し、内向型は内側に問題を探します。
そうすると、どうでしょう。ほとんどの問題は、内向型が抱えることになるのです…
多くの人が当たり前に使っている連絡ツール、LINE。でも知らないうちにこのLINEに縛られた行動をしてしまっていたりしませんか?
思い切って消したら、とっても楽になった。そんな話です。
今回のお話で紹介した本はこちら
自分が育ってきた環境に対する違和感と、今まで生きてきた世界と自分の不一致感の答えが出たかのような本でした。
もし、親に愛された実感がもてなくて、かつ、世界と自分が何だか噛み合っていないという感覚をあなたが持っているのなら、この本を読んでみてください。
最近収録済み音声がたまってきたので、ちょこちょこと配信日以外でも放流しております。
こちらの話はかなり前に収録した話。
誰かが「大丈夫、気にしないで」と言った時、本人がそう言ってるなら大丈夫なんだろうと話を進めてしまうことってあると思うのですが、ことばの裏に本音がある可能性は常に考えたほうがいいんではないかな、という話です。
学校行きたくない娘が学校の勉強のことを「何が芽吹くのかわからない種」と例えていて、なるほどなぁ!と思ったのでそれのお話をしています。
畑に何を植えるか、勝手に大人が決めちゃってるのってよく考えたらおかしいかもしれませんね。
苦手なことは、出来るようになっておいた方がいい…という考え方。
苦手なら頑張らなくていいという考え方。
どちらが正しいかを問うつもりはないですし、どちらの方が人生に過干渉かを決めるつもりもありません。
ただ私なりの考えを話しています。
正常性バイアスって知ってますか?
つらいことが起こっても、こんなの大したことではないと思い込むことでつらさを感じなくさせてしまうこころの麻酔みたいなものです。
確かに大丈夫になるんです。痛みを感じなくなるから。でもあくまでこれは麻酔でしかない。傷ついてるなら本当は大丈夫じゃないんですよ。
放送内で出てきたnote
シミ、シワ、白髪…
年を取ると見た目の老化が気になってしまうものですが、なんで気になってしまうのだろう?と思った話です。
子どもの背が伸びたり、声変わりしたりするのと同じで『体の成長』だと思えばそんなにネガティブなものではないと思うのですが、なんでシワやシミが増えることは悪いことのように扱われるのでしょう??
とりあえずひたすら可愛いだけのモフモフ動画を見てください。
話はそれからだ。
服が裏返しだと恥ずかしいと思うことがあるとしたら、それは間違いだからという意識があるからだと思います。
では、もし本人があえてその状態を望んで着ていたら服が裏返しなことは間違った着方でしょうか。本人が望むなら、本人にとっては正解かもしれません。
そういうことを考えだしたら他者の間違いを指摘することって案外不毛なのかもしれないなと思うのです。
仏教では、人生は基本的に苦しいものだという教えがベースにあり、キリスト教では、人生は生まれてきたことが幸福であるという教えがベースにあるみたいです。
(あくまで私がざっくり読み解いた感じでは)
私は、その2つのいいとこ取りするのがいいんじゃないかなぁと思っていて。
今回はそんな話をしています。
私がずっと連載していた漫画、自閉日記を完結させたことは以前放送でお話しましましたが、その時来た反応に私がとてもイラッとしたものがありました。
でもイライラしながらその人とやり取りしているうちに、私は、自分自身がそういう態度で作品づくりをしてしまっていたことに気づかされたのです。
それはまさに、他者は鏡なのだなと思い知った瞬間でした。
とある炎上を見ての話。
こういう話題はセンシティブなのでもしかしたら後から放送消すかもです。
ある視点から見たときに、ひとつの発言が間違っていると感じたとします。
そう感じることは悪いことではないです。
でも同じように感じた人が多数で相手を殴るのは、私は、悪いことだと思います。
自分が誰かを殴るのは正義の名の下にやっていることだからいい…なんてことはない。
その正義も、別な視点から見たら間違いなんです。
じゃあそれも叩いていいのかと言い出したら、もう人類全員で殴り合いです。そんなの嫌だなって私は思います。
小学校入学前には診断がついて特別支援を受けている長女は、30人くらいの一般的な学校という集団を知りません。
それを知らないことでもしかして将来困るのかなぁなどと思う事もあったんですが、知らないからこその強みもあるなど娘の発言を聞いて思ったのです。
そもそも大人になっても何十人もの集団の中で立ち回る機会なんて実はそうそうなくて、学校で集団生活しててよかったー!と思ったことなんて案外ないかもしれない。学校というところがむしろ人生で一番異質な集団なのかもしれません。
そしてそれを避けて生きられるということは…?
大人の発達障害診断を受ける方が近年増えているそうです。わたしは、その事自体はとてもいいことだと思います。
ただ、診断を受けて、あーじゃあ自分はダメなんだと諦める材料にはしてほしくないな、と思うのです。
スニーカーの人が歩きやすいところでも、ローラースケートでは歩けないかもしれない。でも、ローラースケートの方が都合がいい場面は往々にしてあるのです。
靴を履いてないとしても、実は水かきがあるかもしれないし翼があるかもしれない。
診断を受けることが、自分が他者とどう違っていて、何を持っているかを知る手立てになってくれたらいいなと思っています。
あまりに幸せなので、更新曜日ではないですがリアタイで上げます🫖
人は頑張ったことを認められたいし、頑張れなかったことを責められたくない。こんな当たり前のことをヤカン磨いただけで知れるとは思ってませんでした。
素敵なコメントくださった方、また、ある意味気づきを下さった母親のようなコメントしてきた方全てに感謝です!
ヤカンは汚れててもいい。
ただ、綺麗だと気持ちいいのも間違いないです。
その価値観は人にわざわざ押し付けるものではないし、汚れていることは否定されることではないと、思うのです。
4年くらい描き続けてきた自閉日記、ずっと続けることに迷いがあったのですが完結させることにしたお話です。
電子書籍リンク→https://amzn.to/4mvJtBh
noteにもっと深堀りした文章を載せてるのでこっちも読んで見てくださいね。
自分の中にある当たり前にできることって、自分にとってあまりに当たり前すぎて他の人が出来ないことが信じられないことがありませんか?
でも、できない人にとってそれは本当に出来ないことだし、出来ているとしたらすごく頑張っていることだから、それを知ろうとすることはとても大事な事なんじゃないかな、と思うのです。