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聖書……新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15節(喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい)
【メッセージの要旨】
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」これはパウロという苦労人が最後に書いた、彼の人生の集大成のような手紙に書かれている勧めです。
パウロはエルサレムから遠く離れたタルススという、今のトルコにある地中海沿岸の町の出身ですが、そこからエルサレムに留学して律法学者としての学びを修め、その熱心のあまりキリスト教徒への迫害のリーダーになりましたが、その途上で回心し、キリスト教徒になりました。
そのために、ユダヤ教徒から「裏切り者」として命を狙われ、ローマ帝国からは迫害を受け、キリスト教徒たちからは「かつての迫害者」として信用されずに恐れられ、おまけに何らかの「とげ」がその身に刺さっている、何らかの障がいか病気があるかもしれない、さらにはコリント教会のように、彼とは見解が違う教会が現れて、論争的な手紙も書かなければならない……そのような四面楚歌の状況でキリスト教の宣教を続けた人でした。
そんな孤独なパウロが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉を発したのは、彼がそのような数少ない人びとに助けられた体験がもとになっているのかもしれません。
この言葉を聞く時、私は聖マルティヌスの伝説を思い浮かべます。
聖マルティヌスは、凍える寒さの中、物乞いに自分のマントの半分を切って与えます。すべてを与えたのではなく、半分です。
すべてを与えることができたのなら、もっとこの話は美談になったのでしょうけれど、実際には半分でした。しかし、半分だからこそ、彼は物乞いと共に温かさと寒さを分かち合いました。つまり、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いたわけです。
私たちのなかにも、仕事や、ボランティアや、近所付き合いなど、いろいろな場面で、人の役に立ったり、何かを与えようとしたりすることがあると思います。その時、ひょっとしたら、すべてを与えることのできない、自分の弱さや限界を感じることもあるかもしれません。
しかし、私たちは全てを与えることができなかったからといって、自分を責める必要はないのではないでしょうか。半分だけでも、与えることができたら上等なのではないでしょうか。
自分を守りつつ、相手を守る。それが許されているのではないでしょうか。
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