今回取り上げるのはちょっと珍しい南北朝時代の人物です。初めて知ったのですが、そのドラマチックな生涯は一聴の価値ありかと。
通常狂うとはネガティブな印象ですが、それだけでもない複雑な要素を纏っている気がしているのでそのあたりを掘ってみました。
人の思想は先天的なもの、後天的なもの、どちらの影響が大きいのでしょうか。それぞれの価値観があり、なにがそれを分けるのでしょうか。
白川静・著「孔子伝」をたかひろが読んだので感想を教えてくれています。まだまだ掘れます。
・書籍
白川静 著 「孔子伝」(中公文庫) www.amazon.co.jp/dp/4122041600
普通に考えれば対義語なので両立するわけはないのですが、ふたつの異なる視点においてはあるかもしれない、そんな可能性を探ります。
もし人間が生理的に睡眠を必要としなくなったなら、現実と比べてどんなことが変わるだろうか?
そんな疑問をあれこれとりとめなく話しました。
たかひろがNetflixで観た作品の中で面白かったものをプレゼンしてくれる回です。
たまにはこんなのもいいかと。
何かを選ぶ時の選択肢の数は、人間にとって普遍的にベストな数があるのだろうかという疑問を掘ってみています。
物事を実際以上に無闇にわかりにくくするのはよろしくないと思います。
しかしわかりにくいこと、難しいことはそれ自体で悪とは言い切れない気がする話です。
客観的、主観的、とありますが、客観的の方が上等であるという雰囲気をいろいろな場面で感じます。
客観的であることの価値はどこから来るのだろうか?を考えます。
前回(#48)話した定量化もその客観性が重要なのでしょうし、興味深いテーマです。
優しさや夕陽の美しさなど、定量化しがたいとされるものも含めて、もしあらゆる事物を定量化できたなら(ただしその数値は完全に信頼できるものとする)、人間社会はどうなるかに想いを馳せました。
友と師、どちらも重要でありますが、人間が生きる上でどちらがより不可欠かを議論しました。
ネガティブという言葉にはそれ自体悪いイメージがありますが、それを疑ってみるという試みです。
前回#44からの続きです。
2000年以上前の話なのですが、登場人物の振る舞いや行動原理には現代人の感覚でも理解できるところも多くある、というところが興味深いです。
人間は変わらずおんなじことをやっているのだなとも思いますし、遠く時空を隔てた人々と繋がっているような気になれるロマンも感じます。
項羽と劉邦シリーズ、今回は韓信を取り上げます。前回(#30および#31)では後半急に登場し大活躍した彼の一生を紹介します。
長いので今回は前編です。
参考文献
小説
・司馬遼太郎「項羽と劉邦」www.amazon.co.jp/dp/B00W1FH0GY
・宮城谷昌光「劉邦」
www.amazon.co.jp/dp/B00ZRVIJL4
漫画
・川原正敏「龍帥の翼 史記・留侯世家異伝」
www.amazon.co.jp/dp/B01N5HM2OF
・横山光輝「項羽と劉邦」(電子版はebookjapan専売)
www.amazon.co.jp/dp/4267890048
書籍
・司馬遷、和田武司(訳)、山谷弘之(訳)「史記(4)逆転の力学」
www.amazon.co.jp/dp/B01DM1VQPG
不快に感じるということそれ自体を正当化の根拠とし、ある行為を不当と定義することはできるか、その論理はどういうものか、そんな疑問から話し始めました。
去年と同様、周年に際してこの一年を振り返ります。備忘録的雑談なのでお気軽にお聞きください。
13世紀南宋末期の人物、忠義の士として有名な文天祥について話しています。彼を語る上で欠かせない科挙という試験についても触れながら、彼の人となりに思いを巡らせました。
完全(ないし不完全)であることが背景にある美、それぞれの美について考えを巡らせてみました。
興味深かったので、美しいという観念についてものちのち話してみたいと思いました。
天才と凡才の違いを考える上で、特殊な存在とされる天才の方を主に考えています。
そこから発展して、そもそも才能というものをどう捉えるか、なんていう話になりました。