
コリント人への手紙第二1章4-5節
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。」
昨日で第一コリントが終わりましたので、今日からしばらくコリント人への手紙第二からお話をしていきたいと思います。この第二コリントの成立に関しては諸説ありますが、一般的なお話をします。実はパウロは第一コリントの前に、今は失われている別の手紙を書き送ったであろうと言われています。その手紙に対する返事をコリント教会から受け取って書いたのが第一コリントです。その第一コリントをコリントの教会が受け取りますが、どうやら教会はパウロに対する印象を悪化させたようです。その報告を聞いたパウロは、弁明のために別の手紙を書いて送り、それを読んだコリントの教会はようやくパウロの意図を理解し悔い改めの手紙をパウロに送るのです。それを受け取り、安堵したであろうパウロがここで書き送ったのが第二コリントです。なので、失われている手紙が少なくとも1通ないし2通あり、それも含めてパウロとコリント教会との間に書簡のやり取りがなされたのです。
昨日、オレゴン州に住んでいるある古い知人とメッセンジャーというSNSを使って、彼が最近出版した本についてやり取りをしました。ものの5分で2往復のやり取りが出来たのですが、パウロの時代は、書簡が一往復するのに一体どれくらいの時間がかかったことでしょうか。郵便局も宅急便もありません。危険と隣り合わせの旅をしながら届けてくれる人の存在があり、書簡を託された人は大切に抱きかかえながら目的地まで届けたに違いありません。そのように何か月もかけて届いた手紙を受け取った教会は、きっと一言一言丁寧に読みながら書き手の思いを感じ取ったことでしょう。今や聖書はスマホやタブレット端末でも気軽に読むことができますが、聖書の著者らが神の霊感を受け、恐れつつ書き記していったときのことを想像しながら、私たちも畏怖の思いをもって御言葉に向き合いたいものです。
さて、前置きが長くなりましたが、このようにして書いた手紙の一部が今日の御言葉です。パウロはたとえどんな苦しみの中でも、神が慰めてくださることを強調しています。そして自分たちが慰めを受けることで、苦しんでいる別の人を慰めることができると語っています。神からの慰めは次から次へと信じる者たちの中で循環し、苦しみの中にある人を癒すのです。そしてパウロは、私たちが受けている苦難はキリストの苦難であること、そして苦難が溢れているように慰めがあふれていることを告げます。これは、パウロがローマ書で語った「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」という言葉を思い起こします。苦しみがあればあるほど、そこに慰めと希望が湧き出るのです。キリストの十字架の死が私たちに永遠の命を与えたように、私たちはキリストにあって苦しみに会うことさえ喜ぶことができます。これが人知を超えた神の力です。私たちの信仰の源はここにあります。私たちを神の愛から引き離すものは何もありません。今日もこのお方を見上げ、この方にすべてを委ね、一日を歩んでいきましょう。