
コリント人への手紙第一13章1ー2節
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」
聖書中最も格調高く、最も愛されている章の一つが今日の第一コリント13章です。愛の章と呼ばれ、4節からは「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」というように、愛が何であるかについて美しい言葉で表現されています。キリスト教式の結婚式では必ずと言っていいほど読まれる定番の聖句です。
パウロはコリントの教会の様々な問題点を、12章までに極めてストレートに指摘してきました。分裂・分派の問題、教会内での差別の問題、不品行の問題、礼拝における無秩序の問題などです。これだけ問題点が多いと、コリントはまるで学級崩壊している中学校のように、もはや教会という体をなしていないのでは思えてしまうのですが、実はパウロが1章で述べているコリント教会の実態は、実に素晴らしいものです。少し書き出してみると、「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。」などと書き送っているのです。コリントの教会はある意味で、とても霊的なものに熱心で、賜物も与えられていて、賞賛すべき点も沢山ある教会でした。14章には異言や預言のことについての教えがありますが、そのようなこともコリント教会の特徴だったのです。
しかし結局、どれだけ熱心であっても、どれだけ霊的な雰囲気を持っていても、どれだけ賜物が与えられていても、どれだけ異言や預言が語れたとしても、キリスト者にとってもっとも大切な「愛」が欠けているなら、すべてが無意味だというのです。1節では、「たとえ異言が話せたとしても」とあり、2節では、「たとえ預言の賜物やあらゆる知識や素晴らしい信仰があっても」とありますが、まさにこれらはコリントの教会が誇っていたものです。それら自体はもちろん素晴らしいものです。しかし、結局愛がなければさわがしいどらやシンバルと一緒で、何の意味もないのだ、と極端なまでに愛の優位性を説いています。愛がすべてです。最後に勝つのは愛なのです。
現代の教会において、私たちが求めているのは何でしょうか。教会に多くの人がやって来ること、活動が活発になること、讃美や祈りが何時間も捧げられ霊的な雰囲気に溢れること、立派な説教が語られること、などがあるかもしれません。そのようなことも必要でしょう。しかし、究極的に私たちが求めることは一つしかありません。愛です。神を愛する愛、そして隣人を愛する愛。イエスもすべての律法は結局ここに集約されると言われました。その愛を体現したのが十字架です。私やあなたのために命を捨てるほどに、イエスは私たちを愛してくださいました。今日一日、私たちが神の愛に満たされ、家庭において、仕事場において、社会において愛を実践することができますように。