
◎マクラ
●いまマット・アルト著『日本は文化戦争への備えができていない』の内容を好意的に引用している人たちは、いつか必ず赤っ恥をかくことになりますよ
●なぜアニメやマンガが “あらゆる政治傾向の人々にファンを見出してきた” かというと、それは日本のマンガ作品(とくにBLや百合などの同性愛表象が含まれているもの)には、あらかじめ政治性が含まれていない(削除された商品だ)から
●中沢啓治やトッド・ヘインズや田亀源五郎などの例から論じる、当事者性に根差した政治的作品たちの(極めて貴重な)存在
●↑とは違う、政治性が削除された、気安く悪酔いできるストロングゼロ的作品が市場の大半を占めているのが日本国の実状である
●デンゼル・カリーの無知かつ無邪気なアニメ礼賛を批判する(20世紀カンフー映画と21世紀ジャパニメーションは全く違う)
●フライング・ロータスやサンダーキャットは「もはや政治的ではない世界宗教」の聖典を求めていて、それがアニメやマンガなのである(前世紀におけるコルトレーンの迷走ぶりの、凡庸かつ退屈極まりない変奏)
◎第2題:学園祭のケンドリック・ラマー(第59回NFLスーパーボウルのハーフタイム・ショーにおけるパフォーマンスを徹底的に批判する)
●アマチュアを卒業するための最低条件=仕事を頼んだ相手に得をさせてあげること、さらなる能力を引き出してあげること(ケンドリックはダンサーたちに対してそれすらできていない)
●弾性のかけらも無いが、その一方で『アメリカン・ユートピア』のように硬直しているわけでもない、実に中途半端な群舞
●(今更だが)『Sing About Me, I'm Dying of Thirst』の歌詞への構造分析的批判
●日本国在住のムスリムとして、マーティン・ルーサー・キングJrの名を貶め続けているUSAのプロテスタンティズムを批判する
●マリク・エル=シャバーズは黒人至上主義者ではない
●『I'm Dying of Thirst』最後の場面が Baptize であったことは、後にケンドリックが自身の内面へと逃避し、ついには政治性を放棄するに至るまでの先触れを告げていた(それは21世紀USAのプロテスタンティズム=国家崇拝・さらに「ローマ皇帝の哲学」にして「自己啓発の源流」でもあるストア派の今日的受容の有様も含め、すべて脈絡がついている。ケンドリックの堕落は思想史的に考えれば必然的帰結でしかない)
●“ I choose me, I'm sorry” ←もはやラッパー云々ですらなく、人間が言えるセリフとして最も醜い
●『Not Like Us』の “A-minor” のくだりをせめて面白く解釈するための方法(ドレイク側から考える)
●SZAはUSA国籍ムスリマの面汚し ケンドリック・ラマーはUSA国籍クリスチャンの恥晒し BewhYは韓国籍クリスチャンの誇り
●徹底的な非政治化を経たあとのケンドリックだからこそ、スーパーボウルのステージに最も個人的=非政治的なトピック(ドレイクとのビーフ)を持ってきたのである
●トゥパックがまだ生きてたとしてさ、わざわざスーパーボウルのステージでビギーをディスったと思うか?
●ケンドリックを論じること=21世紀のヒップホップを論じること だと錯誤している輩は、ノーランを論じること=21世紀の映画を論じること だと思い込んでいる輩と同程度にイタい
●“Hip hop is truly dead.” ←結局、クエストラヴのコメントが一番正しかった
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